第29話 最先端の最下層

 長い長いエレベーターを降りたそこは、大きな半球状の透明な膜に覆われた空間だった。

 ぴちゃり——と、浸された地面に足を着く。極小の太陽と月が膜の天井近くで緩やかに戯れて、周囲を明るく照らしていた。

 ふと膜壁から魚が突き抜けて泳ぎ入ってきた。しかし膜が破ける様子はなく、魚が落下する様子もない。魚は空気中をくるくる泳ぐと、再び膜の外——真っ青な海に戻っていった。


 改めてここは、魚の群れが入り乱れる、海の底だった。


「ここが……学園の最下層」


 空間の中心には巨大な装置があった。いくつもの操作盤に囲われた円筒型のガラス。海水の満ちたそこには、巨大なクラゲが浮かんでいた。クラゲの周囲に魔法陣が浮かんでは消えていく。触手の先からは極小のクラゲが分かれ出て、それは自ずから枝分かれした小さなポッドに入っていっていた。ポッドの中では、クラゲの見た目が人体のように変化していっている。


「そしてコレが、アカラなんだね」


 僕は少し進んだところで足を止めた。足元にハンカチが落ちていたからだ。くしゃくしゃに皺がついたこげ茶色のもの。


「はい、そうですねぇ。これがアカラ様の末路ですよぅ」


 装置の傍に立つクレイトスは、アカラのことを見上げていた。


「この学園は王国領にあるものの自治都市として認められてもいます。かつ政治的中立を掲げています。それは、才能のある魔法使いたちが戦争や陰謀に翻弄されないため。何の憂いも無く平和的に魔法を探求できる場は、世界中探したってここにしかありません」


「それでも、世界の戦争の最先端になってしまったんだね」


「はい。学園が大きくなるにつれ、それは回避できない事でしたぁ。魔法と争いは切っても切れないものだったんですねぇ。次第に学園は政治的な立ち回りを要求されるようになり、そのために防衛力が必要とされた。けれどアカラ様は学園の魔法使いを戦力に数えるのを嫌ったんですぅ。じゃあどうすればいいかって?」


 クレイトスは猫背なまま振り返った。肩をすくめる。


「アカラ様がただ一人この学園の礎となり、永劫無限に学園を守り続ければいい」


 それがアカラが人間を辞めた理由にして、この学園が海辺の絶壁に建っている理由。〝海〟への還流を遂げた彼女の手が届く範囲はここまでなのだ。


「一つのシステムと化したアカラ様には、人外の魔法行使が可能になります。ええ、はい。これなら確かに学園はアカラ様によって守られるでしょう。しかし私は最後に尋ねたのです——この学園はアカラ様が守る、では、『誰がアカラ様を守るのですか?』——と」


 おもむろに、クレイトスは懐から哺乳瓶を投げてよこした。


 ——なに!?


「え……あの、これは?」

「母乳ですよぅ」

「母乳!? 誰の!?」


「そりゃあアカラ様の。まああの人が自分の細胞から作った偽乳にせちちですけどね。飲むも飲まないもあなた次第ですけど、飲んであげたらアカラ様は喜ぶんじゃないですかぁ? 全く本当にあの万年乙女、なんかズレてますよねぇ」


「あ、その……クレイトスさんも、苦労してきたんだね」


「そりゃそうですよぅ。私は学園創立に立ち会ったし、アカラ様がこの装置に立ち入っていくのにも立ち会ったんですから。大変じゃないときなんてありませんでしたぁ」


 三十年とルルキスは言っていた。それは並大抵の時間ではない。


「聞いたよクレイトスさん。あなたが現在の〝革新〟らしいね」

「ええ、はい。大賢者の末席にて〝革新〟の冠名を拝しておりますぅ」

「それは元々、僕の冠名だったと知っていて、獲りに行ったの?」


 クレイトスは顔を逸らした。しかしその声にはこの問答を面白がっている気配がある。


「さあ? どうでしたかねえ、忘れてしまいましたぁ」

「——じゃあ聞くよ。聞いていいんだろうからね」


 聞くまでもない。けれどこの決闘はもはや儀式的な意味を持っている。全ては形式的な手順だ。立会人の大賢者に、僕らが戦う理由を理解してもらうための。


「アカラは、『誰が自分を守ってくれる』って答えたの?」


 クレイトスは遂に両の口角をにたりと上げた。


「——『オズミック』」

「そう。じゃあアカラの願いは叶わないね。既にオズミックという人間はいないから」

「はぁい。しかし誰かが守らなければなりません。となると——」

「かつてのオズミックに比肩する者が相応しい、とクレイトスさんは考えたんだね」


「それは、どちらを差すのでしょうかぁ。かつて彼が冠していた名を継ぐ者か、あるいはそれと遺伝的に同じもの」


 それはきっと恋だとか愛だとかそういう言葉を当てはめるものではない。そんな複雑で曖昧な感情ではなく、もっとシンプルで洗練されたものだ。彼らは真っ当にその関係の極地に至っただけの、ただの主人と従者なのだろう。


「僕は前者の〝革新〟を継ぐ人の方が、アカラを守るのに相応しいと思うな。後者の人は、もうアカラが想定していたほどに強力な魔法使いではないからさ」

「私の感覚では後者が有利かと思いますぅ。アカラ様が守護人に求めたのはきっと魔法的な戦力ではなかったと思うからですねぇ」


 この場はきっとクレイトスが、彼自身と、アカラと、そしてなにより僕のために用意したものなのだろう。

 この回りくどさが、直接尋ねられないし口にもできない、建前頼りでしかやり取りができないのが、歳月を経てしまった大人というものである。


「おっと。意見が割れちゃったね」

「致し方ありませんねぇ。意見の相容れない魔法使いが二人いるならば——」

「決闘するしかない」


 クレイトスは白衣のポケットに手を突っ込んだ。右手に携帯を、左手に杖を握る。

 僕の足元のハンカチに目線をやってから、んっと背をただして名乗りを上げた。


「私こそが──大賢者アカラの一番弟子、クレイトス・ブラック」


 深々と頭を下げて。


「八冠の大賢者、その一歩、〝革新〟のクレイトスですぅ」


 こちらも礼儀正しく頭を下げる。


「僕はオズ・イリズム。無名の魔法使いです」


 顔を上げれば、僕たちを並べて見る位置に一人、かなり老齢に見える女性が立っていた。

 水でできた透き通る身体。クラゲのように薄く柔い表層。

 彼女は目を閉じ俯いて、深く呼吸をしてから、ゆっくりと顔を上げた。不安そうに右手を胸に置き、しかし毅然とした表情で。


「〝望遠〟のアカラ。大賢者の一雫として、この決闘を見届けましょう」


 僕はクレイトスが守護にふさわしいと思うけれど、クレイトスは僕が守護にふさわしいと思っている。これはアカラの気持ち次第だ。しかし彼の三十年の献身を理解したアカラには——僕の冠名を獲りに行ってまでオズミック足らんとした彼の思いを直視した彼女には——それを決めることなどできない。クレイトスはきっと暇を言い渡されたって素直に受け入れるだろう。きっとそうなるだろうと予見できるからこそ、言い渡せない。


 ゆえにこの決闘。全ての感情と、歴史と、失われた時間にケリをつける。あらゆる経緯と過去を清算して、最先端の学園はその先へと進む。


 さりとて。


 ——ってことはさ、分かってるし……二人にとってはそっちの方が大事なんだよね。


 何とてこの状況。そうなるべくしてなったわけではない。あくまで裏の側面に過ぎない。しかし結果としてそうなった場面。僕はそちらにどうしようもなくワクワクしていた。


 ここは魔法探求の果てにある、最も楽しい瞬間の一つに違いないのだ。

 大賢者の立ち会う、大賢者との決闘。

 つまりこの決闘は——大賢者試験の要項を満たしている。


 ——このセリフを言うのは二度目か。人生何があるか分かんないな!


 僕は哺乳瓶を一つ吸って、ぷはっと口元を拭った。


「じゃあ——やろうか! 覚悟しろよ大賢者! 冠名はこの僕が貰い受けた!!」

「来い、無名の魔法使い!! この私に——お前の魔法の粋を見せてみろっ!!」

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