第13話 前世の俺・瑳百合さんとのあいさつ

 六月上旬のある日。


 この日は朝から雨で、少し肌寒い日だった。


 まだホームルームまでは時間があるので、俺は屋上にいくことにしていた。


 もちろん一人だ。


 最近は、朝、屋上に行き、少しの間でも外を眺めて心を癒そうとすることが多くなっていた。


 もちろんそれだけですぐに心が癒されるものではないが、そのまま陰鬱にクラスの中で過ごすよりはましだと思っていた。


 今日は雨が降っているので、本来はかさをさす必要がある。


 しかし、かさをさすのは面倒だ。


 それほど強い雨でもないので、少しの間ならかさなしで大丈夫だと思った。


 俺は、屋上に向かっていく為、席を離れ、歩いて行く。


 そして、教室を出て、廊下を歩き出した。


 すると……。


 瑳百合さんがこちらに向かって一人で歩いてくる。


 普段は、周囲に人がいることが多くて、近づくことが難しい瑳百合さんが一人でいる。


 あいさつだけでもしたい!


 俺は急激にそういう気持ちになってきた。


 できればあいさつだけではなく、ちょっとしたおしゃべりもしてみたい。


 まあそれは次の段階ということになるだろう。


 とにかくあいさつができたらいいなあ、と思った。


 でも、それは瑳百合さんに迷惑ではないだろうか?


 という気持ちも同時に湧き上がってくる。


 二つの思いで、俺の心は揺れ動き始めた。


 そうしている内に、どんどん瑳百合さんとの距離は近づいてくる。


 しかし、俺の心の中では、


「瑳百合さんに迷惑になる」


 という気持ちが優勢になってきていた。


 このままでは、今日もあいさつができないで終わってしまう。


 こういうチャンスを俺は生かすことができない。


 あいさつもできないのでは、瑳百合さんのことはあきらめるしかない……。


 俺の心が次第に絶望感に覆われて来た時。


 瑳百合さんは、俺に微笑みかけ、


「島森くん、おはようございます」


 とその美しい声で言ってくれたのだ。


 そして、いい匂いがする。


 俺は信じられない気持ちだった。


 瑳百合さんからすれば、認識もされていないかもしれない平凡な存在の俺。


 手の届かない存在だと思っていた瑳百合さん。


 その俺に、瑳百合さんはあいさつをしてくれた。


 俺はうれしさで踊り出したくなった。


 しかし、浮かれているだけではいけない。


 なんとか俺も、


「お、おはようございます」


 と応じることはできた。


 ただ急激に緊張してきていたので、声が少し高めになってしまった。


 もう少し穏やかな声で応えたかったと思う。


 いずれにしても、これが初めての瑳百合さんとのやり取りだった。


 既に瑳百合さんとおしゃべりを楽しんでいる人たちに比べたら、全く大した話ではない。


「あいさつをしたぐらいで、喜ぶなんて……」


「おしゃべりをすることができないのに、そんなに喜ぶことなんだろうか?」


 と言うかもしれない。


 しかし、俺にとっては、とても大切なことだった。


 あこがれているのに、今まであいさつすらできなかった瑳百合さん。


 その瑳百合さんが、向こうの方からあいさつをしてくれたのだ。


 これほどうれしいことはない。


 俺はその日一日、心がウキウキしていた。


 そして、これが第一歩となり、瑳百合さんと仲良くなっていくのを夢見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る