第10話 傷になるから触れないで。寂しくなるから離さないで。
「陛下は市井の様子についてあまりに無知であると見受けられます」
昨日の今日で懲りずに朝からやってきた娘の言葉にルーカスは思わず吹き出すように笑った。それから、そんな表情は皇座にはふさわしくなかったと気が付いて、眉間の皺を深める。
少し高くなっている皇座から彼女の姿を見下ろして、ルーカスは表情を引き締めたまま頬杖をつく。
「小娘ごときが俺の視座を語るか」
「小娘だからこそ見えるものもありますわ」
間髪入れずに応じたルーシーの様子に、ルーカスは片眉をあげた。
「お前の方が、俺よりも帝国に詳しいと申すか」
「いいえ。帝国への愛と知識では、わたくしなど、とても陛下に叶いませんわ」
彼女の言葉にルーカスは奥歯を噛みしめる。
(俺は、帝国を愛してなどいない)
誰にも言えない言葉は目を伏せて、胸のうちに落とす。じくじくと、まだ血を流し続ける内側の傷がまた性懲りもなく痛みだした。ルーカスは何かを求めて、彼女に視線を戻す。それを待っていたように、ルーシーはその、鈴の音のような声をあげた。
「ですけれど、わたくしの方が存じていることもございます。ですから、陛下」
彼女は、大きな瞳を輝かせて、唇の端をあげる。
「わたくしと共に、街歩きに興じていただいても、よろしくて?」
夜を赤々と染め上げた炎を前に、彼の死を断言したときと同じ強さの瞳がまっすぐにルーカスを射抜く。母の命と引き換えにして不死となったときから常人よりも随分と遅くなった心音が一度、強く鳴って。
ルーカスは頬をつく手を爪が食い込むほどに強く握り、目を伏せる。
その感情は、そんな風に彼女を求める気持ちは。
この身に宿る神が、ただひとりの片割れを求めるだけの、他人の愛だ。
(――俺は、何者も愛してはいない。)
そうして、皇帝を外に連れ出すことに成功したルーシーは今更ながら、吐いた口説き文句の酷さに内心で頭を抱えていた。
(わたくし、実は愚かなのかしら……ノアの
寝不足の頭では、あれが皇帝を誘い出すための一番良い口実に思えたものだけれど、リアムのお茶を飲んで目が覚めてみると、どうしてあんな言葉で成功したのかまったくもって分からない。それを妙案だと思ったのも、狂気に侵されていたとした思えなかった。
ルーシーは、隣に座る皇帝に横目を向ける。
二人が居るのは狭い馬車の中だった。この馬車に運転手は居ない。星のような何かが刺繍された濃紺の布が馬車を引く二頭の黒い馬の目を覆っていて、どうにもその布が『魔法』らしく。何も言わずとも、主の生きたい場所へと連れて行ってくれるらしいのだ。
普段は従順に皇帝の望む場所に彼を連れていく馬車が、今だけはルーシーを主として二人を運んでいる。空はよく晴れていて、空気は冷たいけれど風がないから寒くはない。絶好のお昼寝日和だ。
「なんだ」
目を閉じていた皇帝が不意に口を開く。寝ているのかと思っていたルーシーは飛び上がるほど驚いて、けれどそんな驚きも口説くつもりで喧嘩を売った恥ずかしさも押し殺し、完璧な微笑で答える。
「綺麗な横顔を見つめていただけですわ」
本気を出せば、例え憎い男であろうと笑みを浮かべて完璧に褒め称えられる。ふふん、と頭の中でノアに得意気に胸を張るルーシーの耳を皇帝の低い声が揺らす。
「どのあたりが」
薄く片目を開いて、皇帝は白い瞳でルーシーを見た。
どのあたり。
ルーシーの表情がピシリと音を立てて固まる。
そもそも、ルーシーにとっては綺麗よりも憎らしいが先立つ顔立ちだ。その問いに答えられる言葉などあるはずもない。けれど、ここで何も言えなくては、さきほどの言葉が嘘だと断じられかねない。
事実、嘘だが。綺麗な顔というなら、ローガンの方がよほど好みの顔立ちだが。
まさかそんなことを高らかに宣言するわけにはいかない。
嘘は吐き通してこそ、意味を持つのだから。
「……鼻筋が。」
だらだらと冷や汗をかきながら、ルーシーは笑みを深める。皇帝は言葉が返ってきたことにか、鼻筋を褒められたことにか、ともかく何かに驚いたように目を見開いた。
ぱち、ぱち、と瞬きながらルーシーを見て、彼女の浮かべる笑みに思わずといった様子で笑いが零れる。体を丸めて肩を震わせる皇帝に、ルーシーはむっと顔をしかめた。
「人の顔をみて、笑うなんて失礼ではなくて?」
皇帝を睨みつけて抗議すれば、彼は笑いながらルーシーの頬をつまんだ。
その仕草に、笑っているのに寄せられた眉に、わずかに隙間のあいた唇に。
いつかの、
「そうむくれるな。可愛い顔が台無しだぞ」
皇帝はそういって、無理やりルーシーの口角をあげてから手を放した。まだ笑みの気配を残したままの表情で前に向き直る皇帝の横顔を、ルーシーは呆然と見つめる。
(どうして、わたくし、いま、あの人を思い出したのかしら)
よりにもよって、世界でいちばん憎い男の顔に、唯一恋したひとの顔を重ねるなんて。
やっぱり今日は、どうかしている。
「そういえば、陛下にとってこの顔は可愛らしい部類に入るんですの?」
ふと気が付いて戯れに口にした問いかけには、下手くそな狸寝入りだけが返ってきて、ルーシーは顔を逸らしながら小さく笑った。
「……ぃ。……きろ。おい、起きろ。着いたぞ」
誰かに肩を揺すられて、ルーシーは静かな眠りから引き上げられる。薄く目を開けば、滲んだ視界に橙色の髪が映る。その色彩にふやけた頭が一気に覚醒して、ルーシーは慌てて上体を起こした。皇帝の狸寝入りにつられて、いつの間にか本当に眠っていたらしい。
「大変失礼いたしました。御身の前で寝姿をさらすなど」
他の誰といるときでも、こんな風に気を抜いて居眠りをしたことなどないのに、どうしてよりにもよって皇帝の前で、と深く恥じ入りながら、ルーシーは顔を伏せた。頬に火がついたように顔が熱い。
「疲れていたのだろう。良い。……朝から土のようだった顔色が少し戻ったな」
彼女の乱れた髪をそっと整えながら、皇帝はルーシーの顔を覗き込む。そんな風に、躊躇いもなく触れられるのは、嫌だった。ノアのようにふざけているのではない。リリィのように命に代えられるような愛がこもっているわけでもない。
ただ、人間が、人間に触れるような、当たり前の行為として、彼はルーシーに手を伸ばす。頬を摘まむ。頭を撫でる。そうして、消えない傷跡のように、ルーシーに人間の温もりを刻み付ける。
そんなものは、欲しくはなかった。
そんなものは、知りたくなかった。
だって、知ってしまえば。
(――――手放すのが、惜しくなる)
たとえそれが、世界でもっとも憎んだ、男の物であろうとも。
ルーシーは瞼を伏せて「ご心配をおかけしました」と小さく謝った。皇帝の手が離れて、つい、追いかけるようにルーシーは顔をあげる。そこでようやく、馬車が深い森のなかに止まっていることに気が付いた。
ルーシーが馬車に連れて行ってと願った、最高の木漏れ日と川のせせらぎを味わえる場所である。
「ここが、お前が俺に見せたかった場所か?」
皇帝に問われて、ルーシーはゆったりと笑顔を見せる。
「ええ。皇帝陛下」
上目遣いで彼を見上げて、ルーシーは覚悟を問う言葉を返した。
「極上のお昼寝を味わう覚悟は、よろしくて?」
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