滾る【オーブ】




 地上でクレイ達がグローリーと対面している頃、誰にも気づかれずに独断行動を取っているものがいた。

 エフィー・メラルだ。

 彼女は住民が暴動を発起したのに乗じて、街役場へ一人潜入していた。クレイ達が残していった闘いの残骸を乗り越えて、たった一人の存在を探し回っていたのだった。

 一向に見つからず焦燥感が募る。ゾンビのため、体力に事欠かない身体ではあるものの、まだ戦場に慣れず倒れている敵を見ていると息が詰まりそうになる。

 ある部屋で、床に大きな円穴が開いているのを見つけてそっと覗き込んだ。暗くて何も見えず、明かりを灯そうと腰を戻すと、重みで足元の床が崩落してエフィーは小さく悲鳴をあげながら地下へ落ちた。


「う~······」


 起き上がり、歩を進めようとするも右足に違和感を覚える。見てみれば、足首がふにゃふにゃになっていた。落ちたときの衝撃で、骨が断裂してしまったようだ。

 痛覚が機能していないエフィーにとっては、差してなんら気にすることでもないので少々歩きづらいのを我慢して先を行く。


「サクラコさぁーん! サクラコさぁーん! いませんかー!」


 大声で呼び掛けた。声は木霊して、暗闇で包まれている遠くの方まで響き渡った。

 返事は無い。


「ここにもいません、か!?」


 突然、何かに躓いて転んだ。身体の前半分にべっちゃりと冷たい液状のものが付着。嗅いでいると具合が悪くなりそうな程に鉄臭い。

 腕を立てて上体を起こし、足元の方を見据える。暗闇に目が慣れてきて、自身の歩みを遮ったものがなんなのか判明した。


「サクラコ、さん······?!」


 うつ伏せに倒れていたジンテツ・サクラコ。付着した液状のものは彼の固まりつつある血液。

 エフィーは慌ててジンテツを抱き上げ、彼の名を必死に叫びながら揺すった。反応が無い。肌は蒼白となっていて、目に生気がまったく感じられない。


「止血、血、止めなきゃ!」


 エフィーは、腰の袋から止血剤と包帯を取り出して応急処置を施した。混乱しているのもあって、震える手で持った止血剤から薬液が垂れ落ち、包帯の巻きは荒く拙く、患者の意識があれば不快感を催す荒療治だった。

 だが、エフィーにそこまで気を遣う余裕なんて無い。今はただ、ジンテツの意識が戻るの願うばかりだ。


「お願いします、お願いします、起きてください······お願い······」


 瞑目し、両手を握り合わせて必死に祈っても、届くことはなかった。

 身体から力が抜け、呆けるエフィー。傍らで眠るジンテツを見やり、数秒沈黙して、また目を閉じ、開く。


「これしか、無いか······」


 エフィーが決断したのは、自身の持つゾンビとしての特性を行使することだった。

 生物は、死した際に魔力が体外へ一挙に放出される。抑留されていたが死と同時に発散され、残るのは精々生前のものと比較して一割にも満たない。

 しかし、極めて稀に残留魔力の濃度が高かった場合、脳はまだ自身は生きているものと錯覚して活動を続けることがある。それが死霊系人外の概要だ。

 中でも、魂が離れない内にこの現象が起きたパターンがゾンビに振り分けられる。脳は活動しているが、身体の機能は極めて停止に近いため、全体的に感覚が麻痺している。しかも、自力で空気中の魔力が補完できないため、腹を空かしやすい。

 そして、ゾンビの最も目を見張る特性が『噛んだものを仲間にする』というもの。

 これには些か語弊がある。

 厳密には、『仲間にする』というよりは『自身の一部を与えて同質に改造する』という方が正しい。

 脳が生きていると錯覚している原因は、高濃度の魔力。これに反応した際、頭から全身に向かって活性化を促すホルモンが過剰分泌される。身体を動かしているのは、その活性化ホルモンが浸透した細胞だ。やがて筋肉、神経、骨と染み込んでいくことで先の特性へと繋がる。

 だが、これは謂わば選別でもあった。

 エフィーはゾンビになってから三年程経過しており、活性化ホルモンも深く濃く浸透している。よって、活性化ホルモンの影響力は自分でも気づかない内に凄まじいことになっていた。

 エフィーは、きちんとした形の料理を食べたことがない。一度噛んでしまえば、対象は活性化ホルモンに耐えられず自壊し、腐り落ちてしまうからだ。

 もしこれを生物に付与したならば、想像がつかない。自分とは違い、見境無く他生物を襲う猛獣となるのか、今まで口にしてきた食物同様に塵と化すのか。

 想像したくない結末だ。

 だが、エフィーには確信があった。ジンテツは街に入ってからこれまで、レオナルド・ネメア、ダガーテールとクリオ・マカイロドゥス、そしてグローリー・クリムゾン・ネメアと、強敵相手に一人で応戦し、いずれも一名を除いて優勢に立ち回った。常人なら立ち上がるのも辛いだろう負傷を受けていながらだ。

 この事から、エフィーはジンテツに尋常でない生命力を見出だした。彼なら、過剰な活性化に耐えられるかもしれないと。

 根拠はある。ジンテツの右手には、剣が固く握り締められていた。惨々な有り様になっていても尚、闘争をやめていないのだ。

 彼の首元を見つめ、震える両手を握り締める。


「どうか、再び、立ち上がって――――」


 最初は本当に気乗りしなかった。

 研修を終え、本格的に区衛兵として活動を始める頃にルージーから突如下った監視命令。対象の情報を得ると同時に、これが自身にとっても対象にとっても差して良くない意地汚い作戦であると理解した。

 最初こそはそうだった。しかし、直に彼と接し、彼とは主従ながら親密な関係であるクレイから話を聞いて、自然と安心感が湧いた。

 彼を見続けてなんとなくわかった。

 行いは無茶苦茶で言うことからとても善人とは言い切れないながらも、力の使い方に迷いが無く、且つ結局のところ気に入らないと言う体で悪事を見過ごせない優しい野兎。

 行動の身勝手さから誤解されがちだが、ジンテツは確固たる強さと不屈の精神を持つ死んではならない戦士だ。

 例え、御伽噺から遠くかけ離れた野生のケダモノであろうと、この世は大英雄や救世主を欲している。

 エフィーは、それを願って彼の首筋に歯を向けた。

 


 ――――気高き命の煌めきを、見せてください······――――



 ++++++++++



 鈴の音が一つ、聞こえてきた。

 アネモネの香りが鼻を撫でて、身体が温かくなる。布団で寝ているときと似た感じだ。


「橋か?」


 俺は真っ赤な木材製の道の上に立っていた。周囲は暗闇で、碁盤の目状に延々と続いている。空いたマスには腹までの高さに石灯籠が浮かんでいて、中には掌サイズの火が点灯済み。

 手を伸ばして触れてみると、淡い熱を感じた。暖炉から放たれる蒸せる熱とは全然違う。柔らかくて、綿に触れているようなフワフワした温かさだ。

 橋の下も真っ暗闇が敷かれていて、底が見えない。

 取り敢えず、じっとしていても何か変わる気がしないから、歩いてみることにした。その間に、なんでこうなったのか経緯を振り返る。

 いけすかない角兎と闘って、してやられた――――つまるところ、俺は死んだのか。


「マジかぁ~」


 信じられないが、傷が無いし、風景も現実味が欠けてるから、寝てるか死んでるかのどちらかで間違いないのは明らかだ。

 俺は寝るときは寝るが、あんな奴の前で寝顔なんて更々晒さない。もっての外だ。

 とはいえ、死んだってなるのも嫌だな。


「パン、もう喰えないのか······」


 羽毛布団で寝られないし散歩もできない。

 俺の生涯此にて御仕舞い。

 幕引き。

 終了。

 THE完・結。


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「ざッけんじゃァぬェェェェェェェェェェェェ――――ッ!!!! こんなところで死ねるわけないだろ!? バカ言えッ!! アホ抜かせッ!! ボケぶっ噛ますなやッ!! ごら畜生めがッ!! なんだって俺が死ななきゃなんねんだァ!? はァァァァァァー?!!!」


 と~、のたまわったところで現状どうしようもならへんいうのがなんともけったくそ悪う話でなぁ~······。


「忌々しいが、喚き散らすのめんどクセェし、取り敢えず進むか」


 そうして体感的に一時間くらい歩を進めていたわけだが、一向に風景は変わらず。不思議と疲れないもんだから淡々と進行していたわけだが、ここまで退屈が続くといい加減に精神が滅入る。

 腹が空かないっていいものなんだろうなと考えたことがあるが、撤回する。腹が空かないってまあまあ辛い。

 他に物が無いから適当な暇潰しもできない。

 結論、ここは地獄だ。


「············あ」


 ふと、お姫様の顔が思い浮かんだ。

 俺が死んだって死ったら、あいつは泣くんだろうか。頭の中お花畑なお姫様なら、絶対泣いて悲しむんだろうな。

 アリスはどうだ? あいつとはあんまり絡みが無いから、性格的に動揺すらしないな。

 シラはなんとなく挫けそうなイメージ。お姫様を除けば、初めから友好的に接してきたのはあいつだけだったし。

 カインとスヴァルはわからないな。二人共、まだ俺のことを信用しているかどうか怪しいし、いいところなんとも思わないって辺りか。

 アルフォンス、俺の魔導書を上手く使ってくれてたらいいな。役立っているなら尚嬉しい。

 シェリルとリングエルは今頃どこをほっつき歩いているのやら。土産話、聞きたかったな。

 あとはエフィーだな。あいつだけはどうしても。直近の未練はこれだな。

 そう言えば、結局俺は何も思い出せなかった。俺はどこから来て、どこに向かおうとしていたのか。


「知ったところで、マジでなんでもなくなっちまったけど······」


 チリン――――また、鈴の音が一つ聞こえた。俺が向かおうとした方向からだ。

 なんだか、あっちには行きたくないな。


「戻るにしても面倒だし――――ん?」


 何かに手の裾を引っ張られた気がした。気のせいにしては、緩やかながらもハッキリとした引力があった。

 姿が見えない。なのに、誰かに見られている気がしてならない。

 周囲を警戒し続けていると、また手の裾が引っ張られた。その方の向こう側で、微かに何かが動いた気がした。よく目を凝らすと、手を振っている白い影がいた。

 石灯籠の灯りと同じくらいに、手を振っている白い影も淡い光を放っていて全体像がぼやけて把握できない。

 胡散臭さから、俺は猜疑心で動かなかった。

 後ろに下がろうと足を退くと、今度は背中に触れられている感触が来た。この感覚は壁じゃない。点々と大小様々な数本の手を押し当てられている感触だ。

 後ろを見るが、誰もいない。

 俺の移動を遮ってるのか?


「行けってのか? あそこに」


 訊いたら、いくつか感触が強くなった。

 どうやらそういうことらしい。心なしか白い影が手招きをしているように見えてきた。

 他に行く当て無いし、取り敢えずこのまま進んでみるか。それでなんとかなればまあ万歳。ならなかったら、そうだな――――


「その時はその時だな」


 俺は白い影に向かって歩いた。影は近づくにつれ空気に溶けるように消え失せ、障子の引戸が建てられていた。和紙から白い光が透けていて、自然とここを通ったらなんとかなるかもしれないと思った。

 俺はそっと障子の組子に指をかけて、滑らせた。眩い白い光が差し込んできて、目が眩む。



 ++++++++++



 血生臭い匂いが鼻を舐める。ねっちょりとした気色の悪い血と土埃の匂い。 

 これだけでわかる。俺は、生きている。


「重······」


 半日は寝たってくらい身体が重くて怠い。視界も少しぼやけているが、直に戻るだろう。

 首元辺りがなんか痺れるが、大したことはなさそうだ。

 取り敢えず、一命を取り留めていたってことでいいのか? グローリー枯れ枝野郎がこんな陳腐なミスを犯すとは思えない。

 見逃されたわけでもない。覚えている。あの一撃は、殺気が強く籠っていた。というか、あんな奴が余程のこと以外で手を抜くなんてあり得ない。


「なに考えてんだか」


 取り敢えず、俺は生きている。なんとかなってまあ万歳。なら、これからやることは決まっている。

 あの枯れ枝野郎の角も骨髄も、一片に至るまでバキボキにへし折ってやる。


「そうと決まれば······」


 不意に、「はぁ······」と弱い息遣いが聞こえた。視線を下に向けると、いつになく顔色の悪いエフィーが横になっていた。

 こいつ、こんなところで呑気に寝てやがんのかよ。ってか、右の足首折れてね?


「おーい、エフィー、だいじょぶか~? おーい?」


 肩を揺すって覚醒を促すも反応が無い。


「おいおいおいおい、冗談はやめようぜ」


 胸の中が、ぐちゃぐちゃに捻曲げられる気分に襲われた。動悸が止まらない。

 なんなんだ? この最悪の気分は――――。

 わからないわからないわからないわからないッ!! なんだってんだ、は!!


「はぁ······よかった。戻って、こられて······」


 エフィーは目蓋を小さく開けた。弱々しい声だが、寝覚めならこんなものか。


「なんだよ、生きてるんなら早くそう言えよ」


 おかしいな。動悸が止まらない。

 俺は安心している筈だ。なのに、なんでぐちゃぐちゃが治らないんだよ。


「取り敢えず起きろよ。いつまで寝てんだ――――はぇ······」


 軽くエフィーの手を握ったら、渇いた泥人形みたく崩れた。

 唐突な異常事態が起きて俺は頭が追い付いていないのに、どういうわけかエフィーは安らかに微笑んでいた。

 自分の身体が崩れているんだぞ。まさか、自分よりも俺が生きていたことに安堵しているのか? なんで、なんで――――――――

 頭が白くなっていろんな感覚が静かになっていくなか、胸のぐちゃぐちゃともう一つ、薄れていく首の痺れが目立った。


「お前、俺になにをした?」


 なんとなく察していた。エフィーがゾンビと知っていたら、尚のこと予想がつく。

 こいつは俺を噛んだんだ。噛んで、俺の息を吹き返させた。なんで······――――


「どういうつもりなんだよッ?!」

「死んでほしくない、と思ったから······」

「は······?」


 エフィーの言っていることが、理解できない。

 死んでほしくない? 俺に、そう思ったのか?


「なんでだよ······」


 エフィーの身体に亀裂が生じて、足から塵となっていく。それでも笑みを崩さず、見ていると胸のぐちゃぐちゃが強まって、身体が怠くなる。


「私は、あなたのことをずっと見ていました······。誰よりも恐れ知らずで、なにがあっても折れない姿勢。皆から見離されても自分を貫き通す強情さ。そんなあなたを知っていく度に、あなたが眩しくなっていって、味方になりたいって思いました······。ただ、それだけなんです」


 わからない。

 わらかない。

 わからない。

 わからない。


「私は、ゾンビになる前の記憶が無いんです。だから、私には何も無いとそう思うばかりでした。けれど、あなたは違う」

「······」

「申し訳ありません。カイン様と話されていたのを、盗み聞きしていました。あなたも私と同じで、記憶が無い、と。不謹慎ですが、それを聞いて親近感が湧いたんです。だから、どうにかサポートしようと奮い立って······。けど、徒労でした。あなたは私なんかよりも、ずっと強く、不安なんかこれっぽっちも感じないというような、私が思っているよりもとても勇ましかった······」


 やめろ············。


「烏滸がましいでしょうが······私はあなたに懸けたくなったんです······。あなたなら、万人の希望に――――」

「やめろッ!!」


 どうしても、先の言葉を聞きたくなかった。

 俺はこの情動を知らない筈だ。············いや、覚えている。知っている。わかっている。

 忘れていた。俺の失った記憶の中に、これがあったのか。

 掘り起こそうとして、頭の中の砂嵐をかき漁る。不鮮明な景色と耳鳴りで、一向に出てこない。だが、やはりこれで合っているんだと、自認に至った。

 だとしたら、俺は―――――――。


「ごめん、なさい······」


 エフィーは、崩れかけている右手を俺の頬に添えた。ジャリジャリしていて、冷たくて、ちっとも心地よい感触でないのに、どうしてか離したくない。


「私は、誰かの為に······誰かの役に、立ちたかったんです······それで、誰かの喜ぶ顔を想像して、動かなくなった心臓を滾らせようと······。それなのに、いつも失敗して。今回も······あなたのために、私の全部を捧げて······なのに――――」

「いいよ」


 俺は崩れないようにエフィーの右手を包んだ。パラパラと一粒も屑が落ちないように指の隙間を閉めて、俺の方からエフィーを感じ取る。

 刻一刻と終わりに近づいていっている。その瞬間まで、嫌だと喚いても絶対に離してやらない。気に入らない面のまま、終わらせてやらない。エフィーの全部を、全身全霊を刻み込むんだ。

 俺の道は、こいつの灰で延長した。だから、せめてもの謝礼をくれてやろう。


「怒鳴って悪かった。どうにも、こういうのは難しくて」

「構いません。むしろ、私の方こそ······これしか、思いつかなくて······」

「いいんだって。エフィーはよく頑張った。立派にやったよ」


 エフィーは一度驚いたように目を見開いて、また笑った。そして、目の端に涙を浮かばせた。

 ああ、それでいい。その面でいい。


「ジンテツさん······私の胸を、触っていただけますか? どうしても、確認したいことが······」


 俺はエフィーに言われるままに、胸に手を当てた。もう胴体まで完全に灰と化していて、これ以上力を加えれば簡単に崩れてしまいそうだ。


「私の、心臓······うごいて、いますか?」

「······ああ。動いてるよ。とても、力強くね」


 エフィーは満足そうにして安らかに目を閉じて、涙を一粒流して崩れていった。積もった灰は床になだらかに広がって、徐々に元の形を失っていく。

 俺の手の中にあるのはただの残骸。部家の隅に溜まるような微細な塵。息を軽く吹き掛ければ、簡単に飛んでいってしまう儚い欠片。

 俺は今さっきまで、これと話していたんだよな。あいつの目に、俺の面はどんな風に写っていたんだろうな。

 涙は、溜まってすらいない。力が入らないのに、エフィーの手を包んでいた俺の左手は頬から離れようとしない。

 存外、俺も甘い奴だったんだな。

 勝手に産まれて、勝手に生きて、勝手に死んで、勝手に朽ちる――――所詮、この世はそうして命が廻っている。あっさりしていようが、軽薄だと抜かされようだろうが、それが自然ってやつだろ。こんなので一々感傷を受けるもんじゃないって、気にすらしていなかったのに······。


「はぁ――――めんどクセェ······」


 いつの間にか、ぐちゃぐちゃは落ち着いていた。不気味なくらいに静寂な空気、匂いに慣れて余計に寂然さが増す。

 白鞘のガタガタな刃についた埃を袖で拭い、自分の顔を見る。死んでいるようだった。喜怒哀楽の無い虚ろな面。見ていて気持ちが悪くなる。


「お前って、とんでもない奴だったんだな」


 取り敢えず、早く“これ„をどうにかしないと。

 飛び上がって、屋敷の屋根まで突き破る。街のほぼ中心に、大勢の人集りができているのが見えた。その中から、たった一つのを探し出す。見つけて、そいつのもとへ一旦屋根に止まって二度目のジャンプ。

 着地と同時に余波で積もった雪が舞い上がる。それが晴れると、徒花の姿がこの目に捉えられた。



 ――――――――滾らぁ、滾らぁ――――――――





 ++++++++++



 一目見て、クレイはジンテツの異常に気がついた。

 勢いよく派手に登場した彼は、とてもとても静かな佇まいだった。漆黒の髪はざわざわと逆立っていて、左頬には灰が付いていた。宛ら、威厳のある猛獣を前にしているような厳然とした雰囲気で、声をかけられる気がしない。

 クレイ以外も同じ感想で、『誰かが来た』というよりは、『なにかが来た』といった反応をしていた。

 ただ一人、グローリーのみは嬉々としてジンテツの参戦を快く思っていた。確実に手を掛けたと思っていた野兎が、再三自分の前に現れてくれた。普通なら、そのしぶとさに恐れを抱くものを、グローリーと来れば心の底から安堵していた。予想外。驚愕と歓喜が混在し、今までに無い興奮を覚える。


「ここまで来れば、最早異形だな。一体どうしたらお前は死ぬというんだ?」


 グローリーの声は浮わついていた。


「何度倒されようとも立ち上がる。まさに不屈の闘志というやつか? 中々どうして、厄介なケダモノに目をつけられてしまったものだ」


 これはグローリーなりの素直な称賛だ。彼を前にしてきた相手は、例外無く悉く斬殺された。決して二度目はありえず、それ故、グローリーは闘いに退屈しか得ていなかった。


「しかし、どうだ? 俺の仲間になる気になってくれたか?」


 そして、諦めの悪い勧誘。

 クレイはまだ言うか、と憤りを吐きそうになった。だが、それより先にバゴン!! と巨人でも歩いているのかと思わせられるような轟音が鳴り、微かに地面が揺れた。

 音源、震源地共にジンテツの足元だ。右足の下からヒビが広がっていて、異様な光景だ。


「気が立っているな。俺はやったことはないが、兎は気分が高まると足を鳴らす習性がある。主に、期待、警戒、そして怒りを覚えるとやるらしいが、お前の場合は“怒り„だな。俺に負けたのがそんなに悔しかったのか?――――というわけではなさそうだ」


 グローリーはジャマダハルを握り締め、威圧した。その気になれば、即座に攻撃を仕掛けられる。


「勧誘がしつこいと言うのなら、お前自身の素養を怨め。俺なら他の奴より、お前に有効性を与えてやれる。その力は類い希だ。非常にな。周りを見てみろ。どいつもこいつも、他人にすがり付くしか生き抜く術を見出だせない臆病者ばかりだ。この世の大半は、こういう他力本願な弱者が跳梁跋扈している。俺は虫酸むしずが走るんだよ。こういう連中が、今日まで生き残っていることに、不満が募る毎日だ」


 侮蔑の眼差しを周囲に向け、世間に対する呆れを主張するグローリー。

 目があった者はばつが悪そうにして目を背け、また、なにを勝手な価値観と評価を押し付けるのだと、反発の意を込めて睨み返す者も多数。


「助け合いだの、支え合うだの馬鹿馬鹿しい――――弱肉強食の時代はいつ終わりを告げた? 否、終わってなどいない。終わらない。永遠だ。平和、秩序、そんなものは必要無い。古きよき野生を謳歌してこそ、生きる甲斐があるというものだろうが! あァ、腹立たしい!! どうだ? ジンテツ・サクラコ。お前は、野良こっち側だろ? お前は俺に勝てない。ならば、俺の下について、共に荒れく――――」


 言い終える直前、グローリーの顔目掛けて何かが飛んできた。ジャマダハルを一薙ぎして防ぐ。

 襲い掛かってきたのは、地面の破片だ。ジンテツが蹴り飛ばしたのだ。

 視線を足から顔に移した途端、グローリーは思わずバックステップをしてジンテツから距離を置いた。

 野兎の目には感情が無かった。倦怠感を漂わせる半開きの目。得物を握る手も力が抜けていて、傍目からはやる気が全く感じられない無気力な姿勢であった。

 だが、対面しているグローリーからすれば、危機感を覚えずにはいられなかった。


「さっきっから、うだうだうだうだ······うっさいんだよ」


 ジンテツは髪をゆっくり掻きむしりながら言った。


「周りがどうとか時代がどうとか、いまそれ重要?」

「なんだと······?!」

「別にいいじゃん。平和でさ。面倒事が起きなきゃ俺はなんでもええ。世界のどこかで、いつに誰が野垂れ死んでいようがどうでもいい。俺が平穏でいられるならな」

「······この国が、滅ぼうともか?」


 狼狽するグローリーが訊ねた疑問に、ジンテツは前髪に五指を通して答えた。


「そうだね。俺が狭い森で暮らし続けていたら、それでも構わなかったかもね。けど、もう勝手が違う。縄張りが広がっちまったから」

「縄張り、だと?」

「ああ。寝所も、食卓も、宿も、数え切れないくらいに増えた。だから、せっかく広くなった縄張りを害されないように、お前みたいな奴を退かせて、今日も今日とて俺は面白い仲間ヤツらと一緒に旨い飯を腹一杯喰って、満ち足りた気分でフカフカのベッドに眠るんだよ。俺の目に付くところで下らない面倒事を起こそうっていうならさぁ。取り敢えず、お前――――死んでいけ」


 白鞘の切っ先がグローリーにまっすぐ向けられる。

 かき上げた前髪の下、険しく鋭い黒瞳から凄まじい殺気が無容赦に放たれ、そのあまりに重々しい威圧感がジンテツを注視している全員の背筋を凍らせた。中には気圧され、白目を向いて倒れる者まで続出した。

 グローリーはこの瞬間、自分は大きく見誤っていたのだと自覚する。

 今まで、ジンテツ・サクラコというケダモノは首輪で繋がれた野兎だとばかりに思っていた。話に聞いた思想から、もしかしたら野生に生きるべき同胞かも知れないと思い、勧誘をし続けていた。

 だが、それはまったくの間違いであったのだと野兎自身の威嚇から判断した。

 元来、生物とは生きる為に他を殺す。過酷な環境下を永く生きれば生きた程、相応の威厳と風格が備わり、それらを以て他者から別格な印象を持たせる。

 即ち、“本能的知覚„だ。

 グローリーも自他共に認める歴戦の猛者。今までに倒せなかった敵はいない。そんな猛兎であっても、目の前にいる野兎の深淵をようやく察知するに至った。――――いや、至らされた・・・・・という方が正しい。

 毛皮から汗が滲み出る。グローリーは、この感覚に覚えがあった。

 偶然、ドラゴンが睨み合っている場に居合わせたことがある。二頭にはざっと五倍程の対格差があり、さらに言えば大きい方は身体のあちこちに生傷を作っていたのに比べ、小さい方は鱗が綺麗でまだ若輩者であると伺い知れる。

 結果は目に見えていた。しかし、結末は予想を大きく上回った。なんと、若輩者である筈の小さいドラゴンが圧勝してしまったのだ。

 そのときの、大きさにしてたった三メートル程度の小型ドラゴンは、まるで狂気を現像したようで、気づかれてもいないというのにグローリーは命の危機を感じた。あれこそが、災厄に似た怪物バケモノであると。

 今、そのときと同じ心境にあるのだと分かり、静かに頬の汗を拭う。


「ジンテツ、もう一度だけ言わせてもらうぞ。――――俺の下につけ」

「やなこった」

「そうか。······ならば死ね!」

「お前がなァッ!!」


 ジンテツとグローリー、三度目の衝突。双方、互角に立ち回り、一歩も譲らない。

 凄まじい殺気が交差し、加勢する余裕が無い。

 苛烈で熾烈な殺し合いに、他者が介入することなど許されない。二人には最早周りに目が行っておらず、迂闊に近づけば巻き添えを喰らう。

 危惧したコンスタンは、ジンテツとグローリー以外を緊急避難用転移魔術の対象とし、街の外へ飛ばすよう区衛兵達に命令を下した。クレイは応援に向かおうとしたが、アリスに手を掴まれて共に飛んだ。

 妖精姫の呼び声は、ジンテツの耳に届かなかった。

 こうして、ビルアの街には二羽の雄兎だけが残った。仕切りが消えたことで、戦場は一気に拡大。

 変化に気づいたジンテツは、グローリーを払い除けて快活な笑みを浮かべる。


「ケケッ、丁度ええわ。これならいいよねぇ? 化けても!!」


 ジンテツの不適な笑みを見たグローリーは、嫌な予感がして進撃する。だが、間に合わない。


「しゅぅぅぅ······――――"一匁いちもんめ"ッ!!」


 たった一つの単語を口にした瞬間、野兎の身体から猛々しく黒い霧が爆散。グローリーの前に怪物が出現した。

 けたたましい咆哮があがり、それによって生じた風圧だけで周囲の雪が綺麗さっぱりに吹き飛ぶ。

 変身したジンテツを見て、グローリーは即座にその正体を見破る。


「黒い霧――――成る程、お前が噂に聞くミスリル大森林の、ドラグシュレイン区最恐の野良魔物クリーチャーと名高い“黒霧の怪物„か!!」


 ジンテツが吠えながら強襲し、グローリーは真正面から受け止めて鍔迫り合いになる。先程とは明確に桁違いの膂力に、驚愕を覚えずにはいられなかった。

 少しでも隙を見せればその瞬間に終わる。目と鼻の先にまで迫っている死の直感。そんな危機にありながら、グローリーは頭がおかしくなる程の興奮が抑えられなかった。


「流石は黒霧の怪物! こうも胸が高鳴るのは初めてだ! 感謝するよ!!」

「俺はそんな名前じゃない! 俺はジンテツっ! 冒険者の、ジンテツ・サクラコなんだよォ!!!」

「その肩書きが似合っているかどうか、とくと確かめてやる!!」


 グローリーが右の拳を掲げて突き出す。ジンテツは難なく避け、攻撃時に伸びた腕を掴んでは顔面を踏みつけて吹っ飛ばした。

 民家を突き抜け、即座に態勢を立て直すグローリー。顔を上げた瞬間に、ジンテツがどこから持って来たのか自身の二倍の胴回りもある太い木製の柱で殴り付けてきた。

 すかさずグローリーは回避。しかしジンテツは追撃し、仕舞いには至近距離で投擲。身体をのけぞらせて躱すも、避けた先でまたしてもジンテツが待ち構えたように得物を思い切り振り抜くところだった。

 辛うじて腕を振って弾き、雄叫びを上げながらグローリーは苦し紛れの一蹴を繰り出す。が、掠りもせず軽々と距離を置かれるのみだった。

 その後もまたジンテツは矢継ぎ早に疾走して急激に迫り、余裕無いグローリーを軽々と一薙ぎでズザザザザと押し飛ばした。態勢を崩さないように重心を保ち、地を滑るだけに留まった。

 けれどまたそこからは、ジンテツお得意の剣と蹴り技を組み合わせた滅茶苦茶な武術に防戦一方を強いられ、少しの反撃を許してもらえないまま憔悴させられ、気づけば三角絞めを受けて組み敷かれていた。


 なんという戦闘力!? 体力、攻撃力、対応力、全てが計り知れない! 俺の動きを読むのにも的確すぎる、まるで先導されているようじゃないか!! 今だ嘗て、ここまでこけにされたことは無い――――!!


 決して揺らぐことの無かった調子を乱され、プライドがズタズタに打ちのめされたグローリーの怒りは頂点に達した。


「【限界突破オーバードライブ】ゥゥゥゥゥゥ――――!!!」


 グローリーの身体から赤い波動が暴発し、ジンテツは直感に従って離れた。判断は的確で、波動の余波で土埃が渦を巻いて舞い上がる。

 晴れた先には、全身の毛を逆立てた深紅のグローリーが仁王立ちしていた。筋肉は細く萎んで、目も充血して真っ赤に染まっている。

 【限界突破オーバードライブ】とは、暴走魔術である。身体中の魔力を高速循環させ、爆発的に身体能力を促進させる効果を持つ。その代償として、急激な能力向上に脳が耐えられず錯乱し、理性が崩壊する。

 グローリーはパワーでは勝てないとして、無意識にスピードに肉体を特化させた。

 狂兎には狂兎を。怪物には怪物をぶつけることを選択したのだった。

 現状を把握したジンテツは、舌打ちをして攻撃を仕掛ける。同時にグローリーも雄叫びをあげて駆け出す。

 攻撃、速さ、防御、いずれも拮抗していた。ジンテツが変幻自在の武術で牽制しても、グローリーは全てに反応して逆に食らいつこうとする勢いだ。

 理性を取り払ったことで、余計な思考を巡らせること無く強引に駆け引きに追い付いている状態。二人の闘争は激化し、周囲の建物を次々に犠牲にしていった。

 ジンテツは棚やテーブルを投擲するが、構わず特攻してくるグローリーから飛び退いて次の手を講ずる――――


「しゃらくせェェッ!!!」


 ジンテツも即行で考える頭を棄てた。

 これは悪質な“„。ぶつける宛の無い怒りをぶつけても問題の無い敵に向けている。そういう“蹂躙„だ。『敵を倒す』名目など最初から持ち合わせていない。

 考えるならば、いかにして闘いに勝利するかに非ず。

 確実に殺す為に、勢いの足りない熱を――――。


 もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと―――――――――


「滾らせろやァァァァァァ――――!!!」


 ジンテツの活力がよりギアを上げた。獣懸けものがかった彼の左目は燃え滾り、グローリーの動きを瞬時に見切った。特攻をこめかみを一蹴して崩し、落ち着かせることなく鳩尾みぞおちへまた痛烈な後ろ回転飛び蹴り。

 建物の壁を何枚も抜いて地を転がされるも、グローリは立て直して強靭な脚力でジンテツの元までひとっ飛びして反撃する。しかし突き出したジャマハリダを首を反らして避けられ、さらに腕を掴まれて飛来した際の勢いでそのまま背負い投げを繰り出される。

 負けじと受け身をとって低姿勢で直進し、ジンテツの胴に両腕を回して捕らえて地面に押さえつけた。両拳を矢継ぎ早に浴びせ、掠り傷ながら着々とダメージを蓄積させ、最後は刀を払い除けて両腕を顔面に叩きつける。

 ジンテツの頭蓋を通じて衝撃は地面にまで届き、大きくひび割れを起こし地盤がややへこんだ。

 野兎は力無く大の字に伸びて、黒霧が薄まる。同時に、【限界突破オーバードライブ】の効果が切れてグローリーはもとの姿に戻った。


「はぁ、はぁ······流石に、疲れたな······」


 汗を拭い、息を整えて闘いの疲労を癒すグローリー。その間、じっとジンテツを見下ろす。

 霧が晴れたことで、その全容が露になっていた。墨のような漆黒の髪はより潤いのある艶を含んで腰まで、更に手足首にも同様の体毛が伸びていた。

 がらりと変わった様相に、グローリーはどこか不気味さを覚え、考察しようとは思わなかった。ただわかるのは、ジンテツがそういう“異形„であるということ。

 数ある人外の中でも、いずれにも該当しない特異性を持ち合わせていることのみ。魔術とも気色が違う。

 学識の無いグローリーには更々見当がつかない。


「このまま逃げるのもありだが、あの妖精姫もよかったな。つい昨日まで小鹿のように怯えてというのに、さっきのあの強気な態度。将来は大物になりそうだな。とはいっても、お前がいてこその肩透かしの自信だろうが」


 言って、鼻で嘲笑するグローリー。

 クレイの勇気は素直に称賛しているが、それはジンテツという比類無い武器がいてこその仮初のもの。

 彼女がこの場で闘いを見守っていたら、今頃どんな顔を浮かべているのか。想像し、下卑た微笑みを浮かべると、グローリーはジンテツに背を向けて立ち去ろうと歩き出す。


「妖精はよく売れる。特に、翅は飾りとして需要が高いからな。あの女の翅も、クフフフフ――――ん?」


 胸騒ぎがして、グローリーは歩みを止めた。背後から凄まじい殺気が刺してきて、そんな馬鹿なと狼狽する。

 手応えはあった。確かに頭を砕いた。あそこまでして生きていられるとなれば、もはや不死身の域だ。

 グローリーは恐る恐る振り向く。その瞬間、ジンテツが大口を開けて飛び掛かってきた。グローリーの鼻に噛みつき、ブチブチと肉を引き剥がした。


「ンガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ――――ッ!!!!」


 骨まで剥き出しになって多量の血が噴出し、両手で押さえても止まらず溢れ出る。地面に溜まり、その分、耐え難い痛みが深く重く刻んでくる。

 踞って悶え苦しむグローリーを見て、ジンテツはケッケッケッ! と指をさして嘲笑った。


「おぉばッえぇ!!」

「今のお前の顔、めっちゃええで! ケケッ、ケヒャヒャヒャヒャヒャヒャァァァ――――!!!!」


 嘲笑は爆笑に昇り、再度どす黒い霧がジンテツの身体から出現した。

 醜悪。今のジンテツには、その言葉がよく似合う。


「いけすかない面の皮が剥がれてマシになったんだから、いいじゃない。なんか不満?」


 まるで悪戯が成功して喜んでいる子供のように、ジンテツは上機嫌だった。

 グローリーは怒り、毛皮を激しく逆立てる。


「殺す······最早、二度と油断しない!」

「そうかい、そうかい。精々、励んでくれよなァ!!」


 挑発を受けて、グローリーは突撃の構えに――――よりも速く、ジンテツが顔面に膝打ちを喰らわせて妨害された。態勢が崩れた途端に、これでもかと回し蹴りがグローリーを襲う。

 幾度と顔面に喰らわされ、血が散々と辺りに飛び散る。もう一度、顔面に強烈な膝打ちをすると、拍子に右の角がバキッと折れた。

 ジンテツはそれをキャッチして太ももを指し貫き、痛みで前のめりになったところに顎を蹴り上げる。そして、仰け反って張った腹に左足での中段回し蹴りで追い撃ち。グローリーの身体はボールのように地面を転がり、街役場の門を抜いて止まった。

 主に顔を集中的に攻撃され続けたことで、グローリーの顔はパンパンに膨れ上がり、痛烈な一撃を受けた腹部には青痣ができ、血と胃の中身まで吐き散らかした。


「ゴフッ! あぁ······――――」


 ジンテツが歩いて来るのが見え、グローリーは身体に鞭を打って“あの技„の構えに入った。


「それ、やめようよ」


 ジンテツは呆れた様子でほやいた。だが、グローリーは構えを解かなかった。

 一見、目にも止まらぬ高速移動のように思える瞬撃。その実態は、視界内に限定した座標に想定術式――遠隔で魔術を発動させる応用技能――を用いた短距離転移ショートワープ。一瞬にして距離を縮め、ほぼ零距離で居合を仕掛ける不可避の不意打ちだ。

 からくりとしては単純ながら、対応するのは容易でない。事実、今の今まで破られなかったからこそ、グローリーは重宝しており、最強の一撃であると誇大な自信を持っている。

 足裏に魔力を蓄積させ、最良最適の機会を見計らう。


 問題無い。いくら動きが速くなったからといって、この技の特性は奇襲性。感覚で慣れさせられるものでは決してない。俺の技は、絶対に破られない――――!!


 充血した目を見開かせ、足に全神経を集中し、じっと軌道を想定する。

 対し、ジンテツは接近せずに腰を低くして得物を鞘の横に据え、深く構えた。その様はまるで、攻撃を今か今かと待ち構えているようだった。

 まさか、と一瞬不穏な思考が過るグローリーであったが、すぐに払拭してお望み通り喰らわせてやると転移魔術を発動させる。

 瞬間、顔の下から衝撃が急襲し、視界が夜空一色に染まった。身体は浮遊感に弄ばれ、自由が利かない。

 意識が朦朧とする中、グローリーは自分の身に起きた刹那の出来事を振り返った。

 魔術は確かに発動した。転移し、両腕をX字に振り抜いた。しかし刃は空を切っていて、目の前にジンテツの姿が無かった。

 彼はグローリーが来ようとした寸前に構えを解き、上体を倒しつつ脚を振り上げて、直上へと天高く蹴り飛ばしたのだ。

 獣懸かった野兎に、半端な小細工なんて通用するわけがなかった。

 衝撃でジャマハルダは粉砕。グローリーはこれ以上無い無防備な状態にされた。


「兎の足は月まで届くってぇ、なッ!!」


 さらにジンテツは跳躍して、グローリーを追いかけてきた。自らも不自由な環境に身を置くとは、と見ているものなら愚行だと困惑するだろう。しかしジンテツのこの行動は、奇行ではなかった。

 滾る瞳はグローリーを捕らえ、首を両足で挟んだ。そして、身体を捻って回転しながら急速に落下する。


「やめろォォォォォォォォォォォォォォォォォォ――――!!!」


 グローリーの抵抗は虚しく、ジンテツは彼の顔を踏みつけて堂々と着地。雪と土の煙が噴き上げ、爆発音に似た轟音が、先に転移した者達の耳を打ち鳴らす。

 超過したダメージを受け、最早グローリーに指一本動かす力も残っていない。

 革靴の裏が離れ、見下ろしてくるジンテツの顔が移る。黒霧は晴れて、元の姿に戻っていた。

 毛皮を掴み上げられ、今にも消えそうな意識の中で、グローリーは絞り出すように弱く掠れた声で訊ねる。


「お、まえ······なん、だ············」


 ジンテツは一度困ったように口元を些細に強ばらせ、次には朗らかな表情になって拳を向けて答えた。


「しらね」


 最後にグローリーを地面に殴り付けて、闘いは幕を下ろす。

 立ち上がると、ジンテツは数秒の間静かに佇んだ。深く息を吸い込みながら天を仰ぎ見て、高らかに雄叫びを張り上げる。

 朝日が顔を覗かせて、空はジンテツの全身を燃え滾る炎のような緋に染めていた。





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