第28話 魔法の代償
ヴィンセントは渡された真っ白なタオルで血の付いた手を拭った。彼もさすがに疲れたような息を吐き出して首元を緩めた。
「止血はしたし、毒も除いた、魔術で細胞の再生速度を早めている。それでも、彼の意識が戻るか、僕には分からない」
淡々と話すヴィンセントの目の前には、腹を喰われながらもかろうじて息をしている男の姿があった。
それを見つめる少年の目を覆うべきか迷うほど、かなり酷い状態だった。男の妻がいる前だから、加菜子も理性でなんとか顔を顰めずにいたけれど、正直、この状態の人間が助かるとは思えなかった。
男の妻は泣いて、ヴィンセントに縋り付いた。
「お願いします、主人を助けてください……!」
「これ以上は、魔術じゃどうしようもない」
ヴィンセントは優しい口調とは反対に、冷淡なほどはっきりと答えた。
「ああ……っ」
彼女は、失われた夫の腕を掴むことも、窪んだ胴体に飛び込むことも出来ず、その場で泣き崩れた。
「……あなたは、魔法を使えないのですか?」
少年がヴィンセントと同じように淡々と尋ねた。
彼の父親と姉が村の門扉を潜ることはなかった。
「魔法なら、瀕死の人間でも、……死んだ人間でも、生き返らせることが出来ると聞きました」
先ほど取り乱していた子どもとは思えぬほど、彼は見た目よりも聡明で静かな口調をしていた。その目に涙はとうになく、しかし、光を失った瞳で、まっすぐヴィンセントを見上げた。
その強さ、賢さを、加菜子は危ういと感じた。
「……魔法には、それ相応の対価が要るよ」
笑みを消したヴィンセントは少年を見下ろし、血で汚れたタオルを投げ捨てるように放った。
「魔術魔法に限らず、どんな物事にも対価が必要だ。時間、労働、物と物。それを人類は等価の家畜や宝石、金銀、やがて貨幣や紙幣――つまり金に置き換えてきた。君のその上等な服もそう。君の父親が稼いだ金で誰かに作らせた結果ここにある」
そう言ってヴィンセントが少年の襟を指先で摘んだ。
「でもね、金ほど楽で有り難いものはないんだよ。なにせ、どんな多大な犠牲も、すべて金で置き換えられてしまえるんだから。魔術においては魔力を対価にすることで成り立っている。でも、魔法は少し違う。星導力を動力源にしながら、それを対価にしている訳ではない。――それが、厄介なんだ」
ヴィンセントは膝を折って、少年の胸に大きな手を当てた。今度は、彼の心へ向けて、ゆっくりとした口調で言葉を尽くすように語り掛けた。
「命の対価はとても重い。それこそ、死ぬと分かっていながら、君たちを守ると決めた彼らの覚悟が水の泡になってしまうくらい。……君の父親や貴女の夫が、何の為にその身を投げ出したのか今一度、考えてみるといい」
ヴィンセントから目を離さず、じっと耳を傾けていた少年は、やがて枯れた大地に水が染み渡るように、その心でヴィンセントの言葉をゆっくりと理解してゆくと、少しずつ唇を震わせてまろやかな頬に雫を溢した。
静かに泣き出した少年を、女性が抱き寄せる。間もなく、彼女の夫の顔にも安らぎが落とされていった。
「ヴィンセント」
裏口へ手を洗いに行ったヴィンセントを追って、加菜子は声を掛けた。
「うん?」
彼は手を洗いながらの姿勢で聞き返したけれど、加菜子は彼が振り返るのを待ってから尋ねたいことを改めて口にした。
「魔術と魔法の違いって、何?」
魔術師は、自らの体内で生成された魔力を使う。対して魔女や魔法使いは天地のエネルギーを吸い上げて使う。
お婆さんたちが言っていたのは、魔術師と魔法使いの違いだった。
濡れた手の雫を落として、自分の爪の間に入った血を見下ろしたあとでヴィンセントは口を開いた。
「魔力を使えば魔術師、星導力を使えば魔法使い、神力を使えば神通力持ちと呼ばれる……でも、それは真実の一片だ。特殊な条件と高度な修練、どちらも必要にはなるけれど――僕たち人間は、完全に魔法を使えないわけじゃない」
相変わらず持って回ったような言い方だが、普段よりも抑揚が少ない。加菜子は特に最後の一言を聞いて、やはりという思いがあった。
彼が裏口の段差に腰を下ろし、促されて加菜子もその隣に座った。
「けれど、精霊を目に出来ず、星の導きも得られない、魔力を持つだけの“ただびと”が魔法を使えば、無理が出る」
ヴィンセントは爪の間の凝固した血を掻き出すのを諦めて、大変だと言いたげに首を竦めた。その仕草はどちらの意味に掛けているのだろうと加菜子は迷った。
「……無理って?」
「魔法を使うほど、人ではなくなっていくんだよ。魔法は世界の理に触れるものだから、欲深い人間のような存在が下手に手を出して世界のシステムが壊れるのを防ぐ為、なんて言われているけれど、本当のところは分かってない。ただね、魔法を使い続けると、人間は、無機物のような抽象的概念へと成り果てるんだ。最初はその精神がズレてくる、次に肉体が現世に留まらなくなり、やがて他の人から見られることすら出来なくなる。まるで人が理想とする神のようにね」
ヴィンセントが静かな目を加菜子に向けた。その顔にいつもの笑みはなかった。
「……ねえ、加菜子は、夢も希望も後悔も憎しみも過去も未来もない人間って、どんなものだと思う?」
唐突に、ヴィンセントからそんなことを聞かれた加菜子は、何の言葉も頭に浮かんでこず、返しに困った。
だが、彼は最初から加菜子の答えは期待していなかったのか、そのまま続けた。
「魔法を使い続ければ、その意義すら忘れてしまう。だから結果的に、人間は魔法が使えなくなるんだ」
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