7 お前はどんと構えていればいいさ
その日、ヴェストリアとクティノスの国境にオーロラがかかった。
まだ若き戦士の一人だったヴィジェルは、主戦場の側面から回り込み、敵陣に風穴を空けるための別動隊として行動していた。
暗闇に紛れてひた走る。この平原を抜ければ、目的地までわずか。
そんな時、不意に月明かりが顔を照らしてきたかと思うと、ヴィジェルら狼族の兵士たちは皆、その場に影を縫い付けられたかのように動けなくなった。
「『虹色の魔女』だ!」
誰かがそう叫んだ。
ヴィジェルが夜空を見上げれば、そこには極光を背にして箒に乗り、こちらをじっと見据える一人の少女がいた。
目深に被ったローブから零れる美しい髪は、月の明るい日の色が溶けてたなびいているかのようだ。人間と獣人の体のつくりが違うことは知っていたが、それでも戦場に立つ者とは思えないような華奢な体躯をしていた。
そんな少女たった一人に、ヴィジェルらは身動きを封じられている。これがヴェストリアの最大戦力『賢者』の力かと、誰もが歯噛みした。
「『魔女』よ、我らの動きを止めるだけか!」
部隊を指揮していた当時の族長が、少女に向かって咆哮した。
「舐められたものだな! それほどの力があるならば、いっそ殺せ!」
「……その必要は、ないと思います」
「なんだと!? 我らを愚弄するか、小娘!!」
しかし、少女は静かに首を振る。
「私には解りません。勝利を求めて戦っているはずなのに、同時に死こそが誇りと仰る」
「愚問よ。国のために死ぬことこそ、忠義だからだ」
「見解の相違ですね。生きて尽くすことこそ忠義だと、私は考えます」
少女のローブの奥に覗く瞳が、魔力で瑠璃色に輝いているのが見えた。
「お引き取りを。すでに勝負は決しています。撤退してくださるのならば、体も自由に動かすことができますので」
「ぬう…………」
周囲がざわつき始めた。やがて誰からともなく「本当だ」と言った。ヴィジェルが声のした方へと目を向けると、既に背を向けた者たちが隊列を崩し始めている。
ある機転の利く者が、一度背を向けるふりをしてから、ひらりと反転して魔女へ飛びかかろうと試みた。しかし、腕を振り上げた瞬間にまた動けなくなり、敢え無く地に伏すこととなった。
「先ほど『それほどの力があるならば』と、お尋ねになられましたね。それも見解の相違です」
少女は振り絞るような、しかし力強い声で、宣るように言う。
「私たちの扱う魔法――すなわち世界に満ちる原精霊のエレメントは、戦がなくともそこにあります。貴方たちの『
ヴィジェルは、こいつは何を言っているんだと思った。だからなんだというのだ。そこに力があるのならばそれを行使する。ただそれだけである。その出自を問うことに意味はあるのかと。
だが、彼女はきっぱりと告げた。
「力とは、攻めるためにあるものではありません。皆の笑顔を守るため。ひいては幸せな未来を築くためにこそ使うべきです」
「(幸せ、だと……?)」
無様に撤退を余儀なくされた行軍の中、ヴィジェルの頭から『魔女』の言葉が離れることはなかった。
* * * * *
「それで気付かされたんだ。もう俺たちに、戦う理由なんてないのだと」
「あ、ああ、うわああああ…………」
ヴィジェルが語ったあの日の出来事に、アイリスは目を覆ってしゃがみ込んだ。
顔から火が出そうだった。概ね発言の内容に間違いはなかったし、今もその絵空事を信じている。しかし改めて人づてに聞かされると、その言葉遣いや言い方のニュアンスがやたらとこっ恥ずかしく思えてくる。
「偉そうにごめんなさいぃぃぃ……!!」
「何を詫びることがある。おかげで考えるいい機会になったんだ。長い歴史の中でそうしてきたからと戦い続けていたが、俺たちにはとうに憎しみなんてなかったんだよ。せいぜい、前の戦で知った顔が負傷したから、なんてのが関の山だろうな」
「憎しみ……ないんですか? だって私、ヴィジェルさんたちの部隊をあしらった敵なんじゃ……」
自分が『魔女』として嫁ぐにあたり、最も懸念していたことがそれだった。よってたかって石を投げつけ、磔にされても文句は言えないと思っていた。
しかし、ヴィジェルたちは顔を見合わせると、同時に噴出した。
「まあ、誰かしらはいるだろうが」
「むしろ、クティノスでのアイリス様への評価は、ヴェストリア随一っすよね」
「え、そうなんですか……?」
「ええ。以前、流れの吟遊詩人も歌っていましたよ。『「不落城」といえど攻め込める。「流星の射手」といえど切り払える。されど「虹」は、見上げることしか叶わぬ』と」
サファグが諳んじた一節に、アイリスは畏れ多くなってあわあわとたたらを踏む。
及び腰になるアイリスを支えてくれるように、ヴィジェルの腕が回される。
「そういうわけだ。クティノスの元首を誕生させた女として、お前はどんと構えていればいい」
「うう……どんどんスケールが大きく……」
「まだ序の口だ。俺はもっとデカくしていくつもりだ。アレイスターにコルヴァイ……アイリスを虐げたクズ共には腸が煮える思いだが、俺はそれさえも乗り越え、呑み込まなければならない。そしていずれは、人間と獣人、果ては魔人を含めて、手を取り合う未来を創るんだ」
「あっ……」
真っ直ぐ前を見つめるヴィジェルの横顔が眩しく見えて、アイリスは息を呑んだ。
「そう、ですね」
彼の腕にしがみついた手に、そっと力を込めて寄り掛かる。
自分がまだだまだだと、己の未熟さを理由にして先送りにしていた絵空事を、ヴィジェルは本気で実現しようとしている。一歩では終わらせず、まだだまだだと、更なる高みを見据えている。
ヴィジェル・ヴィトニルの描く未来地図を、隣で見ていたいと、アイリスは強く願った。
「まずは種族間の壁をどうにかしねえとな。前に使節団を組んでヴェストリアを訪問した時も、人間ときたら、遠巻きに見てくるわひそひそと陰口叩くわで……マジで気が滅入った」
「えっ、僕はそんなことなかったっすよ? 子供たちから『お兄ちゃん、羽触ってもいい?』って、大人気だったっす」
「マジか……俺の毛もふさふさして気持ちいいと思うんだがなあ」
ヴィジェルは自分の耳や尻尾を触って、首を傾げている。
「人間は、他種族のことを恐れていますからね」
「……そうなのですか? 人間こそが正しい在り方であると、誇っていると伺っていたのですが」
ヴィジェルが目を瞬かせた。それに、アイリスは首を振る。
「獣人も魔人も、人間を遥かに凌ぐ身体能力を持っていますから。だから亜人と呼んで下に見ようとするんです」
「恐怖、ねえ。こればっかりは俺たちがそういう種なんだから仕方ねえやな」
「そうでもありませんよ?」
「あン?」
きょとんと面食らったようにヴィジェルが固まる。
今のその顔こそが鍵ですよ、とは口に出さなかったが、アイリスは微笑んで返した。気高く雄々しい銀狼王が見せる、年相応のやんちゃな可愛い表情。罪を犯した者は
そこに、恐れる要素など何があろうか。
「私に、考えがあります」
自分は『虹色の魔女』として嫁いだのだと、アイリスは改めて自分に言い聞かせた。
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