第37話 デニスという男 2
加菜子は自分の意識が一段階落ちたような感覚を覚えた。薬の影響が強まっている。
デニスは泣き笑いするように彼女へ手を伸ばした。
「なぁ君だって分かるだろ? あんな天才が2人も側にいて『なんで自分だけ』って。比べられることすらない、その惨めさが君にだけは……」
とても暗い目をしていた。
「わたし、には……」
加菜子はもう腕を持ち上げられず、いっそ吐き気を催すほど清涼な芳香をいたずらに吸い込むことしか出来なかった。
加菜子は今まで人を憎んだり、恨んだり、ましてや妬んだりしたこともなかった。
寺院からの帰りに薬で昏睡したあの日、夢に見てはじめてやっと思い知った――あの瞬間の自分に抑え切れない憎しみと殺意が芽生えていたんだと。
だって、そんな感情を持っていいのはちゃんとした“人”だけだと思っていた。
誰かの居場所を奪うことのない、誰かの幸福を踏み躙ることのない、そんな――
瞼を閉じて、細い線で作られた祖母を思い描く。
(おばあちゃんは、幸せだった?)
答えをくれる人はもういないのに。
デニスは薄ら笑いを浮かべて加菜子を見下ろした。
「ああ、でも君は分からないか……女の子だものね」
デニスは嘲笑するように唇を歪めた。
加菜子はもう黙って欲しかった。それが彼の本心とは思えないから。この人にそう言わせたのは誰だ。デニスがなろうとした“彼”ではない、そんな言葉を、この人にだけは、吐かせてはいけないのに。
デニスは力の抜けた躰を頭が落ちる方へと――加菜子の方へと傾けた。彼の体重がのしかかる。幹との間で加菜子は苦しさに呻き声を上げた。
「う、ぐっ」
デニス本人はまるで催眠に掛かったようにぼんやりとした表情をしていた。
「いっそ僕も……」
死にたい、と唇が動いた。
「だ、め」
加菜子は力を振り絞ってデニスの腕へ手を掛けた。彼の躰を退かさなければ。
――ああ、間に合わない。必死にその言葉を吐き出した。
「それはダメ、フラン!」
一瞬の風がピタリと止んだ。
デニスの首の高さへ持ち上げられたフランの脚が、空中で少しのブレもなく動きを止めた。
一切の感情を削ぎ落としたフランの表情を見て、加菜子は何か具体的な予想をしたわけでもないけれど、とにかく止めて正解だったと胸を撫で下ろした。
危害を加えないで欲しいと加菜子は願いを込めてフランを見つめる。
フランは彼女を見て、少し顔を歪めてから舌打ちをした。
「チッ」
フランが脚を下ろしたかと思うと、目にも留まらぬ速さでデニスの側頭部を殴り付けた。デニスは声もなく地面に転がり、その衝撃で彼は少し目覚めたように瞬いた。
デニスの手が当たったせいで加菜子も体勢を崩したが、彼女がそうと気付く前にフランが支えていた。
フランは意識を失いかけている加菜子を抱えると、背後でうめくデニスを視線だけで振り返った。
「――自分の惨めな劣等感でこいつを汚すな。こいつはお前みたいに暇じゃなかった、それだけだろ」
フランの怒気を孕んだ静かな声に、デニスは息を呑んだような表情で固まった。
「……ふらん、あのひと、」
白くぼやけてゆく意識の中で加菜子が口を開いた。フランはそれすら不愉快そうにまた舌打ちをした。心底、軽蔑するような目で彼女を見下ろしていた。
(ああ、この人にまた嫌われてしまった)
だと思うのに。
加菜子は、自分でもこれがまともな感情の連鎖ではないと分かっていながら――それでも確かな安心感を覚えた。
それがおかしくて笑ったつもりだったけれど、彼女の頬はもう動かなかった。
「……あいつは、巡察隊がなんとかする。あんたは寝てろ」
それを聞き、正しく安堵した加菜子は目を閉じた。そのまま意識が遠のいた。
◇
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