第3話 知らないってわくわく

「さくら、いちご、うぐいす、よもぎ、おだんご、たけのこ、炊き込みご飯……だめだぁ」


 仕事の帰り道。

 指折りつぶやき天を見上げた私の頭上に、テラがひらりと姿を見せた。


「なにがだめなのでス? どれもうまい春の糧ではないですカ」

「そうなの。どれもおいしいんだけど、でもね、私が働いてるのは洋菓子屋さんなのよ」


 言葉で聞くより実物を見せたほうがわかりやすいだろうと、手提げかばんから取り出したのは試作品の入ったパウチ。

 チョコがけされたたけのこ型のクッキーはさくりとしていておいしい。両手で抱えてかぶりついたテラも「おいシ!」と目を輝かせているけれど、このクッキーは超有名なスナック菓子を思い浮かべてしまうという難点がある。


「さくら型のパイはあるし、いちごを使ったお菓子は珍しくないし。なにか春の新作お菓子を作りたいって店長が言うんだけど、どうしてか和菓子向きのものばかり浮かんじゃって」


 さくり、さくり。てくてくてく。

 お菓子をつまみながら妙案はないかと考えながら歩いていく。

 慣れた道だ。視界に透けた妖はちらつくが、見えたところでぶつかることはない。「界がずれていますかラ」というテラの説明はわかるようなわからないようなものだけれど、害がないならまあいいでしょ。


「はる~はる~。春らしくて洋風で、ちょっと珍しいけど万人に受け入れられやすいお菓子~」


 そんなものを気軽に思いつける頭はないけれど、考えるのはタダだから。

 考え考え歩く帰り道、夕暮れに冷えた風を感じて思わず立ち止まり、上着をかきあわせる。


「うう、さむ……うん?」


 まだまだ陽が落ちれば寒い、と思いながら顔をあげたとき、視界の端にうす桃色が見えた気がした。

 ううん、気のせいじゃない。たしかに見えた。


「あれは、さくら?」

「ぬシ?」


 きょとりと首をかしげたテラにもわかるよう、指さしたのはすこし離れたビルとビルの間の暗がり。


「ほら、テラちゃん。あのビルの間にさくらが」


 ちらり、ひらり。

 早々に夜闇が落ちた建物の間に、時折ちらつくうす桃色。

 思わず吸い寄せられるように足を踏み出した私の襟首をテラが引っ張る。


「わ、わ! いけませン。あれは妖の」

「ちょっとだけ。危なそうだったらすぐ帰るから、ちょっとのぞくだけ。ね?」


 必死に止めようとしてくるテラには悪いけど、好奇心のほうが勝っちゃった。

 だって通いなれた道で桜の気配。日本人ならついうっかり足を止めてしまうものでしょう?


 そんな言い訳を胸に暗がりへ踏み込んだ、その途端。

 ふわ、と甘やかな風に包まれた。

 ほんのりと甘くてやわらかく、やさしい温もり。

 驚いて瞬けば、目の前を桜色の鱗がきらりひらり。


 だけどそれは舞い散る桜の花びらじゃなくて、美しい人魚の半身を彩る桜色のうろこ。


「え……人魚? わあ、桜が満開……!」


 春色のきらめきにつられて視線を向けた先に広がっていたのは、視界を埋め尽くすほどの桜、桜、桜。

 うす桃色の花弁の波を泳ぐ人魚に魅せられてぐるり首を回したら、四方を染める桜の花に圧倒された。


「わあ……」

「ぬシ、いけませン! ここは妖のッ」

 

 肩を引っ張るテラの声がぷつんと途切れて、はっとした。

 こんなところに桜の公園はない。だったらここは私の知ってる街じゃなくて、妖の……。


「悪さをする気はない」


 警戒した私の上に降ってきたのは、男の人の声。

 シャクマとは違う、低くて抑揚のない声に目を向ければ、桜の幹の影がぬるりと動く。


 現れたのは、目元を覆い隠す面をつけた男。

 お面には大きなひとつ目が描かれてる。

 着ているものはお祭りの法被に似ているけれど、いくらお祭りでも裸足で街中をうろつかないと思う。


「……あなた、妖なの?」

 

 明らかにおかしな格好をしている相手だけれど確信を持たずにたずねたのは、男の姿がはっきりと目に映っていたから。

 シャクマと名前を教え合ったために見えるようになった妖たちは、テラを除いてみんな薄く透けていたんだもの。


 だから、シャクマやテラみたいにはっきりと見える男が妖なのかそうじゃないのかわからなくてたずねたのに。

 こてり、ひとつ目の面をかぶった男は首をかしげた。


「どうだろう」

「どうだろう??」


 どうだろう、ってどういうこと。

 自分のことなのにわからないのだろうか。

 

「あ、もしかして記憶喪失の妖だとか?」


 シャクマに相談すれば何か解決策があるかもしれない。あ、でも連絡係のテラがいない。

 そう気づいたとき、ひとつ目はかしげていた首を元に戻すとゆるりと横に振った。


「記憶は……求めていない。あなたの力を借りたい」

「私の?」

「ああ」


 こくり、頷いたひとつ目が背を向けた。

 肩越しに振り返った彼は、たぶん私がついて来るのを待ってる。


 行くべきか、逃げ出すべきか。


 私だって命は惜しいから悩む。

 ちら、とうかがった背後にビルは無い。建物の合間をほんの数歩しか進んでいないのに、見えるのは美しい花をこぼす桜の木ばかり。ちらりひらりと揺れ動くのは舞い散る花びらと、桜色のうろこをまとった人魚たち。


 とっても幻想的。ありえないくらい美しくて、ただよう空気はほんのりと暖かい。さっきまで冷えた風に身体を震わせていたとは思えないほど。

 ここはたぶん普通の空間じゃないんだと思う。ときどき話に聞く「妖に化かされてる」状態なのかもしれない。


 私はここからひとりで逃げ出せる?

 ううん、たぶん無理。

 まず出口がどこかわからない。頼みのテラはひとつ目が現れたときに消えてしまったきり、姿が見えないどころか声すら聞こえない。 


 だったら私に選べるのは、ひとつだけ。


「ひとつ目さん、待って」


 桜の幹に手をつく彼の後を追う。

 私が追いかけているとわかって進みだしたのだろう。ひとつ目がまとう法被のすそがひるがえる。その白さを見落とさないよう、桜の花のなかへと踏み込んだ。

 

 途端に、四方を囲む桜の花びらで視界が埋まった。

 右も左も上も前も後ろも、花、花、花。


 溺れてしまいそうなほどの桜に包まれて、先を行く白い色だけを目印に前へ、前へ。

 異界の深みへ向かってるとわかってる。


 だけど立ち止まる気はなかった。

 だって、たぶんひとつ目に悪意はない。と思う。

 なんとなくだけど、私のこういう勘はけっこう当たるんだもの。

 

 シャクマが聞いたら怒るかな。

 ちいさな気がかりは胸にしまって、私は花に飲みこまれた。

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