第4話 桜の花に囲まれて

 花のトンネルが終わるのは唐突だった。


 どれくらい歩いたんだろう。

 桜の花びらしか見えない視界では距離感なんて無くて、幻想的な景色に時間の感覚も遠くなっていた。


 ざあ、と花びらが風に鳴った次の瞬間。

 一面の桜は姿を消して、かわりに広がっていたのは緑の丘。丘の上には一本の大きな木。

 

 ひとつ目はいつの間にそこまで進んだのか、丘のてっぺんで木を見上げている。

 振り向けばどこまでも続く緑の裾野。たったいま歩いてきたはずの桜並木はどこにもない。

 ここでひとつ目とはぐれたらどこにも行けなくなってしまいそう。


 そう思うと、背中がぞわりとする。

 慌てて丘を駆けあがった私は、ひとつ目が見上げているのが桜の木だと気がついた。


 遠目には樹皮の黒い木だとしかわからなかったけれど、近づいてみれば葉のない枝にびっしりとちいさなつぼみをつけている。

 つぼみはどれも今にも開きそうなほどふくらんで、木全体にほんのりとやわらかな色味をまとわせていた。


「ねえ、この桜って」


 言いかけて気づく。

 ひとつ目の見上げる木の上。枝先に腰掛ける女性がいる。


 彼方を見つめている女性が腰掛けているのは、私の指くらいの細い枝。

 けれど枝は折れることなく、しなることもなくただすんなりと空に伸びているのを見るに、彼女もまた人では無いのだろう。


 けれど怖さは感じない。それよりもむしろ。


「すっごい美人……」


 天をあおぐ横顔の美しさに見惚れてしまう。

 一瞬で心を奪われるほど艶やかなのに、瞬きの間に消えてしまいそうな儚さ。


 あの姿を私は知っている。


「桜……」

「そう、桜の精。姫、と呼んでいる」

 

 思わず呟いた私に続けるように言ったのは、ひとつ目。

 顔は木の上の女性を見つめたまま、彼は焦がれるような声をこぼす。


「名を尋ねても答えてくれない。何を尋ねても答えてはくれない。いつか振り向いてくれると信じて見守ってきて、ようやくここまで木が育ち、つぼみが膨らんだ。だが、咲かない」

「咲かない? まだ春になったばかりだからじゃないの?」


 あたりは暖かい。

 だけど花は季節のものだもの。待っていれば、いまに開くものでしょう。


 そう思ったのだけど、ひとつ目はゆるゆると首を横に振る。


「咲かない。ずっと待っているが、季節が何度巡ってもまだ咲かない。ずっと、ずっとそばで見ているのに」


 平坦な声ににじむ寂しさが胸をつく。

 本当に長い間、待っているんだとわかった。

 彼が妖なら、生きている時間は見た目からうかがえるそれとは違うはず。

 妖はいちばん力を発揮できる姿形を取ると聞くから。


 彼はどれくらい長い時を待っているのだろう。

 桜の木が大きく育つまで待ったと言っていたから、まだ苗木のようなころから見守ってきたのかもしれない。


 ただ広いこの空間で、空を見上げるばかりの彼女とふたりきり。

 静かに過ぎるその時間は、どれだけ長く感じただろう。

 

「私に、何かできるの?」


 問いかけてしまったのは、力になりたいと思ったから。

 私をここへ引き込んだのが彼ならば、私で役に立てることがあるからのはず。


「ああ」


 振り向きざま、ひとつ目が私の腕をつかんだ。

 無機質な面に描かれた大きな目にとらえられて私は動けない。


「足りない何かが俺にはわからない。けれど姫があなたをここに招き入れた。ならば鍵はあなただ。あなたの力を借りたい」


 言い終えるのを聞き届ける前に、背中を強く押されてたたらを踏む。

 目の前に迫る桜の木の幹。


 ぶつかる、と思わず目を閉じたけど、衝撃は来なくて。

 なんで? と開けた目を見開いたのは、私が空に向かって落ちていたから。

 ううん。空じゃない。これは、桜の精に向かって吸い寄せられている……?


「なにこれ、どうなってるの!」

「あなたを捧げて、姫を満たしてほしい」


 一途な懇願。

 でもさあ、それって人のこと突き落としてするものじゃないよね?

 妖にそういう常識を求める私が悪いのかもしれないけど、でも、でもさあ! 捧げるって、それってつまり生贄ってこと?

 相手が妖なんだってことに改めて思い至って、ぞっとした。


「助けて、シャクマッ……!」


 逆さまの視界に映るひとつ目が遠ざかっていくなか無意識に叫んだのが、今日が初対面かつ、ほんの短い時間会っただけの天狗の名前だったのは、なんでなのかな。

 自分でもわからない。


 それについてじっくり悠長に考えている時間なんてもちろん無くて、私はなすすべもなく落ちていく。


 伸ばした手を黒い羽根の天狗がとって助けてくれる、なんてことももちろんなく。

 落ちる、落ちる、落ちる。


 たくさんのつぼみを抱えた枝の先を目がけて、枝の先に腰かける美女を目がけて、落ちていく私に身体の自由なんてない。

 ぐるり、くるり、宙に投げ出された私の身体が回転して、いつの間にか桜の精が目の前にいる。


「っ!」


 虚空を眺めていた彼女がこちらを向いていた。

 長いまつげに彩られた瞳は、どこを見ているとも知れずぼんやりと開かれたまま。

 だけどその凪いだ目のなかに、私が映ってる。


 姫が、私を見てる……?


 そこまで見てとるのが限界。

 姫との距離がゼロになり、私の意識はとろりと溶けた。

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