第8話
――怒鳴られたらどうしよう?
初対面……ほぼ初対面で、しかも言わば、私はこの人に買われた身。
なのに、怒らせてしまったのに顔に触れたいなどと……。
「アニエス……。お前はどういう神経をしている」
「も、申し訳ございません。失礼を重ねてしまって――」
言い訳はやっぱり思いつかない。
思ったことを口にしてしまったという、本気で空気の読めない頭の悪い女にしか、見えないだろう。
「――はぁ。違う。怒ってはいない。ただ、あまりに意表を突かれたものでな。……構わん。触れてみるがいい」
少し面倒くさそうな口ぶりなのは、元々そうなのか、やはり少しは怒っているのか……。
でも、お許しが出たのなら乗るしかない。
――これから、好きになってもらいたいのに……自分の興味を優先してしまうなんて、自分でもどうかしていると思いながら。
「では……遠慮なく……」
馬車の揺れでつまずかないように、ゆっくりと前に出た。
先程の英雄様と同じように、彼の側に膝をついて――。
今度は私が、そっと手を伸ばす。
けれど、爛れ具合が物凄くて、痛みが強いのではと手を止めた。
「どうした。やはり恐ろしいのだろう」
その目は、私の反応を楽しんでいるように見えた。
声が、怒っていなかったから。
「いえ、その……触れても痛くありませんか? あまりにその、痛そうなので」
……それにしても、やっぱりこの有り様はおかしい。
仮面越しに見えた瞳は、その目の形は、ここまで崩れていなかった。
「痛みなどない。存分に触れるがいい」
膿の嫌な臭いもなく、垂れた膿汁もどこかに消える……。
――ここまで酷いのに、痛みもない?
「そ、それでは、本当に失礼します」
好きにしろとでも言うかのように、彼は目を閉じた。
閉じてしまうと、どこが目だったのか分からないくらいに、醜く崩れているお顔。
――でも。
これはきっと、まやかしに違いない。
呪いによって実際に姿を変えられてしまったのではなく……。
見る者全てに、醜悪な姿に映る幻覚を付与されたのだ。
きっと――。
「わ……。やっぱり」
この手に伝わる感触は、スベスベとした、正常な人間の皮膚だった。
鼻筋の通った、精悍なお顔のように思う。
――他人の顔に触れるなんて、初めてだけど。
「ふっ! フハハハハハ! 本当に触るやつが居るとはな!」
「キャッ」
急に大きな声で笑うものだから、驚いて手を引いてしまった。
指が目に入ったらどうするつもりなのかと、少し怖かった。
「お前が初めてだ。俺に自ら触れた者は」
「そ、それは光栄です……?」
「それで? どう思った。やはり恐ろしいか」
見た目は崩れていて醜悪で、膿汁にまみれたお顔だ。
そのお顔で愉快そうにされればされるほど、何とも言えない不気味さに圧倒されそうになる。
けれど触れたこの手は、全てはまやかしだと言っている。
「その……見るとやはり、恐ろしいです。でもやっぱり、本当のお姿は正常なのですね」
「……よくぞ見抜いた。自力で、しかもほぼ初見で見抜いたのはお前が初めてだ。素晴らしい。……だが、なぜ分かった?」
満足そうに微笑んでいるのかもしれないけれど、不気味な形にゆがんだだけに見える。
そのお顔は、やっぱり直視し続けるのは無理かもしれない。
「えっと……膿んだ独特の臭いがしないのと、膿汁が垂れても消えてしまうこと。それとお声がハッキリとなさっているから、そうではないかなと……」
「気付いていたのだったな。だが、聞きたいのはそれではない。お前は呪いについて詳しいが、どこでその知識を得たのだ。この国に、呪いについての技術体系などありはしないのに、だ」
それは……さっき言ったことを、もう一度言ったらまた怒られるだろうか。
「……信じてもらえないから、言いたくありません」
「なんだと?」
英雄様は短気なのか、すぐに怒った声色を使う。
「お、お怒りになられても、言いません」
「ほぉぅ? 俺が怒っても言わないとは、いい度胸だな」
そう言われても、信じてもらえないのだから。
――王都から郊外に抜けたのか、馬車の揺れがさっきよりも強くなりだした。
ガタガタと小刻みに揺れる時間が、長く続く。
そのせいで、片膝を座席に乗せていてるだけでは、不安定で倒れそうなのを必死で耐えている。
揺られながら見つめ合った状態が続いて、しかも返す言葉が見つからない私は、後ろの席に戻ろうと思った。
沈黙しか出来ないから。
あまり変なことを言って、これ以上機嫌を損ねたくない。
そう思った時だった。
ガタン!
移動しようとした瞬間に、馬車が急に大きく跳ねた。
そのせいで、私は一瞬浮き上がってしまった。
バランスを崩して、英雄様の膝の上に倒れ込む。
自分がこけていく様子が、分かっているのに顔から彼に飛び込むように――。
「――おっと。危ないところだったな」
私は、彼にしがみつくように抱きついてしまった。
彼が抱き支えてくれたまま、その逞しい胸板に。
「その…………すみません」
「随分と華奢な体をしている……力を込めずとも折れてしまいそうだ。アニエス、痛む所はないか?」
「いいえ……大丈夫です。ありがとうございます」
見上げると――恐ろしいお顔が間近にあったせいで、ふっと目を逸らしてしまった。
「ふっ! ハハハハハ! 呪いを見抜いたお前でも、この顔は恐ろしいか! 傑作だな!」
何が傑作なのか、私には分からない。
そして、そうやって笑いながらも、私を離そうとしてくれない。
「え、英雄様。その、もう……離してください。一人で座れますから」
――ついでに、仮面も着けてほしい。
やっぱり、じっとずっと、見ていられるお姿ではないと思うから。
「いいや。ほらこの通り、仮面を着けるから我慢しろ」
一瞬、心の声が漏れてしまったのかと思った。
でも、絶対に声には出していない。
これまでも、ずっと心を出さずに堪え過ごしてきた私が、そんなミスをするはずがないのだから。
「な、なぜです? こんな痩せこけた女など、抱いていても心地よいものではないでしょう」
とにかく、気恥ずかしいのもあるから、離して欲しい。
こんな風に……男性の人肌を感じることなんて、無かったから余計に。
「いいや。気に入ったぞ、アニエス。この姿でも愛するようになれ。そうなれば、俺は嬉しいのだがな」
――これは、どういう言葉なのだろう。
そう言ったところで、他人の心は思い通りにならないのに。
「……わ、私は……優しい方が好きです。優しくしてください」
「そうすれば、俺を愛するか?」
この人……。
愛情を知らないのかもしれない。
少なくとも、私が神界で得ていたような、安らぎのある愛情を――。
リザから貰っていたような、優しい愛情を知らないんだ。
「きっと……。きっとですけど、ちゃんと優しくしてくださったなら」
恋愛の愛するは分からないけれど、愛情なら分かる。
お互いに慈しむ心があれば、それはやがて、愛情に変わるから。
「そうか。なら、努力しよう。お前に愛してもらえるようにな」
でもきっと、これは夫婦間の愛を言っているのだと思う。
――ほとんど初対面なのに。
その愛は私も良く分からないし、それに……。
(私のことも知らないのに、私でいいのかな?)
後になって、やっぱり気に入らないと言って、捨てられないか不安なのだけど。
「英雄様……私と、結婚してくださったのですよね?」
買い取っただけだと冷たく言われても、反論できないけれど。
「それは間違いない。手放すこともないつもりだ。だがな……」
「――っ。はい」
「その、英雄様という呼び方はどうにかならないか。今はまだ形だけだとしても、夫婦なんだからな」
それは、そう言われても……。
「私、英雄様のお名前……まだ、伺っておりませんよ?」
「何っ? そうだったか。いや、だとしても俺の名くらい誰でも知っているだろう」
「いえ……辺境伯様、英雄様、このどちらかで通じるものですから。今までお名前を、噂でも聞いたことがないのです。あ、その……私、貴族教育を…………受けさせてもらえなかったので」
だから英雄様を含め、他貴族の家名もほとんど知らない。
今ので思い出したけれど、私は貴族の礼ひとつ出来ない。
母がしているのを見たこともないし、基本的に外の誰かと関わることがなかったから。
侍女達と同じ、頭を下げるものしか知らないのだ。
そして、他貴族同士の繋がりや力関係も、何も分からない。
きっとこれから社交界に出ろと言われても、英雄様に恥をかかせてしまうだろう。
――それを伝えると、英雄様は悲しそうな顔をして、私から視線を逸らした。
「なんという冷遇……よもや家族などと呼べんな。侍女の姿だったのも、まさか本当に働かされていたのか?」
「ええ……そうです。五歳のころからずっと、侍女の仕事をしてきました」
「よくもまあそれで、お前のような娘に育ったものだな」
それは、どういう意味でくみ取ればいいのだろう。
返答に困っていると、英雄様は笑った。
「褒めているのだ。それから……ゴホン。俺の名はゼラトアだ。ゼラトア・カンナード。辺境伯として国境を護っている」
そう自己紹介をしてくれた彼の声は、先日助けてくれた時のようにとても優しいものだった。
「……アニエスです。旦那様。今日から、アニエス・カンナードになりました。よろしく……お願いいたします」
**
「それはそうと……。離してくれないのですか?」
旦那様はしばらくしても、お膝の上から逃がしてくれそうにない。
「大事な嫁だぞ。この馬車の揺れでは、痩せたお前の尻が心配だからな」
たしかに、お尻は痛かったけれど……。
「って、そういう問題じゃなくてですね」
「俺は慣れているし、俺のケツは頑丈だからな。何も心配する必要はない」
本当に、そういう問題ではないのですが。
「むぅ…………いつまでこうしているのですか?」
「着くまでだ。嫌か?」
気に入って貰えたなら、それはそれでありがたいのだけど。
熱しやすい人は冷めやすいとも言うし……早々に捨てられてもかなわない。
「その……私は緊張して、休まる気がしません。なので……出来れば、もう少ししたら離して頂けると嬉しいのですが」
「……正直に言うがな」
急に旦那様は、神妙な雰囲気を出した。
「俺は、呪いを受けてから女を抱いていないのだ」
「……はい?」
「人肌が恋しかったのを、こうして抱き支えた瞬間に思い出してしまった。もう少し付き合え」
「それって……それまでは、そういうご関係の方がいらっしゃったので?」
「うん? あぁ、特定の令嬢とかではなく商売女だ。ちゃんと報酬も払っていたし、侍女にお手付きをするよりは良いだろう?」
それって、普通のことなのだろうか。
侍女達の噂話は耳にしていたけれど、誰が浮気をしただのお手付きが多いだのはあっても、結婚前のご令息の、夜のお相手事情まではあまり聞いたことがない。
「……私は、一途な方が好きだと思います」
なんとなく、私の他にもそういう女性がウロウロするのかと思うと、まだ好きではないにしても嫌だなと思った。
「もちろんだ。お前が居るのに、他の女に現を抜かすわけがないだろう」
「え? あ、はい」
それはそれで、どう反応していいのか分からないけれど。
「だから、せめてこうして膝に抱いているくらいはいいだろう? 嫌ならやめるが」
(そう言われると…………ううぅ。私はどうしたいのかしら?)
「……嫌では…………ありません」
恥ずかしいから困っていたわけで、嫌かと聞かれたら……こう答えるしか残っていない気がする。
(――これはもしかして、高度な誘導尋問だったのかしら?)
「ハッハッハ! そうだろう。俺はこう見えても、心の機微には通じている方だからな」
「……はぁ」
分かったような分からないような、私はそんな、気の無い返事しか出来なかった。
……そうして私は、そのまま半日以上を、旦那様のお膝の上で揺られていた。
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