第46話 儀式


 炎がうねりをあげ、大気を揺らした。

 

 「〈死をここに、定義する〉」

 

 フランの静かな詠唱が始まる。

 ペンシルで描かれた魔法陣が青白い光を帯びた。

 

「〈葦の海原、永遠の星、神秘の陽炎は遠く、幸をことぶく八雲を退け、十三の回廊を渡って私は至る〉」


 魔法陣の光は順々に繋がっていった。

 

 広場の焚き火の前に描かれた魔法陣の中。

 そこから少し離れた場所で、囮以外の村人たちも儀式を見守っている。

 ミヒテの代わりに書記長が加わり、加菜子を含め囮となった人々がフランに倣い、地面へ視線を落として不安そうな顔で彼の詠唱に耳を傾けた。


「〈大地を踏み鳴らし、戦場の種を燃やし続け、母なる海の手が命を攫い、大気によって刈り取る〉」

 

 加菜子たちの頭上で雲が重たく掛かり始めた。

 

「〈大いなる力、大いなる母、大いなる愛を私は欲する〉」

 

 魔の風が首の後ろを撫でた。怯える人間を揶揄うように、それは吹きすさぶような強い風となった。誰も声を漏らさないよう、その場から動かないよう必死にたたらを踏んで堪えた。

 

 フランが静かに視線を上げた。

「〈この声に応え、救いを垂らすならば――顕現・・せよ〉」

 

 誰もが祭壇の上を見た。

 何もない。まだ、何も。

 

 しかし、広場一帯の気温が急速に下がっていった。

 晩夏の山といえど、身を震わせるほどの冷気が躰を震わせるなど異常だった。

 

 寒さに凍えた、たった一度の瞬きで、視線の上下の合間に、――それは顕れた。

 

 魔法陣の前に作られた祭壇の上に、黒い影が唐突にあった。


 加菜子は静かに息を呑む。周りの人間も同様だ。現れた瞬間を誰も目に出来ていないだろう。

 それは不気味に蠢いて、何処にいようと“わたしたち”を見ている。

 

「ヒッ」

「……みんな、動くんじゃない」

 お婆さんたちは最小限に声を絞って、怯え思わず後退りをしそうな村人たちに、注意を促した。

 実際には、誰も動くことなど出来なかった。

 

 怖気立つような気配にがくがくと身を震わせるだけで精一杯だった。

 加菜子は耳がちぎれそうなほど、甲高くか細い耳鳴りがした。

 

 おどろおどろしい影から、化け猫のような唸り声がする。低い獣の咆哮、女の悲鳴のような絹を裂いた甲高い音。


 それに混じった、人がどうしても無視出来ない、同族の話し声。


   おカあサん

   カわイい坊や

   こっチだよ

   オいデ、おイで、おいで

 

 明らかに、人の声だった。

 

 加菜子は愕然とそれを見た。耳の奥で聞こえていた、か細い笛のような音が警鐘だったのだと、気が付く。

 不釣り合いなおぞましさを覚えた魔法陣の中の村人たちは顔色を青ざめさせた。

 恐怖とは、日常から少し外れた違和を以て人は覚えるものだ。

 

「もうおしまいだ」

「あいつらを殺せッ」

 

 魔法陣の外にいた群衆の様子がおかしくなって、加菜子たちはそちらを見た。

 

「商人どもを引き摺り出せ!」

「旦那が死んで泣くくらいなら、一緒に送ってやればいい!」

 

 皆、興奮したように熱を帯びた声で叫んだ。

 ある者は絶望から、ある者は泣き喚いて、ある者は愉しそうに、ある者は嬉々として囃し立てた。

 

 魔法陣の中にいる顔役を含め、村人たちは唖然とした表情で、先ほどまで隣人だったはずの人々を見た。

「狂ってる……」

 彼らは異変に気がついた。

 いや、違う。もうずっと前からきっと、彼らも気付いていた。その違和感に無意識で蓋をしいたものが、歪みに堪えきれず、溢れ出したのだ。

 

「みな、ごらん」

 お婆さんが、祭壇の上を指差した。

「この村の人間の憎悪を恐怖を増大させているのは、こいつさ」

 

 おおよそ顔と呼べるものは何もない、まだ躰を結んでいない、気配だけのそれ。

 なのに、どうしてこうも禍々しいのだ。

 

「悪性を強く持つ者は、人の悪意、憎悪、嫉妬、恐怖、混沌、それら全て負の感情を喰らって強くなるんだ。それが、大厄神というものだ」

 

 加菜子はやっと合点のいく答えを得た。

 魔獣に襲われたあとの村人の様子は明らかにそれまでと違い、おかしいものだった。魔獣を呼ぶ魔法で、村人たちをまるで麻薬に漬けるように、ゆっくりと狂気を、恐怖を染み込ませていったのだろう。


 厄神とはなんだ。神の遣いとはなんだったのか。

 

 まるで悪魔のようなその姿、その声、その欲望。神とは、人の身で決して目にしてはならぬ、聞いてはならぬ、触れてはならぬ。

 しかし、その理を犯したのは、こちら側だったのだ。


「――故に、名を告げてはならぬ。姿を描いてはならぬ。存在を確定してはならぬもの」

 

 お婆さんが目を閉じながら言った。

 

 恐怖に固まる人々の中で、ヴィンセントとフランだけが厄神を真っ直ぐに見据えていた。

 

「疫鬼について元の文献では、この地に流れ着いた異国人が連れ込んだとある」

 

 ヴィンセントは、静かに語り始めた。

 

「長い航海のさなかで疫鬼に襲われた彼らは、命からがら流れ着いたリヴィニース辺境伯領に助けを求めた。でも疫鬼の正体は、はっきりとしていないんだ。もちろん言葉の壁もあっただろうけど、一番の理由として、彼ら自身が疫鬼について多くを語ろうとしなかったからだとも言われている。ただ、疫鬼を切り捨てた当時のウォルザー家当主は疫鬼の正体について別の回顧録の中で『誰が彼らを責められようか』と残している。真相は分からない、これは僕のこじつけかもしれない。ただ、疫鬼の亡骸を収めた棺の中には多くの人形と玩具を集めて入れたと書かれていた。その後、異国人たちは懺悔するように毎日祈りを捧げ、祖国に戻ることなくこの地で亡くなったそうだよ」

 

 人間と厄神の境界に立ち、彼は足を止めた。


「君たちは、3つの魂が混ざり合っている。疫鬼、厄神、黒い小さな仔猫。いくら善性とはいえ、疫鬼厄神の核となるのに小さい仔猫では、相当しんどかったろう。かわいそうに……これはもう、ダメか」

 

 ヴィンセントは、諦めをもった低い呟いを残して右手を掲げた。

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