第3節『ダーインの遺産』

脅威【オグル】




 少女は静かに湯船に浸かっていた。

 桶の中身は沸騰し泡立っている。しかし、満たしているのは透き通った熱水ではなく、薔薇のように生物の生き血だ。そこに愛らしい齢十前半程度の娘が、とっぷりと肩まで浸かっている。

 なんともおぞましい光景だが、彼女にとってはこれを『風呂』と呼ぶ代物であり、少女の心身を洗い流すことのできる憩いの場と一時であった。

 無論、そんな異様な光景の一部であるこの娘も、当然尋常の者ではない。淡い茶髪、紫の瞳、いずれもまあまあよく見られる特徴。

 だが、赤みのある肌と釘のような犬歯だけは、彼女が如何に種族的優位性を有しているのかよく表している。


「窓を閉めよ」


 少女が腕を振りながら命令した。彼女の周囲にじっと立っていた蒼白肌の侍女達は、命じられるままに黙々と魔術で膜を張り、外の景色を遮断させる。


「“星が逃げた夜„――――下らない。実に下らん」


 少女にとって、今宵の夜空はいつかのトラウマをより鮮明に思い起こされる忌まわしき景観だった。


 少女の名は、エリーゼ=ゲー・ボーン。


 数ある野良魔物クリーチャーの中で最も危険な存在、世界的に最大の脅威として名が挙げられる十名の白金級魔物レベルプラチナム――――通称『魔帝候補』と呼ばれる者達の一角。

 第8位に座する彼女の異称は、"蒐血姫カーミラ"。

 先代魔帝デューク=ガー・ボルグの娘であり、同時に目の前で首を落とされる瞬間を目にした生き証人。

 その衝撃的な凶日から、エリーゼは悪夢を毎日毎夜に魘されるようになった。

 片時も忘れたことがない。忘れてなるものか。

 白く目映い艶やかな長髪に、左右で色が異なる刃のように鋭い瞳、そして長い耳をした痩躯の女。

 当時、それの発する凄絶な殺気に体が震え、目に涙を浮かべ、失禁してしまう程に心身を恐怖に犯された。

 恥辱。屈辱。雪辱。

 エリーゼ自身、恐るべき人外であるというのに、その小さな怪物を見てコイツこそを“悪魔„と呼ぶのだと、恐怖の対象として魂の奥底に濃く焼きついた。

 そして、やがて恐怖の対象から憎悪の対象へと認識を改めた頃には、自分と同じ立場として数えられていた。

 エリーゼはこの事が何よりも許せずにいた。


「もう十年か。あの夜と同じ空。美しいお花畑で、貴様は人形のように木上に腰を据えていたな。――――今度は貴様が恥辱にまみれる番だ。"花園の禍異獣ジャガーノート"!」


 標的は自分と同じ魔帝候補。序列は第9位。

 "花園の禍異獣ジャガーノート"――――又の名を『魔帝殺し』とも呼ばれ、その異名通りの偉業から世界最恐として知られている災厄の野良魔物クリーチャー

 しかし、その全貌を知る者はいない。間近で見ていたエリーゼでさえ、あれが一体なんだったのか未だに分かっていない。――――今になっては、最早どうでもいいことだが。

 鮮血の湯船から腰を上げ、襲撃の準備に移る。



 ++++++++++



 某日、深夜――――【真珠兵団パール】、資料室。

 ここには、達成済みの依頼書や国民の戸籍登録票、今までに発刊された新聞等、ドラグシュレイン区に関する全ての記録が収蔵されている。

 学園ギルドの中でも多重の防犯処置がなされている厳重な設備の一つであり、唯一冒険者がそう簡単に足を踏み入れられる場所ではない。許可を下せるのは、主に受付や資料の整理等のギルドの裏方と補助を担う情報処理部の幹部格のみ。

 そんなギルドの脳とも言うべき場所に、アリスはあるものを探しに入室しようとしていた。正当な手順を踏んで手に入れた許可証を、扉に張られた目玉型の魔法陣に翳す。

 魔法陣の瞳孔が点となって照合され、確認を終えると瞑目して扉の解錠する音が聞こえた。

 部屋の中は、拡張魔術により広大無辺の空間となっている。途方もなく延々と続く棚には、ぎっしりと資料で埋め尽くされていた。その数、ざっと十億に上る。


「まったく、面倒臭いことこの上無いですね。流石に」


 本来、部屋に入ってすぐにある検索板と呼ばれる木製台に乗った羊皮紙。これに、大まかな資料の概要を記して自動的に手元に持ってこさせる。が、検索板は同時に誰がどの資料に手を伸ばしたのかがわかる仕様にもなっているため、後ろめたいことをしようとしているアリスには使いたくても使えない。よって、目標までには地道に足を運ぶ他無い。

 溜め息をついて、アリスは捜索を始める。

 ここ最近、彼女のフラストレーションは蓄積されるばかりの日々だった。皮切りになったのは、クレイがジンテツを連れてきてから。

 第二皇女の王族らしからぬ目に余る行動は、これが初めてでないし珍しくもない。だから、いきなり人兎属ワーラビットの奴隷を紹介されたときもまた何かの戯れとばかり思っていた。

 いつもなら、諦観して黙認しようとした。しかしながら、アリスは彼を一目見たときからただならない違和感を覚えた。

 一見すれば、見目麗しい異邦の剣士。男だと判明したときは、「マジか」と心の中で驚愕させられたものだ。

 違和感はそこではない。問題は、ジンテツ・サクラコの性質にあった。

 彼からは微塵も魔力を感じなかった。最初は単に魔力が少なすぎるだけという印象であったが、そうでないと断定したのはジンテツが魔導書を作ったという話を耳にしたときだ。

 一生分の魔力を費やして生み出す遺物を生み出した。ジンテツ程の微量な魔力の持ち主には到底不可能。となれば、どういうわけか彼には魔力が宿っていないという逆説的事実がアリスの中でまとまった。

 魔術師にとって至高の財産となる魔導書の製作。それだけでと称賛に値する。お蔭で、ジンテツの異常さに勘づくことができた。

 自身で使えばいいものを、使わなかった。使えなかったと気づくのは簡単だった。

 これにより、アリスはジンテツを警戒し出した。


「ここですね」


 アリスが止まったのは、戸籍登録票が保存されている棚だ。探しているのはジンテツのものだ。

 まずは、彼の経歴、素性を出来得る限り知ること。元は変わり者のロガ・フラワードが購入した奴隷。商品である以上は、ある程度は情報が開示されている。


「さてと、の尻尾はどこにあるやら」


 決定的瞬間を見てから、アリスはジンテツをそう称するようになった。ビルアの街の決戦。そこに突然立ち込めた黒い霧。

 様子からしてクレイは知っていた。子供の頃から賢い行動を取った試しはないが、まさかここまで馬鹿なことをしでかすなんて、アリスはとても失望した。

 野良魔物クリーチャーを、ドラグシュレイン区最恐の怪物を傍に置くなど、いくら第二皇女といえど限度がある。そうでなくとも然り。

 なんとしてでも、排除しなくては!


「――――なんて、当初はそう思っていたのですが」


 現在では、そんな気は起きなくなった。改めて見直すと、ジンテツの行動には危惧すべき部分もありながら、基本的に穏やかだった。

 鳩に止まり木扱いされても平気で寝て、目の前で激闘が繰り広げられても平然と眺め、気まずい空気でも平静を保っている。その場の雰囲気に流されず、いつだって自然体で過ごしていた。

 野良魔物クリーチャーと言うよりは、その辺を彷徨うろつく野良猫のように自由気儘だ。


「実際は兎ですけど」


 とにもかくにも、ジンテツからは敵対心を全く感じなかったことから、次第にアリスも警戒心が削ぎ落とされていったのだった。

 棚の引き出しを一つ一つ探ること三時間、ようやく探していたジンテツの戸籍登録票を見つけ出す。


「それでは、素顔を拝ませていただきましょうか」


 人の目に入らない場所に移り、じっくりと資料に目を通す。


「ん~······」


 一通り確認し終えて、アリスは真顔で唸った。


「出身地に関してはまあ予想通りと言いますか、それよりも能力に関する項目がいずれもとはとんだご冗談ですね。頼みの綱である備考も心許ない。やはり、彼が売られていたとされる、ハリソンロープの奴隷商へ直接訊きに行く他ありませんか。――――はぁ」


 ジンテツを真似るつもりではないが、アリスは心の中で「めんどクセェ」と呟いた。

 ついでにハリソンロープ・スレイヴ・マーケットに関する資料も一時間かけて探し出そうと奔走するも、見つけられずに嘆息を吐いて、切り上げることにした。

 結局のところ、収穫と言える成果は特に得られなかった。資料の記載の仕方から、徹底的に隠匿されている気がしてならない。もし、資料の情報が虚偽で塗り尽くされているとしたら、いよいよ怪しくなるのが二名いる。

 一人はロガ・フラワード。彼がジンテツを購入したという事実があるなら、そうとしか言えないような処置をとっくに済ませていることだろう。

 今更調査したところで、無駄骨だ。本人の口から直接、というのも上手くいかないだろう。

 何せ、狂言廻師マッド・テラーだ。下手なピエロよりも他人をおちょくるのを嗜好とする男だ。

 悔しいが、訊いたところで適当にはぐらかされるに決まっている。

 そしてもう一人が、シラ・ヨシノ。彼女は始めからジンテツに対して好意的に接していた。

 勘違いとは言え、初対面でも容赦ない怒りを顕にして、とても無関係とは思えない。

 名前と容姿の雰囲気からして、不鮮明ながら同郷なのに間違いはない。しかし、彼女も中々に口が堅い。

 今のところ、最もジンテツ・サクラコという野兎の情報を持っているのはロガとシラ。聞き出すのは難しいだろうが、人となりが見えても全てがはっきりしない限り、アリスはジンテツを怪しく見続ける。

 先日から、彼はクレイ=ドゥージエム=フードゥルブリエの騎士となった。奴隷という地位であることに変わりない。ただ、として『騎士』という役を冠しただけのこと。

 しかし、アリスは一抹の不安を感じていた。


「あの子ったら、今度は一体どうするおつもりなのでしょうか。もしや――――」


 主の意図に頭を巡らせていたところ、突如として資料室の光が消えた。同時に、どこからともなく突き刺すような殺気を向けられてきた。

 アリスは即座に、暗闇の中で手探りして棚を見つけ出し、その陰に身を潜めた。


 これは、【暗停ブラックアウト】?! 結界で魔術は使えなくなっている筈――――


 アリスは“魔眼„を有している。

 生まれながらにして、一箇所の神経に魔力が集約されて変異した特異体質。

 固有の属性を持たぬ変わりに、無属性という変幻自在の性質と膨大な魔力量を備え、効率も良い。普段は眼鏡をかけて抑制している。

 魔眼の効力は個々人に差はあれど基本的に、魔力の流れを鮮明に認識するというもの。彼女には、砂が風に巻き上げられたように写っている。

 状況を飲み込めないながらも、アリスは咄嗟に暗視魔術を自らに施した。結果は使えた。

 資料室に掛けられた防犯結界の効果の一つとして、『魔術の行使制限』がある。

 制約を基とした術式は強力だ。そう簡単に攻略できるものではない。ましてや、なんの前触れもなく解除されるなんてことも更々有り得ない。

 そうなると――――


「侵入者、ですか。がしないということは、透明マント」


 世の中には、"裏モノ"と呼ばれる魔導具が存在する。

 一見すると表社会で売買されている代物と変わらないように見えるが、その内に秘めた性能は時として国営を覆えさねかねないとして所持自体が禁止されている。

 透明マントもその一つで、装着者の知覚情報を一切遮断する効果を持つローブ型の裏モノだ。アリスはそういった知識に精通していたため、すぐに合点がいった。


「これはまた面倒な。しかし――――」


 背後から気配を感じ、アリスは大きく飛び退いた。視覚をより強化して、人型のもやが確認できた。

 右腕らしき部位が異様に長いことから、剣か槍などの武器を所持していることまでわかった。


「裏モノ相手ではこれが限界ですか。仕方がない――――して、貴方は何者ですか?」


 アリスは靄を睨み付けた。害虫を前にしているような、険しく鋭い眼差しだ。

 靄は、今起きたことが不思議そうで首を傾げていた。


「姿形が見えなくとも、あなたからはどす黒い殺意を感じます。透明マントで紛れようと、私程であればすぐに察知できますよ」


 アリスは解説した。

 靄はガクンと肩を落として、まるでがっかりしているようだった。ふざけた奴だと蔑視し、アリスは自身の左右に魔法陣を二つずつ展開した。


「まずは、顔を見せていただきますよ」


 靄に向かって手を翳し、縛魔鉄鎖を射出。ジャリジャリと、四本それぞれで不規則な動きを見せながら襲撃させる。

 靄は、襲い掛かる縛魔鉄鎖を軽い身のこなしで避けた。


 参りましたね。場所がよろしくない――――


 アリスは舌打ちした。

 棚に当たらないよう縛魔鉄鎖を操るのは流石に堪える。何せ、視覚にも暗視魔術と強化魔術、計三つの魔術を同時に行使しているため、それだけでもアリスの脳には余計な負荷がかかっていた。

 強化を付与にすれば少しは楽になるが、それだと一定時間しか靄を捉えられない。予測した結果、付与して見続けられるのは持って二分。ギリギリ耐えられそうにない。

 身のこなしからして、相当な腕前と判断したアリスは即座にこの選択を切り捨てた。資料室の異常事態は誰かが察してくれる筈。そうして加勢が来てくれれば希望が持てると、アリスは足止めに徹することにした。

 透明マントができるのは、装着者の知覚情報を遮断すること。見えない、聞こえない、匂わない、あらゆる気配が空虚と化す。だからといって、魔術の干渉影響を受けないわけではない。

 単独だろうと複数だろうと、目前の敵を抑えれば自ずとわかる。

 それだけに集中し、四本の縛魔鉄鎖を差し向ける。

 棚を足場とした立体的な動きに翻弄されながらも、アリスは逃すことなく追撃を続けた。やがて靄が直進してきて、右腕らしき部位を振りかざしたところでさらに四本の縛魔鉄鎖を挟み込むように伸ばす。

 巻き付き、後から追い付いた四本でさらに拘束力を高めて、アリスは靄を捕縛することに成功した。鎖が空中に人型を準えている奇妙な光景が出来上がっている。


「思いの外、早く済んで助かりました。では、その鬱陶しいボロ雑巾を剥がせていただきますよ」


 アリスはもう一つ魔法陣を開いて縛魔鉄鎖を追加し、先端の鎌を引っかけて透明マントを強引に剥ぎ取った。

 靄が晴れて、敵の実像とようやくご対面する。目が合ったその瞬間、アリスは肝を冷やした。

 暗視魔術で見えたのは、不気味な人相をした三十代前半程度の男だった。黒い斑点の入った白い髪に、血走った両目は左右で色が異なっていて、右目は黄色く、左目はブラウン。口元が黒く、歪んだ微笑みを浮かべている。

 実際に遭遇するのはだが、アリスでなくとも男の風貌には誰だって驚愕せざるを得ない。

 なぜなら、彼の見た目はこの世で最も恐れられている野良魔物クリーチャーに酷似していたからだ。

 金級魔物レベルゴールドのさらに上を行く危険を孕んだ、文字通り別次元の存在。十にまで数えられたその者達は“魔帝候補„と称され、たった一人だけでも国家転覆はおろか、大陸を侵掠してしまう程の絶大な力を持つという。

 中でも、アリスが認識しているのはかつて“魔帝„と呼ばれた吸血鬼の王を惨殺した正真正銘の怪物。

 序列は第9位、その異名を――――"花園の禍異獣ジャガーノート"。


「いやいや、そんな馬鹿なことが······」

「キキキ、わかっちゃったぁ~?」


 男はアリスの狼狽ぶりを見て、嬉々としてより醜悪な笑みを浮かべた。自分のしてほしい反応をしてくれたことを、大いに喜んでいる。

 アリスはなんとか平静を保とうとしたが、一度考えてしまえばそう簡単に払拭することは困難。ましてや、相手がかの世界最恐の野良魔物クリーチャーとして名高い者であれば、彼女であっても厳しい。


「そうだとして、一体何が目的でこんなところに?」

「キキッ、知りたい~? 聞きたい~? でも、だ~めッ!」


 男は、縛魔鉄鎖を粉砕して自力で抜け出した。すぐにアリスの首を斬りかかるも、咄嗟に鎖で防がれて払い除けられる。

 アリスは思わず、目を見開かせて驚愕した。彼女の主力武器メインウェポンである、十二鎌脚縛魔鉄鎖パンデュル・ブリュームは使用者以外の者が触れれば魔力の流れを阻害し、身体を鈍らせる効果がある。よって、接触さえしてしまえば簡単に勝負を制することができる。

 アリス・エンカウントは決して容赦も加減もしない冷徹なサキュバス。故に、例え主が相手であろうと息が詰まる程に締め付ける。

 だが、今目の前で、容易く破られた。原因は明白だった。刹那に見えた、男が右腕に持っている鋸のようにギザギザと歪な形をした赤黒い片刃の剣だ。これに十二鎌脚縛魔鉄鎖パンデュル・ブリュームを上回る術が仕込まれている筈と、アリスは考察した。


「それも透明マント同様、裏モノですか?!」

「キキキキィ、さあね。それよりさぁ、遊ぼうよ。お姉さん」


 男は喜悦な笑みを向けて、またフードを被って暗闇に紛れた。


「これは厄介、ですね」


 資料室はこれ以上なく静寂。いつ、どこから、どうやって攻撃してくるのか。アリスは自身の分析力と退き時を謝ったことを後悔し、自責する。

 そして速やかに冷静さを取り戻して、周囲に注意を向ける。


「"十二乃刻ドゥーズール・【煖炉シュミネ】"」


 自身の周りに十二本全ての鉄鎖鉄鎖を張り巡らせて結界を作る。少しでも異物感を覚えれば、すかさず攻撃する構えだ。

 十二鎌脚縛魔鉄鎖パンデュル・ブリュームは特別製。どれだけ粉々に破壊されたとしても、自動的に修復される。

 装備からして相性が悪く、捕縛は諦めた。少しでも敵に関する情報を手に入れ、対策を立てつつ自分でない誰かに好機を譲る。アリスはそう選択した。

 頼みの綱は男から突きつけられる殺意。殺しを遊びと称する悪漢だ。ただならない気配が、アリスに男の有無を教えてくれる。それだけに、緊張感が増すというもの。

 目を右に、左に、上と下にも巡らせ、襲撃に備える。次第に付与魔術の効果が切れそうになっても、気力でかけ直して無理矢理に継続させる。

 鉄鎖が鳴った。アリスはその方に身体を向かせて、三本動かした。


「"三乃刻トロワズール鉤爪グリフ】"!」


 三本の鎖が一つに編み組まれ、腕となって音源へと迷いなく進む。鉤爪は空を過っただけだった。

 別のところからまた鎖が鳴って、そちらへ矛先を変える。しかし同様に、そこには何も無かった。

 二、三度これを繰り返し、アリスは次第に全方位から殺意を感じてきて、不鮮明になっていった。精神がすり減っていくのを覚え、視界が霞む。


「ヤバいですね」

「キキキキキ」


 乾いた笑い声が、すぐ後ろから聞こえてきた。アリスの足元にポツリ、ポツリと赤い雫が垂れ落ちた。腹部から熱がじわじわと広がって、身体が重くなっていく。

 視線を下にすれば、腹から何か長いものが伸びていた。喉奥から、鉄臭い熱が上がってきて口の中が一杯になる。


「ごふ――――っ!?」


 口から鉄臭い熱が噴き出た。腹から伸びていたものが戻っていくと、そこからも勢いよく液体が飛沫を上げて飛び出る。

 何をされたのかすぐにわかった。刃物で貫かれたのだ。苦痛と倦怠感で重くなった身体に耐えかねて、アリスは床に伏した。首を後ろに向ければ、口角が吊り上がってとてもこの世のものでない笑顔で見下ろしてくる男の姿が。


「キキキキィ~! お姉さん、痛い? 苦しい? 辛い~? キ~キキキキキキキー!!」


 アリスは悔しさと屈辱で一杯だった。かの魔帝候補とはいえ、こんなふざけた奴に遅れを取るなど、第二皇女のメイドとして一生の不覚、と。


「さあさあ、どうすんのお姉さん? まだオレを捕まえる気あるぅ? にゃいよね~、そんなざまじゃできないもんにぇ~!!」


 挑発を浴びせて、男はアリスの悶え苦しむ様を眺めた。包み隠すことを知らない純粋な邪悪がすぐ近くにいるというのに、手も伸ばせない無力感。

 水溜まりに落ちた蟻を見ているようで、男の優越感は頂点に達していた。煮るなり焼くなり相手を好き放題に始末できる。男は赤黒い刃を舐めた。溢れた唾液が鍔に伝って垂れ落ちる。


「お姉さん、肌がキレイだなぁ~」





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