9 俺の心を焦らせてどうしたいんだ
その夜。ようやく自室に戻って来たアイリスは、どっと息を吐いた。
昼間はあれからも撮影会が続き、そのまま夕方から、迎賓館でヴィジェルとアイリスの婚姻を知らしめる披露宴へともつれこんだからだ。
どうやらヴェストリアからはかなり早くに今回の旨が伝えられていたらしく、急な嫁入りとなったのはアイリスだけだったらしい。
ベッドに腰かけ、ぼうっと天幕を見上げる。魔道具や書籍が転がっていない部屋は、なぜだかひどく殺風景に感じた。魔道具開発の許しはいただいたから、これからまた、少しずつ揃えていくしかないのだろう。
「(湯浴みは済ませた。髪は結った。歯磨きもした……)」
指折り数えてから、ミルクたっぷりの珈琲を就寝前に飲んでいたルーティンを思い出し、アイリスは口寂しさに立ち上がった。もう女中たちは離れで休んでいるだろうから、一人で厨房を漁らせてもらおう。
そういえば厨房ってどこだろう。そんなことを考えながらドアノブに手をかけたとき、向こう側からノックされる音がした。
「俺だ。起きているか」
「はい。今開けますね」
アイリスがドアを開けると、そこにいたヴィジェルが「早いな」と苦笑する。
「すまない、どこかへ行くところだったか?」
「厨房へ。いつもは寝入る前に、珈琲を飲んでいましたから」
「……待て。珈琲は、目を覚ます飲み物ではないのか?」
「そうなんですけど、習慣ですかね。ミルクたっぷりだと、お腹にも優しいんですよ」
「そうか。まあ、お前がそれで良いのならば止めはしないが」
付き合おう、と頷いてくれたヴィジェルと並んで、燭台の薄明かりの中を歩く。それはちょっとした冒険のようにも思えた。
湯を沸かしながら厨房の棚を開けて回り、お目当ての豆を見つけたアイリスは、昼のうちに作っておいた天秤型魔道具で気持ち少な目に分量を量り、手挽き器に入れた。
香り立つ珈琲にミルクをたっぷりと注ぎ入れ、溢さないようにカップを手で包みながら来た道を戻る。
ベッドに再び腰かけた時には、ちょうどいい温度になっていた。
「美味いな」
一口飲んで、ヴィジェルがほうっと息を吐く。
「そういえば、犬は珈琲の成分が摂れないと聞いたことがあるんですが、ヴィジェルさんは大丈夫なんですか?」
「ああ。獣人は
「お砂糖、たくさん入れてましたものね」
厨房でミルクのみを温めることも勧めてはみたが、彼は「お前と同じものが飲みたい」と笑うばかりだった。合わせてくれたのだろうと思うと、面はゆい。
「今日は、すまなかった。疲れただろう。まさかアイリスがそんな扱いだったとは知らず、祝宴の用意をしてしまった」
「気にしないでください。それに、一度ヴィジェルさんの毛並に包まれて寝こけることができましたから、頭ははっきりしているんです。なんなら、祝いの席での余興が楽しくて、目が冴えちゃってるくらいで」
十の部族からなるクティノスが宴を催せば、その賑わいは目移りするようだった。
ガルダの出身である有翼領シムルグからは、鳥族の獣人が異性への求愛の際に踊るというダンスが披露され、猩猩領レイチョウからは、力強いゴリラ族と身軽な猿族による剛柔交錯する演武が繰り広げられた。
「お前はどれが一番よかった?」
「私は、サファグさんの故郷の聖歌隊が好きです」
水棲系生物を起点とする深海領レヴィアタンには、下半身が魚の女性が多く存在する。彼女らは歌声が美しく、特に秀でた者は『ローレライ聖歌隊』として神に祈りを奉げるのだそうだ。
「みんな、温かかったなあ」
元首の手前ということもあったかもしれないが、アイリスに接する彼らの態度に目立った悪意はなかった。まるで自分が『人間』という十一番目の部族として存在しているかのようだった。
そして何よりも嬉しかったのは、転写装置の目的の一つが達成されたことだ。
「評判良かったですね、ヴィジェルさんたちの肖像」
元首と副元首二名を写した転写板には、各部族の代表はみな食いついた。
「
「自分の転写板を飾りたいから政権を狙う、というのはどうなんでしょう……」
「奴らは狡猾だ。永くは任せられないが、一期くらいなら悪いようにはしないだろう」
渡す気はないが、とヴィジェルは笑って、酒を呷るようにカップの中身を飲み干した。
「ともあれ、今日のことは大きな一歩だ。この積み重ねがやがてヴェストリアへ波及すれば、獣人と人間がより近くなるだろう。ゆくゆくは、クティノスに多くの人間が移住してくるようになるかもしれない。逆も然りだ」
「はい。私もそうなればいいなと思います」
「光の魔法は敵を掃うためのものに非ず、か」
「光は、あらゆるところに存在します。今こうして、ヴィジェルさんの顔を見ることができるのも、光があってのものです」
一時は、自分が光属性魔法を扱えることを呪ったこともあった。希少というだけで注目を浴び、要らぬ不興も買ってしまう。
アイリスが『賢者』にさせられたのも、難癖をつけて来た相手が『賢者』の末席に着く魔術師だったからだ。いくら頼んでも食って掛かってくるため、ある時魔法勝負を引き受けて返り討ちにしたところ、いつしかその肩書が自分に付けられてしまっていた。
けれど。
「私は今、自分が光魔法を使うことができて良かったと、心から思っています。『虹色の魔女』として、ヴィジェルさんの力になれることが、とても嬉しいんです」
素直な気持ちを伝えると、ヴィジェルは呆気に取られたように目を見開いてから、手のひらを額に押し当てて長嘆息をした。
「あの、何かまずいことを言いましたか?」
「ったく……ああ、まずい。非常にまずい」
おもむろに立ち上がったヴィジェルは、アイリスの空になったカップを取り上げると、机の上に置いてから戻ってくる。
「お前な。俺の心を焦らせてどうしたいんだ」
「えっ……?」
「ガルダやサファグだけならまだしも、宴席に来ていた他の野郎に片っ端から目をキラキラさせていたな。かと思えば、さっきみたいなそそる顔して笑いやがる」
「あ、いや、違うんです。ヴィジェルさんへの感情と、獣人のみなさんの魅力を探そうというのは別の話で――」
「うるせえ」
とん、と肩を押され、アイリスは背中からベッドに沈んだ。
「言葉の違いは知ってる。女中に聞いた。想い人とは別の感情を『推し』というそうだ」
覆いかぶさったヴィジェルの吐息がかかる。押さえつけるように絡められた指は、びくともしない。
「なら、その推しの中でも俺が頂点じゃないと気が済まねえ。今ならまだ優しくしてやるから、舌出せ」
「ヴィジェル、さん……? その、手を離し――」
「離さない。お前がアイリス・ヴィトニルとなったことを刻みつけるまではな」
琥珀色の瞳が、すう、とその色を深める。
初めてのキスの味は、珈琲のほろ苦さとミルクの甘さとでぐちゃぐちゃだった。
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