6 取って食ったりしねえから、落ち着け

「――きろ。そろそろ起きろ」


 誰かに呼びかけられながら揺り起こされ、アイリスは意識をもたげた。

 目を擦ろうとして、腕が持ち上がることに気が付く。


「(あれっ? 何で……)」


 体を起こそうにも、体に上手く力が入らなかった。背中と脚の裏側には支えがあるようだが、それ以外に床らしきものに触れている感覚がしない。


「(そうか、私……殺されたんだ)」


 体の浮遊感は、きっと死後のそれなのだろう。

 脳裏に浮かぶのは、蜥蜴族の獣人たちの下卑た顔。

 自分の故郷からは追い出され、異国の地で襲われ、人知れず迎える死。あっけないな、とアイリスは腕で目を覆う。


「せめて、だんな様に一目お会いしたかったな……」

「はあ?」

「……はあ?」


 すぐ真上からかけられた声に、アイリスはおうむ返しのような、素っ頓狂な声を上げる。

 おそるおそる腕をずらすと、お天道様を隠すように覗き込んでくる男性の顔と目が合った。


「え――なんで、誰っ、ここどこっ!?」

「おいこら、暴れんなって」


 制止の声を振り切るように、がむしゃらに腕を振り回す。男性を押しのけたアイリスの体は宙に浮き、そして落下した。


「へぶっ!?」

「……ったく、何やってんだお前。取って食ったりしねえから、落ち着け」


 アイリスは腰を擦りながら、半泣きの顔で、呆れ声の主を見上げる。

 その瞬間、時が止まったような気がした。

 アイリスが二人横に並んでも有り余るのではないかと思うほどの、広い肩幅。その間を支える胸板は雄々しく盛り上がり、引き締まった胴回りは、アイリスの細腕を回しても反対側に届き切らないだろう。長い銀の御髪をたてがみのようになびかせるシルエットは、人間ではおよそ太刀打ちできない、大自然の神秘だった。

 しかし野性的でありながら、それでいて精悍。目鼻の筋が整った顔立ちの中でも特に印象的なのは、きりと吊り上がった双眸だ。睫毛では隠し切れない琥珀色の情熱をその内に燃やす瞳は、見ているだけで呑み込まれそうになる。


「あ、あなたは……」


 アイリスは息を呑み、問いかける。

 それに男性は、からかうように口角を上げて言った。


「俺は、誰かさんが一目会いたいと言っていた男だよ」

「一目……じゃあ、もしかして」

「ヴィジェル・ヴィトニル。ここクティノスの元首を務めている」


 そこでようやくアイリスは、意識が途切れる直前に見た白銀の巨狼を思い出した。

 『完全獣化ライカンスロウプ』。獣人が全力を賭す際、自らの性質である獣の姿に変化する。だがそれは半ば諸刃の剣で、長くは姿を変えてはいられない上に、反動で動きの鈍った状態では、並みの獣人では人間の膂力にさえ押し負けるようになる。

 現にヴェストリアでは、対獣人においては「いかに凌ぐか」を重視していた。『不落城』ことカルパディアが重用されるのも、戦術の要となりうるためだ。


「助けてくださったのは、あなた様なんですね」

「ああ、俺と……後ろのこいつら。あと一人、後処理をしている部下がいるが」


 ヴィジェルが立てた親指で肩越しに後ろを示す。そこには鳥族と魚族の男性が控えていた。会釈をする落ち着いた雰囲気の魚人の隣で、快活そうな鳥人の青年がぶんぶんと手を振ってくれる。


「あの……私が襲われていること、どうして分かったんですか?」

「どうしてと言われてもな。……偶然?」


 奥歯に物が挟まったようにヴィジェルが答えると、間髪入れずに「うそつきー!」と鳥人の青年が囃し立てる。


「『虹色の魔女』さんが来ると聞いて、居ても立ってもいられなかったんすよねー?」

「うるせえガルダ! 余計なこと言うんじゃねえ!」

「ここで黙っていても、いずれは知られることとなりますよ。ヴェストリアからの文が来て以来、貴方がずっとそわそわしていたことは、屋敷中の者が存じていますから」

「サファグ、お前まで……」


 部下たちに冷やかされ、がっくりと肩を落としたヴィジェルは、「その、なんだ」と口をまごつかせながら、弁解するようにアイリスへと向き直った。


「そういうわけだ。お前を迎えに行ったんだよ。そしたら、お前の悲鳴が聴こえたもんでな」

「それで『完全獣化ライカンスロウプ』を……御体は大丈夫ですか?」

「あン? あー、大したことねえよ。俺をその辺の連中と一緒にすんな」


 しかし彼の向こう側から、部下たちが手でばってんを作りながら口パクで「ウソ!」と教えてくれる。

 気が付けば、アイリスはその場に伏していた。


「ヴィジェル様! どうか私と結婚してください!」


 人質としてではなく。奴隷としてでもなく。妻として、身をささげたいと願った。


「何でもしますから!」


 世界から見捨てられたと思っていた自分に、手を差し伸べてくれたこの人のために。






   *   *   *   *   *






 ヴィジェルらの話によれば、ここはもうクティノスの中央都市ということだった。

 各地に散らばった部族の小国家をまとめるべく、初代元首が築いたことから始まる都。中央の元首邸は任期ごとに主が入れ替わり、それと同じように、街を歩く獣人たちも多種多様な種族が行き交い、活気にあふれていた。


「そういうことだったのか」


 元首邸への道すがら、アイリスが自分に枷がされていたことの経緯を話すと、ヴィジェルは湧き上がる怒りを堪えるように喉を鳴らした。


「気に食わねえな。いっそ乗り込んで、潰すか?」

「こらヴィジェル。誰が聞いているともわからない場所では、冗談でも慎むべきですよ」

「相手が誰とは言ってねえだろ。旦那として報復してもばちは当たらねえはずだ」

「それが個人間で済まなくなると言っているのです」


 サファグに窘められ、ヴィジェルは肩を竦めた。

 サファグとガルダは、ともに副元首であるという。政治の面をサファグが、軍事の面をガルダが補佐することにより、元首の独裁を防ぐという仕組なのだそうだ。


「い、戦は駄目ですよ!?」

「当然だ。クティノスとしても、徒に争うことは本意ではない」

「全部族の総意じゃないのが悩みどころっすけどねー」


 自分の翼を抱えて歩くガルダが、羽を繕いながらぼやく。


「そこはこれからどうにかするしかないさ。だが、今は俺が元首だ。五年前にアイリスから気付かされたことを、必ず実現して見せる」

「その……先ほどから気になっていたのですが、五年前というのは?」


 私何かしましたっけ、とアイリスは首を傾げた。ヴィジェルと会った記憶もなければ、何か政治的にクティノスと関わったこともないのだ。


「憶えていないのも無理はない。あの時の俺はまだ、犬狼族フェンリルの一兵卒だったからな」

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