第13話 私が未来に希望を抱いた日

 おそらく、今日は人生で一番、走った日でしょう。


 日も落ちかけたころ、肩で息をしながらようやくお屋敷前で止まり、何度も深呼吸を繰り返してからします。


 薬局で私が金貨一千枚を出したときの店員の驚愕した表情は今思い出しても笑ってしまいますが、それは何とか堪えましょう。誰にも言ってはいけません、ええ。この手にある小さな瓶詰めの軟膏が金貨一千枚と同価値かと思うと気が遠くなりそうですが、目の前で調合されるところを見ましたから信じるしかありません。


 この薬が、イオニス様の角のヒビを治すと信じて——はて、どうやってお渡ししましょう?


 とはいえ、後戻りはできません。私は歩を緩めずお屋敷に入り、庭園を抜けて、使用人たちの挨拶に上の空で返事をしながら、ようやく閃きました。


 大急ぎでオルトリンデを探すのです。通りすがりのメイドを捕まえて尋ね歩きつつ、すぐにオルトリンデは見つかりました。


 整えた銀髪と頭に巻きつくような角をしたオルトリンデは、ちょうど夕食の支度にと食堂へ向かうところだったのです。私は背後から声をかけます。


「オルトリンデさん!」


 パッとオルトリンデは振り返り、私を見て一礼をしました。それを見た瞬間、私は——少しだけ胸がちくりとしました。オルトリンデが見逃してくれたから、街に出られたのだと思うと彼女に感謝すべきなのですが、同時にそれを他の使用人の耳目があるここで言ってしまえば、余計な憶測を招くでしょう。


 仕方がありません。私は薬の小瓶を差し出し、手短に小声で用件だけを伝えます。


「イオニス様へ、これを急いで渡していただけませんか?」

「これは何でしょう?」

「あの、その、角のヒビを治すお薬です。買ってきました」


 オルトリンデは薬の小瓶を手にすると、それが何であるか瞬時に確信したようです。私の説明が間違っていないと思ったのでしょう、わずかに目を見開き、声を落として問い返してきます。


「自ら、お買いに? こんな高価なものを?」

「お気になさらず! それでは!」


 大変失礼ながらも、オルトリンデの尋問に捕まるまい、と私は逃げ出しました。何だか私、このお屋敷に来てからよく逃げ出していますね。


 うろ覚えの廊下を早足で通りぬけ、巨大な絵画と甲冑に挟まれた私室を発見し、飛び込んですかさず扉を閉める。かつてない運動量です、明日はきっと筋肉痛でしょう。引きこもりながらもよくやったものです、自分を褒めて……はいけないでしょう。自業自得です。フラフラした足取りでソファに辿り着き、私はやっと腰を下ろしました。


「はあ、はあ……やったわ、やったのよ、エルミーヌ」


 古いシャンデリアの天井を見上げながら、私は自分を慰めます。


 たとえ自分がやらかしたせいであっても、私は何とかできることをしたつもりです。いえその、私にできることってとても少なくて、かなり綱渡りだったかもしれませんが、それでも次に繋がる手を打てたと思います。


 鞄に入った彫刻導機ハラクスは、その証です。これがあれば、私は仕事ができるようになって、きっと今日のお金だって返せるに違いありません。


 そう思うと、安心してきました。未来は明るいように思えてきました。


「たくさん稼いでお金を返して、ああそうだわ、お屋敷の修繕費も出さないと」


 それって金貨何枚いるのかしら、と現実に立ち返るとですね、自罰的なネガティブ思考が湧き上がってきてしまいます。


 私は頭を思いっきり横に振って、自分を鼓舞するために前向きなことを口にします。


「と、とりあえず、魔導匠マギストーンとして稼ぐことはイオニス様とお屋敷の人々にはバレないようにしないと。絶対止められるわ。私は職人になるのだから、うん、なるわ」


 前向きじゃない気もしますが、これが今の私の精一杯でした。


 立派な魔導匠マギストーンになるために、レースを編むごとく地道なトレーニングを始めなくては。私はかつてないほど、未来を見据えていました。

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