第38話 温かさ
気が付くと、見知らぬ天井をぼんやりと見つめていた。
夢から現実への境界を跨いで、加菜子は大きく息を吸い込んだ。
躰をいやに重く感じる。けれど、この感覚には覚えがあった。
顔が濡れているのに気が付いて、加菜子はゆっくりと手の甲で拭った。
――夢を、見ていた気がする。
がむしゃらに突き進んだ、非凡で、平凡な、孤独を生きた魔術師の人生がこの世界の何処かにあった。
それを忘れたくないと、加菜子は夢の終わりに涙を落としたのだろうか。
「……目覚めたかい?」
聞き慣れたお婆さんの声に加菜子は視線を向けた。
「おばあ、さん」
掠れて情けない声が出た。
お婆さんは加菜子の胸元に手を優しく乗せると、すべて分かっていると言うように微笑んだ。
「いま、水をやろうね」
彼女が動く気配を感じて、加菜子は縺れそうな舌をなんとか動かした。
「ます、た……デニスさんは……?」
熱に浮かされたような細く頼りない加菜子の声。それを聞いて、お婆さんは痛ましいような、怒っているかのような表情を浮かべ、ため息を吐いた。
「……中和に少し時間が掛かったけど、じきに目覚めるだろう」
加菜子はそれを聞いて、ホッと力を抜いた。
お婆さんは加菜子の胸元にタオルを置くと、手繰り寄せた水差しを傾けて飲ませた。ゆっくり数回に分けて水を飲み込んで、加菜子を再び枕に頭を預け直す。それを確認してからお婆さんは改めて口を開いた。
「アンタね、他人の心配をしている場合じゃないんだよ」
お婆さんは怖い顔を作って加菜子に言った。
「もう少しで息が止まるところだった。……本当に、なんて無茶をしてくれたんだよ」
とても厳しい口調であったが、お婆さんの目は光を湛えて美しく反射していた。
呆気に取られてお婆さんを見つめ返す加菜子。
「……ごめん、なさい」
気付くと、彼女の口から勝手にそんな言葉がまろび出た。取り繕うなんて考えすら浮かばなかった。
デニスがクロを追いかけた時、あの場で動けるのは自分しかいないと思った。
けれど、結局周りに迷惑をかけてお婆さんを酷く悲しませてしまった。フランが助けに来なければ共倒れしていたのだから、つくづく自分の浅はかさが嫌になる。
でも、たぶん本当は、そんなことをお婆さんが怒っているんじゃないと加菜子もなんとなく分かっていた。
お婆さんは心から安堵したように加菜子の頬を包んだ。
「目覚めて、本当に良かった」
加菜子の頬を撫でる手は優しくて温かかった。
彼女の胸にチクリと棘のような痛みが、焦燥感が、走ったような感覚を覚えた。
(わたしは、いつからこんな温かさを分けてもらうような、上等な人間になったのだろう)
その後、二度と口にしたくない薬湯を飲まされ、加菜子はもうあんな無茶をするまいと決意を胸に秘めた。
だが、それからしばらく安静にしていると、みるみるあの薬湯が効いてきたようで彼女の躰は動くようになってきた。
お婆さんが様子を伺う前で、加菜子は手を何度か開閉した。
「まだ痺れてる?」
「指先だけ」
やっと躰を起こすことに成功した加菜子へお婆さんは温かいココアを淹れてくれた。
加菜子は人心地ついて、頭を巡らせた。動けるようになってきたのだから、村の状況がどう進展したのか確認しなければと思った。
「今は何時ですか?」
加菜子がそう聞くと、お婆さんはゆっくりとカーテンを開けて外を見せた。少し離れた広場の方がやけに明るい。
「とっくに日は落ちたよ」
窓の外へ視線を投げたままお婆さんは言った。
そのお婆さんの背後で、扉口に音もなく誰かが立った気配を感じ、加菜子は視線を上げた。
ヴィンセントだ。彼は扉に寄りかかり、目が合った加菜子へ手を振ってみせた。部屋の中に入って、体調を気遣うやり取りを二、三交わしてから加菜子はいくつか尋ねた。
「これから厄神疫鬼を呼び寄せる儀式をするんだよ」
広場の明るさについてヴィンセントはこう答えた。
「クロはまだ完全に呑まれていない。だから、あの嵐の夜に行われた儀式を再現することで封印出来る可能性が残ってる……はずだ」
彼は断言しなかった。これから長い夜が始まるのだと加菜子にも分かった。
「でも、その前に……村の人たちには、大事なことを決めてもらわなきゃならない」
ヴィンセントの言葉に、お婆さんは全てを分かっていると言うような頷きを返し、加菜子に心配ないと付け足した。
片眉を上げたヴィンセントは、皮肉を込めたように首を振った。
「貴女たちは、本当にそれでいいの?」
「ああ」
それを聞いて参ったと言いたげにヴィンセントが両手を上げた。
「年寄りって本当に頑固だなあ。この僕を、つまらない舞台の引き立て役にしないでくれない?」
「なら、その心臓をくれるかい?」
「やだ」
彼は声をあげて笑った。
「まあ、よく話し合ってごらんよ。どうせ貴女たちだけじゃ役者は足りないんだ」
どういうことだろうと加菜子は疑問に思った。
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