第2話
地球から出発した軌道エレベータは、静かな夜空をかき乱すことなく上昇を開始した。リナは車内の座席に座り、ささやかなGフォースを感じながら、今この瞬間を味わっていた。
軌道エレベータはグアム諸島から南下した先にある赤道にほど近い公海上に浮かんでいた。昼間に見たそれは、はじめ、空から垂れた一本の糸のようだった。まるで雲と同じ成分でできた白く輝く美しい糸。夜になって搭乗予定の便が告げられ、リナは要人らの丁寧な案内に囲まれながら、縦向きの線路に張り付く縦向きの電車に乗り込んだ。軌道エレベータが宇宙基地に到達するまでの時間は思いのほか長く、思いのほか退屈だった。宇宙基地に到着すると、無重力の感動を味わう暇もないまますぐに次のロケットへと移動する。要人たちの付き添いはここまでだ。リナは、特に仲良くなった女性の要人らと手を振ってお別れした。
船内はバスの車内のように狭く、椅子はアルミ製で硬く冷たかった。この場にはすでに火星探査メンバーが揃っているということでオリエンテーションが開始され、船長が一五名ほどのメンバーを紹介する。
「我々の科学リーダー、ドクター・ユキです」
一人の女性が席から立ち上がった。四十歳前後と思われるその女性は、落ち着いた雰囲気と厳格な表情で周囲に微笑みかけた。
「私はこの任務に強い期待を寄せています。特に女子高生であるリナさんには、その〈直観力〉でなにか新しい発見をしてもらいたいと思っています」
急に名前を呼ばれて驚くリナ。リナはドキドキしながらも、自分が期待されていることを改めて理解した。
「リナさん、初めまして」オリエンテーションの時間が終わると自由時間になり、ドクター・ユキが声を掛けてきた。
「あ、はじめまして、ユキさん。私も探索に参加できること、楽しみにしています」
リナは緊張しながらも、ユキに対する何かしらの信頼感を覚えていた。
「私も昔は持っていたんだけどね、〈直観力〉。歳を取ると失われてしまうこの力、あなたには存分に活かしてほしいと思っています」
ユキの言葉には前向きな期待感があり、リナはそれに応えられるかどうか、自分自身に問いかけてみる。しかし、もう後戻りはできない。やるしかないのだと拳を握りしめる。
「力を合わせてがんばりましょう」
そう口にしてから、リナはその言葉が文化祭前にマユがクラスメイトに向けて言っていたものだったと思い出し懐かしい気持ちになった。すでに地球に帰りたい。火星でホームシックにならないだろうか。いや、もうすでに罹患してしまったホームシックに今後も耐えられるだろうか。
「そうですね。一緒にがんばりましょう」
それから二人はしばらくおしゃべりを続けた。
火星の赤い大地が、探査船の窓越しに広がっていた。リナはその光景に目を奪われていた。
「着陸完了。全員、外部活動の準備をしてください」
チームリーダーの声に、リナは現実に引き戻された。
マリネリス渓谷。平地のように見えるが、実際は巨大な谷の中。地球化研究の一環で、この谷には〇.七気圧の空気があることは事前に説明されていた。
火星の風は冷たかった。宇宙船から外に出て、探査基地に移動する。政府から配られた作業服を纏った身体が軽く、ふわりとする。髪の毛がいつも以上に暴れるので、後ろでひとまとめにした。リナはずっとドクター・ユキと一緒だった。ユキもチーム最年少のリナのことをずっと気遣うように傍にいた。
火星基地が見えてきたところで、リナはふと目についた石ころを拾い上げた。そしてグッと身体を起こした時、頭がくらっとして倒れそうになる。
「大丈夫? リナ」ユキが身体を支えてくれる。「今までずっと無重力だったからね。立ちくらみ、気を付けて」
「うん、ありがとうございます」
「その石、気になったの?」
「え、いえ。クセなんです、石拾うの」
そう言ってから、リナはしまったと思った。女子高生代表がアホの子と思われてしまっては大変だ。「あ、違います。友達におみやげにどうかなって思って」
「そっかぁ」とユキは笑った。「それ、あとで詳しく調査しましょう。あなたの〈直観力〉が選んだ石だもの」
「え。そんな、別になにか感じて拾ったわけじゃ」
「いいのいいの。〈直観力〉ってそういうものだし」
マユは微笑みかけたが、リナは改めて自分の力がここまで期待されていることに驚きと不安を感じていた。
火星に到着してから数日が過ぎた。ドクター・ユキと他の科学者たちは、リナが拾った石について激しく議論していた。一方のリナは震えていた。なにげなく拾った石がどうしてこんなに注目されているのかわからない。石は火星では普遍的な赤く錆びたような石ころだったが、頭の良い科学者たちはしきりにこの石になにかとんでもない秘密が隠されているのだと信じて疑わず、あらゆる高価な検査を惜しげもなく繰り返している。
外に出て、はぁとため息を吐く。
また目についた石を拾って、いつかの公園でやったように陽の光にかざしてみた。一見すると赤い火星の普遍的な石だったが、陽の光は表面を美しく虹色に輝かせた。これもよくあること、ただの自然現象だと思っていたが、何度も何度も観察を続けるうちに、その色彩変化が一定のリズムとパターンを持っていることに気づいた。
「なにか言いたいの?」
リナがつぶやくと、その言葉が石に届いたような感覚がした。また立ちくらみがする。……座ってるのに? 石の色彩変化が少しだけ速くなる。え、でもそんなわけ。リナは慌ててユキを呼び、色彩変化のことを報告した。
「もしかして」とユキはリナが最初に拾った石も同様に陽にかざしてみた。やはり同じように虹色の輝きを放つ。
「これはなんだと思う? リナ」
ユキからそう聞かれ、この返答がチームにとって重要な意味を持つことをリナは理解した。下手なことは答えられない。しかし、マユの笑顔と言葉がリナを元気づけた。
「向こうに行っても、そうやってちゃんと〈直観力〉を信じて、言葉にしてあげるんだよ」
「メッセージ……のような気がします」
「そう、わかった」ユキはリナを抱きしめて、頭を撫でた。「解析手法を探すね。ありがとう」
このニュースはあっという間に地球にも届き、世間を沸かせていた。火星に転がるすべての石は、陽にかざすと色彩変化を観察できる。そしてそれはなんらかのメッセージであると女子高生の〈直感力〉が訴えている。だとすれば、それらの石は知性を持ち、生命体である可能性が高かった。
「地球での期待は高まっている」
探索チームは、火星で鉱石生物の存在を認めようとしている。その事実はリナにプレッシャーとして重くのしかかっていた。もし自分の〈直観力〉が間違っていたら? 探索チームや地球の期待や興奮が冷たく刺々しい視線に変わってしまうのではないかという恐怖をリナは感じるようになっていた。リナの〈直観力〉に対し科学者たちの科学的裏付けが取れるかどうか。リナはしばらく眠れない夜を過ごすことになった。
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