76 水が跳ねる音(1)

 翌日、早朝。


 アリアナは、一人、湖まで出てきていた。


 まだ、霧がかかる時間。

 昨日の大騒ぎで興奮したせいか、思ったよりも眠れなかった。


 目の前には、湖の岸が浜辺のようになっていた。


 キョロキョロと周りを見渡す。

 大丈夫、人はいない。


 少し、気になっていたのよね。


 左門の記憶を手繰る。


 左門は、海の近くの生まれだ。

 よく、海水浴でザバザバと水の中に入っていた。


 アリアナは、左門の記憶を持っている。

 それこそ、物心ついた頃から、死ぬ直前を見てきた。

 どう思っていたのか、何を感じていたのかもある程度思い出せる。

 けれどそれは、どうしてももう、当事者としての記憶ではなかった。


 まるで、夢の中で、左門という人間が主人公の、長い長い物語を見せられたようなもの。

 けれど、夢と一括りに言ってしまうにはあまりにリアルで。

 悲しくて。

 長い長い物語だった。


 だから、アリアナは実際に感じたことなどないのだ。


 左門が好きだった水の中が、どんなものなのか。


 ブーツを脱ぎ捨てると、もふもふとしたお嬢様特有のスカートをたくし上げる。


 貴族令嬢にはあるまじき、膝より上まで露わにして、水辺までそろそろと歩いて行った。


 つま先を水の中に入れると、

「ひゃっ」

 と小さな声が出た。


「つめ……たい」


 けれど、透き通る水の中に足を入れるのは慣れると気持ちのいいもので、足を全て入れてしまう。


 ここなら、柔らかな砂ばかりだし、怪我をする事もなさそう。


 ゆるゆると、水を蹴り上げてみたりした。

 パシャン……!

 上がる水飛沫が、涼しげだ。


 そっか。

 左門の見たものには到底及ばないけど、確かに水に入ると冷たくて気持ちいいわね。


 パシャパシャと一人遊んでいると、後ろから突然、

「ゴ……、ゴホッゲホッ」

 と声が聞こえた。


「!?」


 水を蹴り上げるのをやめ、後ろを振り向く。


「…………」


 目が、合った。


「…………え」


 スカートを下ろそうとして、水に浸かってしまう事に気づき、スカートはそのまま握りしめた。


「なんでこんなところで……」

「なんでここに……」


 言うのは同時だった。


 混乱する中で、先に声を上げたのはレイノルドの方だった。


「アリアナ……、あの、スカート、下ろしてくれないかな」


 そう、見たこともない顔で目線を泳がせているのは、確かにレイノルドだった。


「あ……」

 アリアナもオロオロと湖からあがり、スカートを整える。


 えーと……。


 足……見られた……?


 えー……と……?


 幻?

 こんなところに居るなんて。


 私、何て言えば???

 今までレイノルドと、どんな風に話していたっけ!!??


 昨日のシシリーの言葉や、こいつは足を見たんだろうかという疑念、それでもレイは紳士だから見ないでいてくれたんじゃないかななんていうちょっとした希望と、それにしてはレイは赤くなって口籠っているのはなぜかなんていう疑問が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。


「ど、どうしてここに!?」

 何か言わなくては、と思った結果、無難な質問をしたのに、アリアナの声は裏返ってしまう。


 ああ……失敗したわ……。

 レイの前ではしっかりしていたいのに……。


「あ、えと、魔術教室を見学して回ってるんだ。魔術師の、仕事で」


「しっ……、仕事でこんなところまで来ないといけないなんて、大変ね!?」


 変に吃ってしまうので、アリアナは手で口を抑える。


 どうしよう、立て直せないわ。


「見てないから……っ!全然、見てないからっ」


 レイノルドはそう言ってくれたけれど、そう言いながらもますます赤くなっていく顔は、どうにも怪しい。

 その姿でアリアナまでみるみる顔が熱くなってくる。


「見てはいないけど……、こんな場面に出くわしてしまったお詫びに……、」

 レイノルドの声に、アリアナが、顔を上げた。

「お茶でも、奢るよ」


「……あっ。ええ、わかったわ」


 うっかり即答してしまう。

 少し悩むふりくらい、すればよかった。


「じゃあ」

 言うだけ言うと、レイノルドは目を逸らしたままくるりと後ろを向き、行ってしまう。


 一度もアリアナの方を見なかったのは、こんな姿のアリアナに気遣ったのだろうか、それとも、見せられない顔をしていたからだろうか。


「また、ね!」


 想像よりも大きな声でなんとか挨拶を返す。


 レイノルドは、

「ああ」

 と、素っ気ない返事だけをして、すっかり霧の向こうに行ってしまった。


 後には、立ち尽くすアリアナだけが残る。

 湖の表面で魚が跳ねる音だけが、その場に響いた。



◇◇◇◇◇



こんな時でもなかなかカッコよくはできないレイノルドくんです。

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