第36話 デニスという男 1
この世界に来てからだいぶ体力がついたことをこれほど感謝したこともない、と加菜子は思った。
「マスター……、デニスさん、待って!」
その背中に呼びかけながら彼を追い掛けた。幸い、マスターの脚はあまり早くない。もしこれがヴィンセントやフラン相手だったら、とっくに見失っているだろうと加菜子は自信をもって言える。
だが、辺りの木々が密集してきたと感じた頃には、あの鼻を抜けるような清涼な香りが濃くなってきていた。加菜子は慌てて袖で鼻と口を覆う。野生のバニスペヨーテを見たことがないので反応が遅れてしまったようだ。
一度立ち止まって、呼吸を最小限に整えることを意識した。出来れば、マスターも加菜子と同じようにしていてくれると助かるが、それは難しいかもしれない。
この野草について、お婆さんたちはレイプドラッグに使われると言っていた。
しかし、それは少量の話だろう。筋肉を弛緩させるということは、この群生の量を吸い続ければ呼吸もままならなくなることは容易に想像がつくし、何よりも加菜子自身の本能がそう知らせている。
つまり、マスターが本格的に歩けなくなったら、加菜子には運ぶ術がないということ。
加菜子は頭を振って、再びマスターを追い掛けようと一歩踏み出した。
「……デニスさん、どこ?」
だというのに、一瞬で彼を見失ってしまった。
慌てず視線を遠くに投げれば、崖まで30mくらいだろうと見積もった。村自体が小さいのだから、ここもあまり大きな森ではない。
加菜子は努めて冷静に辺りを見渡した。草木が跳ねたような場所を注視すると、視界の邪魔をする大きな幹が目に入った。
それを超えれば、予想通りマスターがいた。彼は立ち止まったまま動かない。
背後からそっと様子を伺うと、彼の呼吸が荒いと気が付いた。すっかり匂いにやられているのだろう。
加菜子は彼を刺激しないよう優しい声音を意識して呼び掛けた。
「デニスさん、落ち着いて。今すぐ、ここから離れましょう……」
マスターは非常にゆっくりと振り返った。
しかし、焦点が合っていない虚な目をしていた。
加菜子は彼の腕をそっと掴んで、元の道を引き返しはじめた。
「クロは……」
マスターが呆然と呟いた。不要だと思い加菜子は返さなかった。
だが、返答がないとみたからなのか、やや抵抗を示すようにマスターの腕を引く加菜子の手が重くなった。
「クロは、大丈夫なのか……」
「大丈夫ですよ」
繰り返された問いへ加菜子はやや食い気味に答えた。
彼女の本心では、おそらくクロが呑まれるのも時間の問題で、もしかしたら助からないだろうと考えていた。
人と獣の命を同等と言えるようなやさしさを、加菜子は持ち合わせていない。
後で人でなしと罵られようが構わない。本当の意味で加菜子はマスターのことを救おうだなんて思っていないし、これは単なる自己満足だと分かっている。
だから、彼を歩かせるための嘘ならいくらでも吐けた。
今は、ただこの人をここにいさせてはいけない。加菜子はマスターの手を引いた。
半ば引きずるような強引さで促すと、やっと彼もゆっくり歩き始めた。
だが、反対に加菜子の躰はガクッと上下に揺れた気がした。寺院での時と同じ――いや、それより躰の反応は鈍くなってきている。
(まずい、吸いすぎた)
視界の端がブレ始めている。振り切るように、倦怠感が増した足を無理やり持ち上げた。早く、群生地を出ないと。
「……僕は、どうして」
「デニスさん、もうあまり喋らないで」
少し鋭い声で加菜子は止めた。
しかし、マスターはそれに反発するように続ける。
「僕が、あいつの代わりに死ねばよかったんだ……」
「そんなこと言わないで」
マスターの口調には、少し抑揚の制御が上手く出来ていない幼気な印象があった。
恐らく、袖で鼻口を塞いでいた加菜子よりマスターは深く吸いすぎたせいで意識が落ちてきているのだろう。
「ほんとうにダメなやつなんだよ、僕は。……あいつが、……弟が殺されたって聞いて、怒りで、頭がおかしくなりそうだった」
「それは、あなたが優しい、」
「……ちがう!」
人だから、と言い掛けた加菜子の言葉は、マスターが腕を振り払ったせいで中途半端に終わった。それが結果的に加菜子を幹へ叩きつける形になって、彼女はマスターを見上げた。
「僕は……俺は、自分に怒ったんだ! あいつが死んだって聞いて、安堵した自分に!」
彼――デニスは、俯いた自分の頭を乱暴に掻きむしり怒鳴った。
「ああ、もうこれであいつと比べられることはない。あいつと比べて、落ち込んで、己の人生の惨めさを思い知らされることはないんだって喜んだ、最低な自分に……!」
悲痛な叫びだった。
デニスが弟や時計職人について話す時はいつもそうだったけれど、それは今まで聞いた中で一番、苦しそうな声をしていた。
背負った重たい荷物に耐えきれず潰されて、それなのに背中をじりじりと炙るように燃え輝く太陽を、泥の中から恨めしく思う――そんな鬱屈とした感情が彼の中から湧き出てきているようであった。
「あんな天才にはなれなかった。親父の跡を継ぐ為に王都で一流の時計職人へ弟子入りしたって、俺みたいな凡才は簡単に呑まれるんだよ。最初から、天才に勝てるはず、なかったんだ……知っていたはずなのに……」
デニスは疲れ切って、怒りも熱も涙も悲しみも乾涸びた本心を投げ出すように吐露した。
そうして加菜子は、初めてデニス・ハーギンを見た気がした。
(ああ、この人も囚われているんだ)
もう二度と会えない人に。
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