学校が終わり、トイレに行っていた。

 教室に戻り、鞄を手に取ろうとした時、何かが机から落ちた。

 一枚の、メモ用紙のような、小さな紙だった。

 文字が書かれている。番地を示す漢字と記号、そして最後に、文章がある。

 それは、彼の字だった。もう何度も見慣れた、達筆な文字。文章にはこう書かれていた。

 僕は待っている。いつでも、君が来たい時に来てくれ。

 ぼくはその紙を見下ろし、ポケットにしまった。

 その時、ぼくは何故か、自分が近いうちに彼の家に行くような、不思議な直感のようなものを感じた。理由はわからないけれど、そんな気がしたのだ。



 実際、ぼくは自分が予感していたように、週末になると、準備をし、彼の家へと向かった。季節は夏に成り立てで、セミが鳴き始めている。

 彼の家は、鈍行で五つほどの駅の街らしい。

 二十分ほどかかり、彼の住む街に着いた。ぼくは日除けを手で作りつつ、メモを確認する。初めて訪れる地域だが、予め地図を頭に入れておいたおかげで、それ程迷わずに済んだ。

 彼の家がある辺りは、見る限り、結構な高級住宅街であるようだった。目に入る住宅はどこも巨大で、美しかった。灌木の間に見える庭も、手入れが行き届いている家ばかりで、殆どの家に犬小屋があった。

 そんな閑静な住宅街の中で、彼の家は、ぼくの目にも明らかに異様な存在感を放っていた。有り体に言えば、不気味だった。

 見た感じとても古びていて、門の隣には、何故か何かの怪物の顔を模った禍々しい姿の像が、辺りに睨みを利かせている。ここから見える館に付いている沢山の窓も、その全ての鎧戸が閉じられ、その事が館が纏う陰気さに拍車をかけているように見えた。

 インターフォンのボタンを押し、少し待つと、すぐに荒れ果てた庭を挟んだ、館の扉が開いて、彼が笑顔を覗かせた。

 彼の顔は、雲ひとつない空から降り注ぐ陽光に照らされ、益々白く見えた。

「どうぞ入って。門は鍵がかかっていない」

 ぼくは門を開け、言われた通り館へと歩いていく。彼が押さえる扉の間を通って、ぼくは館の中へと入っていった。

 館は、外観から受ける感じよりも遥かに広い空間を持っていて、それでいて暗く、とても空気がこもっている感じがした。森閑とした雰囲気の中に、幾つも置かれている調度品らしきものが、どれも分厚い埃を被っている。

 彼は、慣れた足取りで階段を静かに上がっていった。手すり側の丸いランプが、彼の動きに従って点き、ぼくが通り過ぎると、また消えた。

 彼は、時々ぼくの方を確認するように振り返った。

 やがて、彼方まで続いているかのような非常に長い廊下を通りぬけ、彼がついに立ち止まった。

 一枚の、巨大な漆黒の扉。龍の紋様が描かれていることに、ぼくは気づいた。

 彼は迷いなく中へと入っていった。ぼくも入る。開け放たれた扉は、自然と閉まり、鍵がかかった音がした。

 部屋は、カーテンが閉め切られて薄暗く、それでも物凄い蔵書量の本棚が壁を埋め尽くしているのが分かった。

 机の上のランプで、彼は明かりを点けた。その前には、大きめの薄い布が乱れた格好で置かれており、その周囲を囲むように、本が幾つも散らばっている。彼は、どうやらそこで寝起きしているらしい。

 ぼくは思わず言っていた。

「ここで寝てるの? いつも」

 彼は振り返りつつ、軽い調子で答えた。

「ああ、まあ、そうかな」

「随分静かだね」

 彼は呆れたような仕草を見せながら言った。

「まあ、それが唯一の取り柄みたいな所だから」

 それから、奇妙な沈黙が二人の間に流れた。誰も何も言わずに、彼は本の一つを手に取り、パラパラとページを捲ってさえいる。

 沈黙に耐えかね、ぼくは言った。

「それで」

「……それで?」

 彼は目を上げた。見慣れた、翠色の瞳。

 ぼくは続けた。

「あの紙、なんだったんだ? 別に、あんな回りくどいことする必要なかったんじゃないのか。ちょっとびっくりしちゃったぜ、俺」

 ぼくがそう言うと、彼は口をつぐみ、それから鋭い眼になると、ぼくのいる方を見据え、言った。

「その、『俺』って言うのやめてくれないか。気持ち悪いんだよ。……君は、もっと自分に素直な人間だったじゃないか」

 ぼくは内心、非常に驚いた事を悟られないように気を払いながら、平静を装いつつ黙り込む。

 突然、そんな事を言われるとは思ってもみなかった。素手で心臓を殴られたような気分だった。油断していた複数の自己が、傷を素手で触れられた事に憤っている事故が、内側で怒れと叫んでいる。ぼくはそれらの声を聞き入れ、受け入れなければならない。

 ぼくは深く息を吸うと、ゆっくりと時間をかけて、吐いた。そして、彼のことを見て、言った。

「そんなことは、今は関係ない。そうだろう? 今してる話は、なんであんな回りくどい事をしたのかってこと。あと、あの時の『視た?』って、なんだったんだ? それを教えてくれよ」

 彼は意を唱えるかのように、首を横に振って答えた。

「違う。関係なくなんかない。僕は、君が自分に嘘をついているのが気に食わないんだ。格好付けのつもりか? そんなことをしなくても、ありのままで、君は充分魅力的なのに。どうしてそんな事をするんだ。勿体無い」

「お前に何がわかるよ!」

 ぼくの内側の部分が、そう叫べと言った。ぼくはその囁きを支配できず、言葉に出してしまった。

 ぼくの頭の中に、幾つものイメージが去来して、過ぎ去っていく。過去のフォルダーに、遠くの、出来るだけ目の届かない場所で、早く埃が積もるように。

 大好きだった本を破られ、雑巾をかけられ、臭い匂いがした。大好きだった小説を、ぐしゃぐしゃにされた。そして、それらが正当化された。

 舐められる方が悪いんだ。

 ぼくは深く息を吸い、それから息を吐き切り、そのことを確認してから、努めて静かな口調を意識しながら、呟いた。

「……『俺』が、『俺』でいることの、何が悪いよ。そんなこと、お前には関係ないだろ! あんまり勝手なことを、言うな!」

 沈黙が流れた。

 返答がない。

 だが、暫くすると、緊張した、掠れたような彼の声が、頭の上から聞こえた。

「……わかった。じゃあ、これを見て決めてくれ。それで、僕のこと、自分の事を、納得できたらそれで良い」

 彼は服を脱ぎ始めた。彼のパーカーは、淡い翠色だった。下のTシャツも、脱いでいく。

 あの時見た、彼の透き通るような白い地肌がそこに現れた。

 ゆっくりと本棚のある方を向いて、彼はぼくに、露わになっている背中を全て、見せた。

『それ』を見て、ぼくは息を呑んでいた。

「それ……、なんだよ」

 本棚の方を向いたままの、彼が言った。諦めたような声音。

「呪いだよ」

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