認識者

中下

認識者

 江東区のとあるビルの5階は区立図書館となっており、そこではいかなる時も静寂が空間を支配していた。

 図書館に入ると、奥の方に掃き出し窓が取り付けられた壁が見え、そのガラスの向こうにはテラスがあった。夜景を楽しみながら本が読めるというわけだ。

 そのテラスに、いつからか若い(二十代前半だろうか)二人の男女が通うようになった。彼らが恋人なのか、兄弟なのか、あるいはただの友人なのか・・・誰も知らなかった。もちろん彼らの名前すらも。

 彼らは、まず十八時頃テラスに本も持たずに訪れ、何をするでもなく備え付けの椅子に座り、会話もせずダラダラと過ごす。突然思い出したかのように本を取ってきてパラパラとページをめくり、飽きたのか、しばらくすると本を戻す。この一連の動作を毎日のようにしていた。

 さて、いつものように適当に過ごしていると、男が突然女に言った。

「なあ、今日はいつもみたいに本なんて見てないで、町の様子でも観察しないか?」

スマホをいじっていた女は面倒くさそうな顔をして、

「町なんか見て、何が楽しいの。スモッグに包まてる東京が『エモい』なんて勘違いしちゃった?私嫌いなのよ。そういったあさましくて代り映えのしない感性を見せびらかす輩が」

と返した。

嫌がる女をなだめて、男は一緒に夜景を眺める。その日、東京の夜は快晴だったが、どういう訳か遠くのビル群の輪郭はぼやけて、海に捨てられたビニール袋のようにあやふやに見えた。

「ほらね、何の面白味もないじゃない」

女は吐き捨てるようにそう言ったが、その時どこからか声が聞こえてきた。

「多田内閣は早急に退陣せよ!憲法違反の自衛隊は解散せよ!」

それは左翼で構成されたデモ隊だった。

「馬鹿らしい」

つまらなそうに女は言った。

一方、男はそのデモ隊を注視していた。

前日の雨が残るコンクリートの地面は、てらてらとビルや外灯の光を反射しており、その混沌とした光の上を、無数の白いヘルメットが蠢いていた。

「虫の卵みたいだ」

女とは対照的に、男はどこか楽しげな様子だった。

「俺さ、最近焦ってたんだ。何も考えず、ただ不気味に日常が物質的に過ぎ去って、何も感じずに年を取っていくんじゃないかって。でも、物質的でよかったんだ。何かを感じるのは苦痛だ。どうせなら人生楽したいし、俺は『認識者』になるよ」

熱弁する男を、女は、

「ああ、そう」

と流していた。そっけない彼女の態度が、実は一番『認識者』らしいのかもしれない。

 短期間のうちに政界は大混乱に陥った。というのも、区立図書館前で起こったデモに呼応し、左翼組織である「反日マルクス学生同盟」(マスコミはこの長い名前を略し、反マル同盟と報道した)が一斉に東京各地でデモを行うことを予告。これに危機感を覚えた政府要人が「反マル同盟なんて非合法化しちゃおうよ。あんな基地外みたいなのを町に放置しちゃだめだよ」と発言した。これに反発した多くの左翼組織がお互いの敵対関係を一時的に中断し、共同して暴動を起こしたのだ。当然右翼もこれに対して行動を起こし、11月の東京の夜は騒音に包まれていた。

「安保闘争みたいだな」

男は、隣で同じように外を眺めている女に向かって言った。気温が下がってきたので、二人ともグレーのパーカーを羽織っている。

眼下では、機動隊とデモ隊との衝突が起きている。青い機動隊の海の中に、白いヘルメットがなだれ込み、それは波打ち際を連想させた。女は、むかし所用で横須賀に行った帰りに、海を眺めたことを思い出した。コンクリートは柵の向こうで突然途切れ、その向こうにはヘドロが混じる緑色の海があった。柵の上から覗き込むと、いくつかのゴミが捨てられていて、そのゴミの間を生きているのか死んでいるのかわからない海月がパカパカと浮遊している。そのさらに手前では、自分の足場を支えている石柱に、海が力なくもたれかかって、倒れて、それを繰り返していた。海が引くと、長いこと泡がこびりつき、それも一つずつ潰れていく。

―何もかもに対して無責任な、波の泡―

 機動隊とデモ隊の勝敗を男女は競い、さながらスポーツ観戦のごとく暴動を眺めた。デモ隊の一人が、機動隊員の一人の頭をゲバ棒で殴打し、青いヘルメットのかけらが宙を舞った時、男女は思わず立ち上がり、その様子を眺めた。彼らの瞳に、久々に灯りがともった。

「認識者、案外いいかもね」

 女は、男に数か月ぶりの笑顔を見せながら言った。彼女がこちらを向いた時、メガネのフレームが何かの光を映したので、男はその光の源を見ようと太い石柱で囲まれた窓の外を見たが、相変わらず、遠くのビル群はあやふやであった。しかし、暴動の熱狂か、それとも彼ら認識者の熱狂なのかわからなかったが、何らかの精神的熱狂がビルの輪郭を徐々に明確にしていた。

 

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認識者 中下 @nakatayama

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