響震【クロシェット】




 『ビルアの街の惨状』――――新聞にはそう大きな見出しが記載されていた。内容は私達がその場で見聞きした通りで、余計な脚色はほとんど交えられていない。

 特に注目したのは、やはり小見出しの『野良魔物クリーチャーに生かされた街』という一文。これを、世間はどう解釈するのか考えるだけで気が気でならない。

 もう五日。朝の寝覚めが悪い。

 パークの構成員は数名が逃亡。けれど、主力であるクリオ、ダガーテイル、そしてグローリーが捕縛されたことで事実上の壊滅。近々、銀貨二十枚程度の手配書が発布され、すぐにでも鎮圧されるだろう。

 あの三人は、領地一つが監獄となっている第8号学園ギルド【黒曜兵団オブシディアン】に収容された。

 街の人々は、満場一致で罰を受けると容認した。パークに甘い蜜を飲まされ、奴等の蛮行を見過ごし続けてきた責任をとりたいらしい。

 今は、彼等の意思を汲んで罰という口実で住民のみんなで街の復興に励んでいる。早速様子を見に行ったけれど、揃いも揃って楽しそうにしていた。

 勇気ある少年、コリンくんに声をかけられてジンくんに「ありがとう」と伝えてほしいって頼まれた。けれど、私はまだ彼にそれを伝えれていない。

 グローリーとの闘いを終えてから、ジンくんはなんだか暗い。あの一件で、彼の評判はいい方に傾いたと思う。それなのに、喜びやしない。

 パンをねだったりしても無視するし、避けられている気がする。

 今日も、彼は黙ってどこかに出掛けた。こっそりついていこうかと思ったけれど、そうしたら彼に嫌われる気がしたからやめた。

 空は雲一つ無い快晴。青々しい爽快な空だけれど、寂しいな。


「もしかして、エフィーちゃんのところかな」



 ++++++++++



 ドラグシュレイン区壁内領は北西通り――――寺院墓地。

 寂然とした平らな草原に十芒星が掘られた墓標がいくつも立ち並ぶここには、冒険者や区衛兵、その親類縁者が眠っている。

 一つの墓の前に、ルージーが立っていた。墓に掘られた名は、『エフィリア=シモン』。


「メラルってのは、の母親の旧姓だ。ひでぇ話だろ」


 ルージーの後ろには、ジンテツが距離を置いて立っていた。右手には一輪の白い菊が握られていて、じっと墓標の下を見つめている。


「お前、気づいていたのか?」

「······」

「いつからだ? まさか、最初からってわけじゃあるまい」


 ジンテツは、ルージーの横を素通りして白菊をそっと置いた。


「供花か。お前みたいなバケモノでも、それくらいの礼儀は習うのか」

「なんだってええやろ。こんなつまらない箱に、あいつを寝かしたくないだけだ」

「ふっ。益々、お前がわからない。が、まあ礼くらいは言っといてやる。ありがとよ」

「······別に、おっさんの為じゃないよ」


 ジンテツは掌を合わせ、軽く顎を引いて目を閉じた。仕草からして東洋風の習わしと見抜きながらも、ルージーは態度について何も言おうとしなかった。

 姿勢を解いたところで、ジンテツから話が振られる。


「で、なんでだ? なんで、エフィーに俺を監視させた?」

「てっきり、察しがついてるもんだと思っていたんだがな」


 滑稽そうに微笑むルージー。

 ジンテツは気に入らなそうにしかめっ面になる。


「俺は昔から人外が嫌いでな。子供の頃、人を食ってるゾンビに出くわしたことがあった。なんとか爺さんに助けられたんだが、今でもそれがトラウマになっていてな。今年で四十を過ぎようっておっさんが、おかしな話だろ。笑ってくれよ」


 笑いは起きず。冷たい空気が喉を突く。

 ルージーは懐からボトルを取り出して、一口注いだ。中身は度数の高い酒だ。


「こいつは俺の娘だった。女房はこいつを生んですぐに死んじまった。だから、俺が守ってやろうって純粋な親心を持って十七まで育てた」


 ルージーの目蓋が柔らかくなった。


「頭が足りないが、愛嬌に満ちていた。何をするにもへまをして、放っておけない子だった。魔力が高いと知ったときは、まあ嬉しかったな。学校に通わせて、ちゃんとした将来を叶えてやりたかった。それが、半年も前だ。帰ってきたときには、身体中がぐちゃぐちゃに抉れた娘の凄惨な姿。俺に内緒で、魔術の練習をしていたらしい。で、操作を誤って自爆したんだと。バカな奴だよ。努力なんていつでも出来るのに、俺に誉められたかったのか、誇らしく思ってほしかったのか。まったく、子供の考えることはわからないったらありゃしない」


 冗談を言っている風だが、ルージーの顔は言葉を紡ぐ度に影が濃くなっていった。


「死体を治して、綺麗な状態でここに埋めてやった。その一ヶ月後、雨がひどかったな。あいつは泥塗れの姿で、俺の家に帰ってきやがったんだ」


 ルージーはそのときのことを脳裏に浮かべ、衝撃を思い出していた。全身に泥を被ったエフィーの姿を見て、夢と現実の境が分からなくなる程、喜びで胸が一杯になった。だが、すぐにそれは沈没した。

 エフィーの肌は死体のときと変わらず蒼白で、目に生気を感じなかった。さらには微かに鼻をくすぐる腐敗臭から、彼女がどんな存在に成り果ててしまったのかわかってしまった。

 自分に人外の恐ろしさを刻み付けたゾンビ。さらに、記憶も失っているということで、絶望ばかりが加算され、ルージーの心はその瞬間に歪にねじ曲がった。

 娘は努力に失敗して死んだ。今目の前で雨に打たれているのは、形だけ娘によく似た別のもの。

 そう認識していても、家に上げたのは親としての情か。本人にも、不思議でならない。


「不思議と、記憶が失くなっても変わらないものらしい。生前と同じへまをやらかして、余計にやるせなくてな。構うのが面倒臭くなった。そんで、いつの間にか雑に扱うようになったんだよな」


 小さく鼻を啜る音がした。

 横を見ると、ルージーが目蓋を震わせているのが目に入った。


「簡単に、割り切れるものではないんだ。神や悪魔にすがり付こうが、どうにもならないものはどうにもならない。女房が死んだとき、わかっていた筈だってのによ」


 そう言って、ルージーはコートのポケットから十芒星の意匠がなされた銀のネックレスを取り出し、見下ろした。強く握りしめようとしたところで、ジンテツから声がかかる。


「エフィーは、いい子やったえ。最期の最期まで、自分よりも俺を気にかけていた。俺の今は、こいつから獲ったものだ。だからおっさんは俺に感謝しなくていいし、許さなくていい。それだけ言いたかった」


 ジンテツはルージーを残して立ち去ろうと振り返る。水滴が落ちる音がしたが、気にせず歩み始める。


「待ちな、生意気兎」


 ルージーが呼び止め、ジンテツは歩みを止まった。


「お前を視ているのは区衛兵だけじゃない。冒険者とも別の奴だ。精々、その命を無駄にしてくれるなよ?」



 ++++++++++



 取り敢えず、どこかで寝ようかと考えた。今日は風が無く、そう寒くない。こんな日は服の温かみと乾きながらも空気の涼しさで、案配がいい。

 その前に適当な飯屋で腹を膨れさせようかとも迷った。熱いスープでも飲んで、よりコンディションを整えた方が寝入りやすそうだ。

 今はとにかく、嫌な疲れを払拭したい。

 のらりくらりと街中をほっつき歩いて、結局見て回るだけ放浪して、気がつけばカーズ・ア・ラパン寮へと続く帰路に着いていた。

 しばらくは誰にも会いたくない。そう暗がりに潜ろうとする彼の前に、黒いスーツ姿のバシューが現れた。彼は待ち構えていたように、葉の落ちた街路樹に寄り掛かっていた。


「ああ、そやったな」


 バシューがジンテツのもとに来た目的は、取り引きの清算を執り行って貰う為だ。最初のグローリーとの戦闘時、ジンテツはバシューに合図を出したら助けに入るよう街に潜入する直前に取り入っていた。

 代金は、ジンテツ自身の素性。一部の区衛兵が最も欲しがっているだろう、黒霧の怪物の正体だ。

 最近の三騎獣パイユトラスは目立った成果が上げられず、低迷していたことをバシューは憂いていた。なんとか解消しようとして、ほとんどが半信半疑で中々手を出さない案件が先の黒霧の怪物騒ぎだった。

 一年前、探しても見つからず半ば諦めかけていたのだが、つい先日、唐突にジンテツから『黒霧の怪物を教えてあげるから、手を貸せ』と持ち掛けられた。

 ルージーの主導で、黒霧の怪物の調査が行われていることは噂で知っていた。まさか、冒険者の方から情報を貰うことになるとは。

 無視しようと思ってたが、相手が“新参者„だったということもあり、聞き耳を立てることにしたのだった。


「で、どうだったよ?」


 結果は一目瞭然。

 バシューどころか、誰もがビルアの街から黒い霧が発生しているのを目撃した。街の住人は、それが何なのかわからなかったが、冒険者と区衛兵には理解できた。

 斯くして、本人によってジンテツ・サクラコ=黒霧の怪物説が見事に立証されたのである。

 そして、街に壊滅的な被害を出したその殲滅力という手に余りすぎる事案から、彼の身柄は唯一心を許しているであろうクレイに任せるとコンスタンから提案がなされ、承諾された。

 バシューは軽く頷いて、ジンテツの望む答えを出した。


「そうかい。なら、そっちからもしばらくは近づいてこないね」


 嬉しそうな口調で言い、ジンテツはバシューの横を過ぎようとした。だが、肩を掴まれて止められる。


「なんだよ? 用は済んだでしょ?」


 眉間に皺を寄せるジンテツ。放っておいてほしい心境にある彼は、些細なことでも苛立ちやすくなっている。

 バシューは一瞬萎縮したが、懐からさっさと何重にも折り重ねたメモをジンテツに押し付けて去っていった。

 開いてみれば、コンスタンからの心配を綴った手紙が三枚。今更なご挨拶から始まり、区衛兵内部の進捗、そしてジンテツへの労いの言葉が込められていた。

 特に面白味の無い内容に飽き飽きしてくしゃくしゃに丸めようとしたが、『クレイ』の名が目を過ったので手を止め、また広げた。しわくちゃだが、まだ読める。


『以前、クレイ姫とお話をしました。あなたのことについてです。区衛兵の処遇を伝えたところ、大変安心したご様子でありましたが、すぐに暗い顔になられたので恐れながらお訊ねしたところ、最近のサクラコさんは素っ気ないと愚痴を漏らす風に悩みを吐露していました。その場は私の方でお慰め致しましたが、心許なくお恥ずかしい限りです。あのお方のことです、きっと長く引き摺られることでしょう。ですので、少しは彼女のそばにいてあげてください。あなた達の関係は、少なくとも、私にとって尊いと思えるものですので』


 手紙はそれで終わり、ジンテツは折り畳んでコートのポケットに入れた。背伸びをして、なんてことない日常の帰路を真っ直ぐ進む。



 ++++++++++



「で、なにやってんの? お姫様」


 帰ってきた矢先、メイド姿のクレイと対面した。クラシカルな服装から、アリスから借り受けたものだとすぐにわかった。

 頬を赤く染めて、もじもじと縮込まった身体を震わせて羞恥心で余裕が無いのが見てとれる。


「そ、その、最近のジンくんが暗いから、疲れが溜まってるものだと思って。だから······おもてなし、しようかなって」


 次第に声を小さくさせて、クレイは自身の意図を伝えた。周囲を見渡すが、他に気配を感じられない。

 どうやら、罰ゲームとかではなく彼女の本意であるのは確かなようだ。ジンテツは呆れて溜め息をつき、長椅子に腰掛けた。


「腹減った」


 頬杖をついての、とんとんと軽く指で叩く投げやりな催促。ただそれだけでも、クレイは嬉しかった。

 慌てて厨房に駆け込んで、料理本をめくって調理を開始した。力任せな危なっかしい包丁捌き、不揃いに切られた野菜や肉がゴロゴロと鍋に移されて、いい加減に火が扱われる。

 聞いてわかる不器用の極み。料理人の悲鳴。ガタゴトと厨房は穏やかさを見失うばかり。

 しかしジンテツは、何も言わずに待った。

 騒音は夕方まで続いた。自身無さげにクレイが持ってきた一皿は、土色のシチューだった。大きな気泡が噴いていて、肉も野菜も所々黒く変色していた。


「やっぱり、作り直す!」


 恥ずかしさと不甲斐なさから、クレイは引き下げようと皿に手を伸ばす。が、寸でのところでジンテツに顔を掴まれて阻止された。


「いただきます」

「あぁ······」


 合掌してからスプーンで肉をすくい、躊躇い無く口に運ぶ。クレイが短く手を伸ばしてあわあわとしていたが、気にせずジンテツは舌で転がして味わい、喉に流し込んだ。

 正直な感想はクソ不味い。本来、クリーミーな味わいが魅惑的な料理の筈が、まるで砂粒を溶け込ませたようなガリガリとした食感、無加工のコーヒー豆を齧らされているような濃密な苦々しさ、さらに口内にへばり尽く感触も合間ってとても喰えたものではない。が、ジンテツは不快に思うどころか顔色一つ変えること無く、スプーンを進める。

 一口、また一口と静かな食事は十五分程度でゆったりと完了した。スプーンを置いて、後ろでおどおどしているクレイに身体ごと振り向く。


「ど、どうだった?」


 今すぐ逃げたい。クレイの心中はこれで一杯だった。

 ビルアの街の出来事は、ジンテツにとって初仕事にしてはかなり凄惨なことだった。一件落着したものの、その敬意で犠牲が出てしまった。

 相手の方が一枚上手だったと言われればそれまでだが、もっと他にいい方法があったかもしれないと悩みに悩んだ。

 何より、ジンテツの力を有効活用させる手助けをしたい、ただその一心で彼に冒険者の門をくぐらせた。

 ビルアの街の住人は、コリンやその姉を初めとして長い苦しみから解放してくれたとして感謝しているけれども、味方サイドにはより疑念を増長させることとなってしまった。

 これは慰めであり、労いであり、励ましの意を込めたおもてなしのつもりだった。だが、成果は下の下。

 パンだってもまともに作れない女のシチューなんて、感想を訊くことすら烏滸がましい。むしろ盛大に笑ってくれたら、それだけの元気を引き出したとして多少は気が安らぐのだけれど、と不安と自虐に磨り減るクレイ。

 その一方で、ジンテツは欠伸をしてから答えた。


「普通」

「······え?」


 クレイ、唖然。あまりに普段のような調子で、驚きようにも反応に困らせられた。


「えっと、普通って?」


 具体的な回答を求めるも、ジンテツは無視して風呂へ向かった。一度脱衣場に入っていったかと思えば、次にはタオルを腰に巻いた状態で出てきてクレイの手を引いて戻った。


「ふぇ?」


 いきなりの連れ込まれて困惑するクレイ。


「ジンく~ん、これは······」


 はらり、とジンテツは唐突に腰のタオルを外した。またまた突然のことに、クレイは呆然とし、現状を理解すると真っ赤に染まった顔を両手で覆い隠して叫んだ。


「ビャアアアアアア――――ちょっとぉ!? いきなりなに?! なんなの!!?」

「なにって、ひとっ風呂ぷろ浴びるんじゃん」

「だからって、私連れ込まれる必要ある?! ひっ!!」


 手を離してしまったため、また顔を覆い隠す。


「なに言うてんの? 入るからに決まってるでしょ?」

「え?」

「もしかして、服着て入るタイプ」

「え?」

「でも前はちゃんと脱いでたよな? 気紛れか?」

「それは······ん~~~!!」


 そのときの恥辱を思い出してしまい、一旦圧し殺してから続けた。


「つまりあれ? 一緒にお風呂に入ろう······て、こと?」


 クレイは照れながら訊ねた。対しジンテツは馬鹿馬鹿しいものを見る様子で、淡々と答える。


「わかってるならとっとと脱いで、はよ浴場こっちおいでな」

「············」


 無差別な常識外れだとは思っていたが、まさかここまで無頓着というか無関心というか、出鱈目だったとは。

 信じられないを通り越して、羞恥心が吹っ飛びそうだった。

 背面だけなら、ジンテツはプロポーション抜群の女性とまったく遜色無く、大変魅力的に写る。

 されどあの野兎は雄、いくら中性的な見た目をしていても妥協できない。異性の前で肌を晒すなんて、命令されてでも出きるわけがない。

 クレイは心の中で、「ムリ!」と叫びまくった。


「もてなすんでしょ?」


 ジンテツの卑怯な一言で、クレイは渋々湯船を共にすることにした。

 混浴なんて、彼女には夢にも思わなかった経験だった。学生時代、スヴァルの言った悪い冗談で顔を焼かされたことがあるが、それとは比較にならない程に超恥ずかしい。

 逃走を図ろうとするも、ジンテツはそれを見抜いてか手を掴んで阻止してくる。クレイは早々に諦めた。

 裸を見られるのはこれで二度目だが、ジンテツは相変わらず平然としている。クレイはタオルで前を隠しているというのに、欠伸をする程に余裕だ。

 寧ろ、これはこれでジンテツにとってはある種当然の状態なのかもしれない。とクレイは謎の納得をしながら訊ねてみた。


「ねえ、森に棲んでいたときって、身体を洗ってたの?」

「うん。ちょっと歩くと池があってさ。そこで水浴びしてた」

「そ、そーなんだ······」


 概ね予想通りの答えだった。冒険者も野宿する際は、目眩ましの結界を張ったりなどして身体を洗うが、彼はそうはしない。そもそも、できない。

 自然に身を置いてきたからこそ、服を脱いだところで微塵の恥ずかしさを擁することもない。


 なにそれ無敵かよ······


 訳のわからない敗北感がクレイの背にのし掛かった。おまけに普段の素行からはあまり目立たないが、ジンテツは絶世の艶美を誇っている。それを自賛せず、ましてや他人に見せても減るもんじゃないと言うような姿勢。


 ······無敵だわ······


 恥ずかしがっているのが馬鹿らしく思えてきた。

 そしてクレイは、悔しさからジンテツに一泡噴かせようと思い、一つ仕掛けることにした。


「そんじゃ、手始めに。頭、洗って」


 ジンテツは鏡の前に座って命じた。


「はいはい、ご主人様」


 クレイはジンテツの背後に膝をつき、手に泡を立てて頭に乗せる。最初は表面を軽く撫で、次に髪の毛一本一本の間にゆっくりと指を差し込む。

 アリスにやられて気持ちよかった洗髪法を真似たものだ。これで、シチューの名誉挽回を挑む。――――と内心で意気込んだのも束の間、ジンテツの絹糸のような黒髪に指を入れた瞬間、言い知れない心地好い触感が伝わってきた。

 撫でているのはこちらの筈なのに、まるで掌の凝りをほぐされているような快感に思わずうっとりとしてしまい、クレイの頬が蕩け落ちそうになっていた。

 対し、ジンテツはその逆で妙な気色悪さに煩わしさを覚えていた。閉じていた目を少し開けて鏡を見ると、エヘヘ、とクレイが変な笑いを浮かべている。


「お姫様、大丈夫か?」

「はっ! う、うん。その、あまりにさらさらしてるから気持ちよくて、浸っちゃった。ごめん······」

「あっそ」


 クレイは怒られると思って、つい手を離した。しかし、ジンテツは怒るどころか好きにしろと言わんばかりに黙って瞑目した。


「前々から思ってたのだけれど、ジンくんって、キレイな髪してるよね」

「そうか?」

「そうだよ。私のなんて、雷属性が体に合わなくてクセっ毛がひどくて。お陰で、ヘアスタイルを中々変えられないのよね。アハハハハハ」


 苦笑するクレイに、ジンテツは告げる。


「別に、俺は嫌いじゃないけど」

「え?」


 クレイは驚きのあまり、手を止めた。

 今まで、髪を褒められたことなんてなかった。精々、慰め程度のお世辞くらい。ジンテツがそんな気を遣える性格でないから、本気で受け取ってしまう。


「ちなみに、どこが······?」

「ふわふわしてて抱き心地が良さそうだから」


 ジンテツは淡々と、簡単に答えた。

 クレイは『』の部分につい変な妄想をしてしまい、全身が沸騰しそうな熱が沸き上がった。

 照れ臭さのあまり、衝動的にジンテツの頭にお湯を乱暴に浴びせ、「もう、バカ!」と小さく叫んで膝を抱えた。

 

「次、背中」


 ジンテツはなんでもないと言う風に言った。

 まだやるの~、と胸中で喚くクレイだったが、大人しくタオルで泡を立ててごしごしと弱く背中を擦る。

 よくよく考えてみれば、ここまでジンテツと距離が近くなったことは初めてかもしれない。それに今さら気づいたクレイは、改めて彼の後ろ姿を洗いながら眺めた。

 見れば見る程、美麗な肢体だ。肩は丸みがあって、幅は狭く、贅肉が少ないからくびれもくっきりしていて、腕も脚も細くて長くしなやか、きめ細やかな肌には微塵の染み汚れも傷跡も無い。まさしく陶器人形のような、艶やかで滑らかな、生きた芸術。

 これらに加えて、刃毀れの酷いガタガタした刀でばったばったと平気で敵を切り捨てる。どういう訓練をしたら、魔力無しでそんなことが出来るのだろうか。クレイは困惑した。

 身体能力は兎も角として、ジンテツの体型はやはり見惚れてしまう。特になにもしていないでこれなのだから、羨ましさと妬ましさがこみあげてくるというもの。

 視線を下に持っていくと、尾てい骨の辺りに丸っこい黒毛の塊があった。ジンテツの尻尾だ。

 普段は見えないが、こういうところはなんとも可愛げを感じざるを得ない。尻尾は上向きになっていて、思わず手を伸ばしたくなる。


「ねえ、ジンくん」

「ん?」

「しっぽ、触っていい?」

「蹴り殺す」

「はいぃ······」


 残念がってシュンとするクレイ。割りと冗談抜きで嫌がっているようで、ジンテツの口調は低く本気の脅しだった。


 そんなに怒らなくても――――


 クレイは溜め息をついた。ジンテツをもてなすと決めたのは自分自身だ。しかし、現状はただの介護人とそう変わらない対応をしている。

 クレイがしてあげたいのは奉仕であって介護ではない――――最早、これが介護と呼べるかどうかも怪しいが――――。何より、ジンテツが労いを感じてくれているのか、それが心配だ。

 彼には住処や仕事等、『暮らし』を与えた。しかしながら、ジンテツが充実しているようにはどうにも思えない。当の本人は楽しんでいる節はあるようだが、実際は多くの人物から危険視されている。

 コンスタンから区衛兵は離れると聞いているが、それで何もかも終わったわけではない。冒険者の中にはしつこい奴がいる。スヴァル・ストライクがその代表例だ。

 彼女だけでない。アリスやカインまでもが黒霧を目撃している。あの二人なら、すぐにでも何かしら行動を起こすだろう。


「何を難しい顔してんの?」


 唐突にジンテツに訊ねられ、クレイは思わずふぁっと情けない声をあげた。


「べ、別にそんなことは」

「他人をもてなそうって息巻いた奴が、まず自分を楽にできなくてどうするの?」


 クレイはムカついた。誰の所為でこんなに頭を悩まされているのか、他人の苦悩を蔑ろにする態度に腹が立った。

 毎度毎度のことながら、ジンテツのそういうゆとりは本当に省みてほしい。今も、うとうとと眠たそうにして、クレイのことをもう放置している。

 先程からずっとずっとずっと、女性として見られていないような気がもしてきた。

 こうなったら、とクレイは思い切ってジンテツの背中に「えい!」と前のめりになって寄り掛かった。

 身体には自信がある。アリスやカインのようなマウンテンメロン級には程遠いにしろ、性別的差異にして決定的優位。程よく実ったフレッシュアップル級の柔らかな圧力。

 クレイ、人生初の渾身のハニートラップを行使。


 さあ、見せなさい。あなただって男の子なんだから、少しは年頃らしく狼狽えてキャラ崩壊してみせなさい! でないと、私がここまで大胆なことしておいてなんの成果も得られませんでしたじゃしまらないどころか、女としてなんか死にたくなりゅからァ~――――ッ!!


 決死の覚悟だった。

 クレイは、自分なりに全力でジンテツを堕としにかかったつもりだった。しかしながら、目前のターゲットは微動だにせず。驚きもしなければ狼狽もしない。


「じ、ジンく~ん? 起きてる?」

「‥‥‥重い‥‥‥」


 クレイの中で何かがひび割れた。

 すなわち、渾身のハニートラップはまったくもって効果を発揮していなかった。なんの成果も得られなかったのである。

 絶望してへこむクレイ。まさかここまで女性としての魅力を感じてもらえないとは、自分で仕掛けておいたために精神的ダメージは大きい。もう何かをしようとする気は無くなった。

 背中を洗い流すと、ジンテツは立ち上がって振り向いた。クレイは咄嗟に、両腕で自身の身体を隠した。


「次、お姫様の番」

「······え?」


 クレイがポカンとして、ジンテツは面倒臭そうに補足した。


「今度は俺が洗ってやるから、今度はお姫様がこっち座って。ほら」


 ジンテツに催促され、クレイは大人しく鏡を前に、彼に背を向けて座った。


「めんどクセェから背中だけだ。頭と前は自分でやって」


 そう言って、ジンテツは泡立てたタオルをクレイの背中に当て、ゆっくり撫で下ろすように擦り始める。

 こしょこしょこしょと、強くもなく弱くもない調度いい塩梅の力加減で洗われ、クレイの緊張で強張っていた身体は徐々に徐々に解れていった。次第に顔が溶けるようにとろけていき、最終的に喉を鳴らして寝ている猫のようになった。


「やばい、超きもちえぇ~」

「そらよかったな」


 一通り背中を洗い終えたジンテツは、次に避けていた翅に手を添えた。その瞬間、クレイは「ヒッ?!」と身体をびくつかせた。


「ジンくん······?」


 クレイは少し首を後ろに向けて呼んだ。


「そ、そこは······」

これ、ずっと気になってたんだよね。最近あまり動かしてなかったし、動いてもなんか固いし。まだ痛い?」


 心配させまいと、誰にも話していない翅の異常をジンテツは勘づいていた。そのことに関して、クレイは少し驚きつつも嬉しくもあった。

 クリオ・マカイロドゥスとの逃走劇を演じた際、翅を酷使してしまい、軽い筋肉痛に襲われていた。

 治療したタカネが言うには、安静にしていれば一週間で自由が利くようになる、とのことだった。

 今は痛みも疲労も無く、まだ少々感覚が麻痺しているが、クレイの翅は正常へと向かっている。


「タカネ先生から、聞いたの?」

「なんか、見てて萎れてんなって」

「そう······」


 どうやら、単なる観察のようだった。


「見てて、わかるものなのかな」

「間近で見てたら少しはわかる。浮わついたら翅は上に向く。悲しんだら下に。喜ぶとぶるぶる振り回す。嘘をつくときは微妙に振動する」

「そこまで?! 私の翅ってそんなわかりやすいの?!」

「バカ正直だ」

「マジか~」


 クレイは額に手をつけて恥ずかしがった。そんな彼女の様子を背後から見て、ジンテツは口角を小さく上げる。


「別にいいじゃん。それって、お姫様の言う『かわいい』ってやつなんじゃない?」

「か、かわッ!?」


 クレイは咄嗟に赤面を振り向かせた。ジンテツの麗しい微笑み顔と目が合って、すぐにもとに戻す。


「きゅきゅきゅ、急に変なこと言わないでぼぼぼぼぼぼ――――!!?」

「ほーれ、背中終わったで。残り洗ってとっとと湯船にダイブしよ」


 各々、身体を洗い負えて浴槽に浸かる。

 クレイはジンテツと十人分程距離を置いた。男女一組、二人きりの風呂という特殊な状況に、一方は普段通りに寛ぎ、もう一方は緊張を再燃させる。


「なあ、なんか遠くない? こっち来いよ」


 ジンテツが誘うも、クレイは彼とは反対側に首を向けてしかとして断った。


「おい、おーい?」


 何度呼んでも一向にこちらを向かないため、痺れを切らしたジンテツは自ら距離を縮めていった。そして、妙に湯船の水面が揺れるなと下を向いているクレイの肩を掴んで、力ずくで自身に向かせる。


「なんで無視すんの? お話ししよ」

「もういいでしょ!」


 クレイはジンテツの手を振り払った。


「ジンくんはいつも強引すぎるんだよ。自分で言った手前、仕方なく一緒に背中を洗って、入ってまでしてあげてるんだから、普通はここまでしないんだよ。もう十分でしょ!」

「なにをそんなに怒ってんの?」

「別に怒ってるわけじゃ······」


 口元まで湯船につけて、不満げにブクブクと泡を湧かすクレイ。ジンテツの方をチラチラと見やる。子供っぽく、むっとした顔をしていた。

 こうして見ると、あんな野蛮で野生的な狂気の姿とあまりにもかけ離れていて、今でもたまに信じられなくなるときがある。普段はのんびりとしているのに、その気になれば怪物に早変わりした暴れ狂う。

 何から何までハチャメチャなのに、ふとしたときには傍にいる。

 ジンテツ・サクラコとはなんだろうと何度も考えたことはあるが、ここまで近くに来ているのにわからないもどかしさで、クレイは髪から滴り落ちる水音だけでは耐えられなくなった。


「ジンくん、聞いていい?」

「なに?」

「ジンくんは、冒険者になったの······嫌、だった?」


 クレイは弱々しい声で、躊躇を含んだ口調で訊いた。

 なんという不謹慎なことを訊ねたのだろうと、胸中で自責しすぐに撤回したかったが、それより速くジンテツは穏やかに答えた。


「全然。嫌だとは思ってへんよ」

「······そう?」

「うん」

「キツいって思わない?」

「めんどクセェとは思ってる。けど、下らなくないから別にいい」

「森に戻りたいって、思わない?」

「あんまり。どこに棲んだところで、俺のやることは変わらないだろうし」

「············」

「さっきからなんなんだよ?」


 クレイの質問に、ジンテツは違和感を感じていた。質問の内容が一々なよなよしていてどうにも鬱陶しい。

 問われたクレイは、モゴモゴと口を曇らせて言葉を詰まらせていた。彼女の真意が汲み取れず、とうとうジンテツは強行手段に出た。

 クレイの頭を抱き寄せて、髪を優しく撫で下ろす。


「急がなくていい。ちゃんと聞くから」


 子供をあやすように、固く結ばれた紐を丁寧にほどくように、優しく導いた。

 ジンテツの声に温かさを覚え、胸の奥から安心感が沸いてくる。クレイには、この気持ちに身に覚えがあった。

 幼少の頃、王族としての自分に自信が無かった時、息抜きを兼ねて東方の地に訪れた。そこで出会ったのは、目映い純白を靡かせる人兎。

 彼女はそれを、『白ウサギさん』と心の中で称し、今も敬愛している。クレイ=ドゥージエム=フードゥルブリエの憧れであり、初恋の相手だ。

 なぜ、この瞬間に、まったくの別人から同じ温かみを感じたのか、考える余地は無かった。今はただ、不安を消し去る光が欲しかったのかもしれない。

 クレイはゆっくりと、口を動かす。


「······怖かったの。クリオとダガーテールと話しているときのジンくんが」

「······――ああ、あれか」 


 ジンテツは自身の顎に触れて言った。


「あんなことを言うものだから、私はジンくんが息苦しさを感じてるのかなって。事実、私が無理矢理森から連れ出したわけだし······」

「はぁ。お姫様、さっきも言ったけど、別に俺は冒険者になったことを嫌だと思ったことはない。どこにいても俺は俺なだけ」


 クレイの顔はまた暗くなった。まだ信じきれないところがあるようで、ジンテツは溜め息を挟んで付け加えた。


「俺は救世主メサイアでもなければ大英雄ヒーローでもない。伸ばせる腕も、拡げられる脚にも限界はある」

「それは、わかってるけれど······」


 生粋の平和主義者であり、物事の損益よりも円満を心から望むクレイにとって、今のジンテツの発言には胸を締め付けられる。現実を突きつけられるのは、剣で貫かれるのと同じ痛みで深く抉り込む。


「どうせ世界の半分にも届きやしないんだ。そやったら、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、届く範囲くらいは全力を尽くしてやる。徹底的にな。何せ俺の縄張りだぜ。荒らされるのは嫌だし、下らないことで騒がないで欲しい。どうせならガキがじゃれ合う程度で丁度いいんだよっての。あとはまあ、飯が旨いのとぐっすり寝られれば全て良し。そんだけで、俺は十分過ぎる」


 クレイははっとした。これがジンテツの真髄なのだとようやく理解でき、途端に嬉しさで一杯になった。

 気が休まらない緊張感も、拍子抜けする暢気さも、全ては彼なりの混沌とする世の中を生きようとする必死な姿勢。性格が分け隔てないのも、本気と全力の表れ。

 そう言えば、とクレイはふと兄王子に言われたことを思い出した。


『民は偶像に羨望を持つ。だけどね、クレイ。君は真実であり続けていい。無理に演じることはない。私は、夢を見て、幻想を追い求めるクレイが好きだ。民も同じ気持ちだよ。好きなようにしなさい』


 冒険者になる決意を表明し、その返事として受けたこの言葉はクレイの根幹となり、指針となっている。

 ジンテツは、まさにその通りの生き方を謳歌していた。記憶が無かろうとも、自分を見失わないで勇敢に獣道を突き進んでいる。

 羨ましく思える程に、なんて清々しい。

 彼の心境を察すれば、どれだけ一分一秒が充実していることだろう。想像するだけで胸が軽くなってくる。安心と幸福感、満足感が強くなる。

 クレイは今一度、ジンテツに希望を見出だして訊ねた。


「ねえ、ジンくん、提案していい?」

「なに?」

「私の騎士になってくれない?」


 “騎士„――――法的に定められた特別な爵位。一定以上の権限を有する者が持つことを許される役職。

 以前言われたときは、その単語の意味を理解できず狼狽するばかりであったが、アリスから教えられてからずっと頭の隅に置いていた。またその言葉をクレイの口から出てきたとき、ちゃんと答えられるように自分なりに備えた意を野兎は示す。


「勝手にどうぞ」


 ジンテツは満更でも無い様子で、易く了承した。



 ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎



 深夜、トイレから帰るついでに、ジンくんの寝室にお邪魔させてもらう。そっと扉を開閉して、暗く見えづらい空間を暗視魔術で順応させる。

 ジンくんは布団を被って寝ていた。布団の膨らみが一定感覚で大きくなったり、小さくなったりしているところを見ると、もうぐっすりとお休み中でした。

 布団から白髪がはみ出ていて、クスッと笑いが込み上げてくる。その出来心で布団を少し捲って顔を拝む。


「あらあら。可愛い寝顔しちゃって」


 顔をこちらに向けちゃって、まるで子供の寝顔を覗き見る母親の気分だ。でも、ふと不安と罪悪感が過る。


「このままでいいのかな······」


 ジンくん自身は気にしていないと言うけれど、やはり記憶を失っているとなると憐憫が絶えない。

 彼が本心を包み隠さない純真さの持ち主なのは、さっきのお風呂での会話でよくわかった。だからこそ、余計に考えてしまう。元からこういう性格たったのならば、彼を頼る人が多くいるかもしれない。

 そうなると、引き留めるべきではないのでは。本来なら、記憶を戻す手伝いをするべきではないのか――――って。


「面倒臭くて、ごめんね」


 眠気と考えすぎで重くなった頭をベッドに倒す。

 今の私じゃ整理がつかない。もっと、ジンくんに近づけるようにならないと······。


「ん? 何、この匂い」


 急にジンくんの方からフローラルな甘い匂いが漂ってきた。前にも嗅いだことがあるような、とても懐かしい匂いだった。

 無意識にジンくんの髪に手を伸ばし、触れた瞬間に辺りの景色が真っ黒になった。同時に床がフッと消失して、私は落下した。そして、唐突に坂道を躓いて転んだ感覚に襲われて、突然落ち着いた。

 頭をぶつけたみたいで、痛みが響く。


「いったぁ~」


 起き上がって周りを見てみると、別空間へ転移させられたようだった。

 私が立っている場所は、幅の広い赤い木で組まれた道だった。チェスの盤みたいに規則的な四角い枠が空いていて、一つ一つの枠の中には、丸穴の空いた石の立方体に、その上には同じく石の屋根を被せたような小さな小屋を形作ったゴツい像が浮かんでいた。穴からは蛍火ほどの火が点っている。

 右も左と上も下も、暗闇が延々と続いていて果てが見えない。

 見ていて幻想的というか神秘的ではあるけれど、寝静まった深夜の街みたいでとても寂しい。

 ――――で······


「ここは何処~!!?」


 いきなりこんなところに飛ばされて頭が混乱する。取り敢えず、状況を整理しよう。

 さっきまで私はジンくんの部屋で寝顔を拝見していた。次第に眠くなって、うとうとしてそこからズドーン――――???


「うん、これ夢だね」


 結論、考えるのをやめた。だって魔術をかけられた感じがしなかったし、そうじゃないなら他に心当たりがない。

 人の気配もしないしで、はてさてどうしたものか。


「このままじっとしててもなにも起きそうにないし、ひとまず歩いてみよっかな」


 最近は忙しくて夢を見られる程余裕が無かったから、この際だからちょっとは堪能しておこっと。

 そんなこんなで、謎空間を彷徨うこと数十分――――一向に果てが見えてこないんですが?!

 一度翅に強化魔術をかけて駆け抜けようともしたけれど、なぜか魔力が使えなくなっていて五秒も持たなかった。案外、私って体力が無いんだな~と、久々に実感させられた。


「にしても、いつまで続くのこの木の道ぃ······」


 四方八方、同じ景色がずっと続いている。最早、同じところをグルグル回ってる気しかしない。

 途方に暮れてさらに歩き回ること数時間――――やっと景色が変わった。とは言っても、大きな扉の無い縁だけの真っ赤な木造物がどっしりと構えているだけなのだけれど。


「これは確か、東洋の寺院でよく見られる『鳥居トリイ』だっけ? なんでこんなところに?」


 トリイの上には縦に掛けた看板があって、それに白い模様が彫られていた。漠然とした勘だけれど文字のようにも見えなくもない。


「参ったわね。掠れていて何て書いてあるのか、さっぱりわからない。読めたかどうかは置いといて」


 トリイの奥にも、まだ同じ様に赤い木道が続いていた。これが出口が近い標識であることを願って奥に行こうとしたとき、奥からここに来る前に嗅いだジンくんのフローラルな甘い匂いが漂ってきた。

 その瞬間、身体が言うことを聞かなくなってしまった。

 驚いたけれど、不思議と怖いとは思わなかった。寧ろ、安心感というのか、トリイの下を潜ろうとするのに一切の躊躇は無かった。

 探求心でも好奇心でもない。何処か忠誠心にも似た知らない心境のなかで、後ろからチリンと鈴の音が一つ響いてきた。


『なンで······、ここに······』


 また背後から、どこかジンくんに似た冷たさのある美声だった。だけれど、彼のとは違って体を透き通るような、聞いてて心が安らぐような。まるで、女神の声でも聞いてるみたいな愛らしさが胸に沁みてくる。

 驚きはするけれど、不思議と狼狽えない。とても変な感じ。

 振り返ろうとしたけれど、私の体はトリイの一歩手前で停止したまま動けずにいた。


「あなたは、誰?」


 顔を振り向かせられずとも、声を発せられることに気付きすぐに背後にいる誰かに訊ねた。


『まダ、ここは、ダメ······キたラ······ダメ·············でてイッて』


 声はそこで途絶え、同時に私の視界も暗くなって体から力が抜けた。

 次に目を開けたときには、ジンくんの部屋にいた。

 朝日の光が窓から差し込んでいて、眩しさで意識は明瞭になり腰を起こして目蓋を擦る。

 いつの間にか、ジンくんの顔を覗いていてそのまま寝落ちしていたみたいだった。


「あらヤダ、涎まで垂らしていましたわ。オホホホ」


 ――――自分でやってて、馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 寝落ちしていたということは、さっきまでの光景は全部······夢?

 あの声の響きや空気の微かな余韻がある。なんだか、どこか懐かしくて、それでいてとても寂しい不思議な夢だったな。

 右手に圧迫感を感じて目を向けると、ジンくんの左手を握っていた。

 これって私がやったのかな、と恥ずかしがっていると、ジンくんが起き上がった。

 髪はまだ白いままだ。


「あっ······」


 すぐさまさっと手を離してジンくんに朝の挨拶をする。


「お、おはよう~。ジンくん」


 反応が無い。朧気な表情に変わりはなかった。

 起きたばかりで意識がはっきりしていないのかな。


「ジンく~ん?」


 顔の前で手を振ってみるも、それでも眉がピクリとも動かない。

 大丈夫かな?

 そっとしておいて顔を洗いに行こうとしたら、また手に圧迫感が訪れた。振り返ったら、ジンくんが手を掴んでいた。

 呼び掛けようとして口を開こうとしたら、急に引っ張られてそのまま額に頭突きしてきた。


「うきゃッ!!?」


 ジンくんって、意外に石頭だったからジーンて来て結構痛い。目を開けると、額を合わせたまま私を真っ直ぐに見ていた。気だるげな細い眼差しだ。

 ――――ってか近いッ! こんな間近で見詰められたら、緊張で目を開けていられないよ。


「お······マぇ―――」


 夢で聞いた声が、ジンくんの口から聞こえてきた。

 驚きのあまり、私は目を見開かせた。


「ジンくん······だよね······???」


 自分で訊いておいて、一体何を訳のわからないことを言っているんだと思った。けれど、今の私にはどうしても目の前にいるのが『ジンテツ・サクラコ』だと見受けられなかった。

 だって、気配から違うんだ。とても静かで、キレイな花を前にしているような不思議な印象。

 この感じ、どこかで············。

 物思いに耽っていたら、ジンくんは私の頬に手を添えて目を反らせないように支えてきた。

 細い指はしっかりと私の輪郭を捉えていて、柔らかく、そして木枯らしに撫でられているように冷たい。けれど、面と向かい合わされた上に逃げることもできず、緊張が振り切って身体中が熱くなってきた。

 冷静に考えたら、これ結構ヤバイ絵面なんじゃ······。


「――――くれイ――――」

「は······はい······」


 今、私の名前を呼んだ? いつもは、素っ気ない感じで『お姫様』としか呼んでくれないのに。

 つい返事しちゃったけれど、次の言葉が見つからない。どうしよう······。

 頭の中が混乱する。

 本当に、彼はジンくんなの?

 待って待って待って、ちょっと待ってよ······。


「くれイ······コワ、い?」


 ジンくんは握っていた左手を私の髪に持ってきて、優しく撫でた。まるで不安を取り除かれているような、とても心地好い感触。

 甘い香りに包まれて、心が安らいでいく。

 ジンくんは、私の答えをじっと待っているようだった。

 胸に手を当て、一度深呼吸をして息を整える。


「大丈夫だよ」


 私の目には、なぜだか涙が浮かんでいた。理由はわからないけれど、今はどうでもいい。

 とにかく、この心地好さに浸っていたい。


「いい······それで······いい······―――」


 ジンくんはそう言ってゆっくり目蓋を下ろした。そして、全身の力が抜けたようになって私の胸を枕にして寝息を立て始めた。

 この状態、安心はするのだけれど、ちょっと恥ずかしいな。


「でもまあ、今回は許してあげるよ」


 私はジンくんを起こさないように、そっと優しく抱き締めて頭を撫でた。



 ++++++++++



 唐突に、“胎動„が世界を波打った。


 クレイが寝落ちしたと同時刻、自室のベッドにて白は密かに感じ取っていた。知っているからこそ感じ取れるそれは、小さな雌兎の本能こころに大きく響いた。


「あぁ、あの方が、すぐ近くにいるぅ! 目覚めが近いのですね! 早く······早く、この目にしとう御座います! はぁ、はぁ~······――――――――」


 頬は赤く染まり、体は震え、汗が止まらず、息も荒く、感動の涙までを流している。既に、白の身も心も興奮のあまり絶頂の域まで達していたのだった。

 彼女の他にも、世界を波打つ胎動を感じた者がいた。

 ドラグシュレイン区壁外領にある酒場で、酒と肴で腹を膨れさせているロガだった。今しがた仕事を終え、酔い潰れているところに胎動の波が電気となって神経を走った。その衝撃により、ロガの酔いは一瞬にして覚め、ドラグシュレイン区の方へと視線を向ける。


「こりゃあ、マズイなぁ」


 ビールジョッキをテーブルに置き、加えていた煙草を灰皿に押し当て、額に冷や汗をかいて困り気味の顔で呟く。


「″刺激″が知らねぇ内に堪っていってやがる。そろそろ潮時か?」


 先程まで酔いが嘘のように覚めきり、酒を飲んでいる場合ではないと判断したロガは行動に移る。

 酒場を出て夜の闇に姿を消した。

 また、グラズヘイム国外からも感じ取った者が二人いた。

 この二人は、あらゆる事象を見過ごさず、常に世界の変化を悟っている。

 一人は、風でさざめく野原に立っていた。古臭くてぼろぼろの黒い修道服を身に纏い、黒の装丁に銀の十芒星が刻まれた教典を携えている。首に掛けた懐中時計が異様に印象的に見える、孤独な黒髪の宗教家の男は声高らかに夜空へ向かって訴えた。


しゅよ、異邦の地より流れし子は、やはり真と我は見受けたり。――――さて。混沌たるこの現世に、何と戯れるようか」


 微笑を浮かべ、宗教家の男はそう遠くない未来に訪れるだろう波乱を喜んで待ち望む。

 もう一人の方は、彼とは全く逆の心情を抱いていた。

 某国、庶民に紛れるようにして人混みを歩くこの右目に水晶のような瞳を持つ男もまた、世界を転々としているところをざわつきを感じて、故郷グラズヘイムの方へ向いて静かに空を睨み付けた。


「ふむ。余の世界くににて、由々しき事態······とやらか。非常に、怪しからんな」


 いずれ、畏怖と嫌厭の対象として世界から排された存在が動き始める予鈴。それは鈴の音となって、かつての波動が耳を過り、神経を震わせる。

 そしてまた、野を活きる獣たちも天を仰ぎ見るようにして喝采を挙げて告げた。


『いつかの狭間の主の目醒めが近い』――――と。


 この日の夜、満月の夜でありながら、星の輝きが一つたりとも確認できなかった。

 獣たちの叫び、星の見えない満月の夜――――これ等に共通する現象が過去にも起きていたとされている。今では忘れられたこの現象は、未だに生きとし生ける森羅万象の心の奥深くに恐怖の根元として刻み込まれ、温度を忘れて鳥肌を立てる。

 ″星が逃げた夜″――――この現象はとある生物が目覚めた事によって起こる、“最凶„の予兆である。





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