第34話 話し合い
どこまでも、スミレさんには頭が上がらない。
どうして、彼女は二十歳なのに、こんなにも大人びていて俺のことを考えてくれていられるのだろう?
確かに俺はずっと伊地知の言うことを聞いて、言い返してこなかったかもしれない。
自分の弱さで、相手の言われるままになってきていた。
ここまでお膳立てをしてもらって、ちゃんとしないのは大人としてダメだよな。
それに伊地知が俺を追いかけてくるなんて考えてもいなかった。
俺のことなんて自分の才能を発揮するための駒だと思っている人だと思ってきた。
だから、まさか戻ってこいと連れ戻しにくることなど考えてもいなかった。
確かに俺は人に興味がなくて、言われるがままに仕事をしてきた人間だ。
十年も一緒に働いた人間のことを本当にわかっていなかったんだな。
スミレさんから冷静にと言われていたから自分の心に冷静に問いかけることができた。
先ほど伊地知が、スミレさんにいった言葉に俺は考えさせられる。
「わっ、私がずっとこいつを世話してきたんだ! まだ学生時代の何もできないイラストも下手なこいつに絵を教えて、給料を出して十年間も世話をしたんだ! ご飯も食べさせて、生活もさせて!」
そんな風に思っていたのに、俺は何も知らないまま不満を抱えてクビを言い渡されて勝手に出ていった。
確かにケジメをつけなければいけない。
「伊地知先生。改めて俺はあなたの従業員ではありません。自由契約なので辞める際も自由です。何よりもあなたが発した言葉でクビは確定しています。俺は辞める際に確認を何度もして荷物も全て持って出ましたから」
「そっ、そんなの今までだって何度もあったじゃない!」
「はい。ですから、今回が我慢の限界だったんです。そして、確かに絵を教えてもらったこと、十年間お世話になったこと本当にありがとうございました」
俺は改めて頭を下げる。
「そして、もう俺があなたの下に戻ることはありません。俺はあなたの下を離れて自分でやっていくことを決めたので」
「そんなのダメ! あなたは私の下にいないと!」
顔をグシャグシャにして泣き顔を見せる伊地知。
初めて伊地知をか弱い女性だと認識した。
どんな想いで俺を見ていたのか知ることになった。
俺は全然伊地知のことを見ていなくて、ずっと記憶に残っているのは……。
「すみません。もう先生の側には居たくありません。先生にお世話になったのは事実です。ですが、先生の怒鳴り声も、ヒステリックな声も、豹変する声も全てが俺に取って苦痛でした。あなたの声を聞いた十年間。幸せに感じることはなく。俺の心は壊れていって、両親の死にも会えませんでした。自分を追い詰めるなか、あなたの声に苦しめられてきました。どうか、俺を解放してください」
今までの想いをやっと伝えることができた。
泣き顔で首を横に振る伊地知に、俺は優しい言葉をかけてはいけない。
「俺は伊地知先生の下をやめます。独立して自分で頑張ります。応援してください。そして先生、今までありがとうございました」
俺はもう振り返らない。
スミレさんの下へ戻って手を繋ぐ。
「スミレさん。ありがとうございました。お待たせしました」
「よろしいのですか?」
「俺の伝えたいことは伝えました。そして、彼女の気持ちを聞きました」
「ひっ、紐田」
伊地知先生が、俺の名前を呼んだのは初めてだと思う。
いつも、おいとか、お前とか、名前以外で呼ばれていた。
「先生。さようなら。二度と顔を合わせたくありません」
俺はそれ以上何かを言うつもりはない。
スミレさんと共に公園を去っていく。
「スミレさん。少しだけすみません」
「はい」
俺は公園を出ると、スマホを取り出して、DMとして送られてきた仲介さんの番号に電話をかける。
「はい! 〇〇出版の仲介です! どちら様でしょうか?」
「お久しぶりです。仲介さん。紐田です」
「えっ! 紐田君! あなた今どこに!」
「あの、先ほど伊地知先生に会って話をしました。決別ができたので、先生を迎えに来てあげてくれませんか? 新宿御苑にいます」
「……そう。わかったわ。だけど、この番号は登録させてもらうわよ」
「はい。また仕事をお願いすると思います」
「ふふ、約束よ!」
俺は仲介さんに伊地知先生を頼んで、自分の瞳から一筋だけ涙が流れた。
自分がこれまで歩んできた道を否定したような気がしたからかもしれない。
「お待たせしました」
「大丈夫ですか?」
「はい。むしろスッキリしました。全てスミレさんのおかげです。伊地知先生と話せたのも、伊地知先生に言葉を伝えられたのも」
スミレさんがいなかったら、俺は言葉に流されて元の職場に帰っていたかもしれない。
「えっ?」
スミレさんが俺を抱きしめた。
「ヨウイチさんの心にもしかしたら、あの人への気持ちが残っているのかもしれないと私も不安でした」
「あっ!」
「嬉しいです。私を選んでくれて」
「もちろんです。俺はスミレさんを大好きです!」
「ふふ、初めてちゃんと言ってもらえた気がします」
「これから何度でも言います。大好きです」
俺はスミレさんを抱きしめ返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます