第9話
馬車での長い時間の中、「いくらでも好きな体勢を取るといい」と、言われたのと、恥ずかしさの極限まで達した結果……。
私はもう、旦那様を『そういう椅子か何か』だと思うことにした。
それからは、普通に前を向いて座ったり、横向きに――お姫様抱っこのような姿勢に――なってみたり。
時には、旦那様を背もたれとしてしなだれかかったりと、この馬車にはひとりで乗っているのだと思い込んで時間を過ごした。
――仮面越しに、旦那様のクックと笑う声が聞こえたとしても。
そして、前日あまり眠れなかったのもあって、途中からは眠ってしまっていた。
そのお陰で、気疲れはかなりマシだったように思う。
夕方に到着した旦那様のお屋敷には、寝ぼけ眼で入ることになったけれど。
**
『お帰りなさいませ。ゼラトア様。アニエス奥様』
一斉に出迎えられたのは、そのお屋敷の規模に比例していて、圧倒されてしまった。
実家の数倍どころではない人数の侍女と侍従が居て、そして執事まで居るのだから。
「妻はゆえあって貴族の生活を知らん。いいか? 俺の妻であるという事が、どういう存在なのかを教えてやれ。全力でだ」
『ははっ!』
「部屋の用意は出来ているな?」
「わたくしどもがご案内いたします」
「ああ、任せた。俺はいつも通りに頼む」
旦那様はそう言うと、一人どこかへと去ってしまった。
「アニエス奥様。さあこちらへ。お部屋へご案内いたします」
二人の侍女に言われるまま、連れられるままに三階にある部屋へと通された。
「え……」
お屋敷の外観もお城のようだと思っていたけれど、エントランスも、廊下も階段も、そしてお部屋までもが全て豪奢。
絢爛豪華という言葉は、あぁこのためにあるのかと、そういう感想しか出なかった。
「お気に召しませんでしたか?」
二人の侍女は不安そうに、そして申し訳なさそうに私の言葉を待っている。
「い、いいいいいえ! とてもその、豪華で……驚いてしまっただけなんです」
「そうでしたか! お部屋の模様替えも自由にとの事ですので、どんなご要望でも何なりとお申し付けください」
そんなにしてもらったら、申し訳なさすぎて倒れてしまいそうだ。
「ううん、そんな贅沢思い付くはずもないです。ありがとうございます」
「アニエス奥様。その……わたくしどもに、そのようなお言葉遣いは不要です。旦那様のように、もっと自然になさってくださいませ」
「あれって、自然だったんだ……」
不意に漏れた心の声は、侍女達を笑わせてしまった。
「ぷふっ! ふふっ、フフフフフフ」
「あ、アニエス奥様、そのような事は、ふふっ。旦那様の前では、お控えくださいね?」
二人の素の顔を垣間見れて、私も少し気持ちが落ち着いた。
「うん……でも、言葉遣いは気にしないでください。慣れ親しんだものなので、あんな風にはなかなか出来ないですから」
「はい。承知いたしました」
「それでは、お風呂の準備を致しますので、少しお待ちくださいませ」
不意にリザのことを思い出して、どこか二人に重なるようだと思っていると、彼女達はそう言って部屋を後にしてしまった。
その後は、とにかく物凄いもてなしにまた圧倒された。
そしてなされるがままに、それは、至れり尽くせりのフルコースだった。
先ほどの二人と共に、さらに四人が部屋に押し寄せたかと思うと――。
部屋に備えられた浴槽に温かいお湯が汲まれ、四人がかりで全身を洗われた。
あれよあれよという間にドレスを脱がされ、もちろん、「自分で洗いますから」という拒否は無言で却下された。
残りの二人は、味わったことのない風味豊かなお茶を飲ませてくれて、入浴が終わったと思えばベッドで全身のマッサージ。
心地良いと感じるのも束の間に、一瞬で眠りに落ちた。
そして……目覚めると夕食が用意されていて、食べきれない程の温かいご馳走をたっぷりと味わった。
最初は、横にも前にも侍女が立っている状況が気になっていたのに、そんな緊張もすぐに消えてしまった。
程よいタイミングでお料理の説明を添えてくれて、そのお陰でより美味しく頂けたから。
食べ方に迷うとすぐに察してくれて、「このようにお召し上がりください」と、優しく教えてもくれる。
心配りが、全て私のためにという真心から起きているから、彼女達が側に居てくれる方が安心出来る。
そういう気持ちに変わっていた。
「ごめんなさい。もう、食べきれません」
それが本当に申し訳なくて、そして、未練がましい気持ちが残った。
「加減が分からずに申し訳ございません。次からはもう少し、量を調節いたしますので」
「あ、デザートは時間が経っても大丈夫ですから、こちらに置いて行きますね。召し上がる時はベルを鳴らしてください。お茶をお持ちしますので」
そうは言ってくれるものの、外はもう真っ暗だし、どう考えても後は寝る時間だ。
「夜中に目が覚めたら、こっそり食べてもいいですか?」
お水さえあれば、私は十分だから。
そしてデザートが……いつでも食べても良い状況で、側に置いていてもらえるのがたまらなく心が躍った。
「いいえ、アニエス様。わたくしどもはお仕えするのが嬉しいのです。遠慮なくお呼びください。それは、わたくしどもが敬意を表せる数少ない出番なのですから」
「そうですよ。アニエス様を一目見て、私達はアニエス様のためなら何でもして差し上げたいと思ったのです。むしろ常にお呼び立てください」
「アハハ……。ありがとうございます。そのうち慣れたら、でもいいですか? 今日だけでもこんなに良くして頂いたのに、これ以上なんて思いつきませんから」
「あぁ……もう、アニエス様はやっぱり、尊いお方です」
ヒルダと名乗っていたこの人は、両手を組んで祈るような素振りをした。
「こらっ、妙な言い回しをするんじゃありません!」
リリアと言ったこちらの人は、ヒルダよりも先輩なのだろう。
「フフッ。二人とも、優しくしてくれてありがとうございます。ふぁ……」
欠伸が、妙なタイミングで出てしまった。
「あっ。長旅でお疲れだと思っていましたのに。大変失礼いたしました。我々は退室いたしますので、あちらの寝室でごゆるりとお休みください」
「アニエス様。寝る前にこのお茶を一口お飲みください。眠りが深くなります」
そんなことを言い残して、豪華な部屋にふと、一人にされた。
その方が落ち着くと思っていたのに、私担当なのかあの二人が居なくなると、気楽さよりも寂しさの方が勝っていることに気が付いた。
「……こんなにまっすぐに、優しくされてしまったら……」
あの時引き離された、リザの顔が浮かんだ。
少し珍しい赤髪の、優しい笑顔のリザ。
「思い出しちゃうなぁ」
寝室の、天蓋付きの大きなベッドも、豪華さよりも寂しさを際立たせる。
「もう少し、一緒に居てほしかったな」
ベッドに体を横たえながら、ひとり呟いた。
せめて、私が眠りにつくまで。
(明日からは、添い寝を希望してみようかしら)
でも、そんなことを言ったら、彼女達がゆっくり眠れなくなってしまう。
今日だけでも、かなり気を遣わせただろうから。
「……リザ。……ヒルダと、リリア、みんな……おやすみなさい」
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