ぶっ壊れ怪獣【ラ・モンストル】
「ったく、落ち着きが無いったらありゃせんわ。めんどクセェ」
冬のミスリル大森林は瑞々しいの一言だ。
俺は暑いのも寒いのも平気だし、年中何かしら植物が生き生きとしているから食糧にも困らない。しかしながら、それは妙だ。
最近、動物達の様子がおかしい。ここ一年で、北東辺りなんてめっきり数が少なくなった。昼下がりになっても、小鳥の囀りが一つも聞こえてこない。動物の気配がほとんどしないのは、寂しくて息が詰まりそうだ。
いつもと違うってだけで、軽くストレスが掛かりやがる。どうせなら、俺も冬眠してやり過ごしたいよ。
取り敢えず、今日の分の薬草が取れたから森の奥に行く。ミスリル大森林を管理している、言うなれば縄張りの主みたいな奴がいる。
森精ドライアドっていう格式高い人外らしいのだが、今は病床に臥している。俺は薬になる野草を採って回っては、適当に調合して治療している。
今日は効きのいいやつが手に入った。近頃、咳が酷くなってたから、これで少しは回復してくれればいいんだけど。
方角にして南。数々の結界を張り巡らして部分的に迷いの森にして、自身の身を隠している。力が弱まっているのか、はたまた特別に許可されているのか、俺はただ真っ直ぐ歩いているだけで一際太く、何本もの幹が組み合ったようは大樹のもとに辿り着く。
森精ドライアドはここで生きている。つーか、大樹そのものか。
「よ、カルス」
幹が解れて枯葉色の萎びた長い髪の女が現れる。葉っぱと蔓で出来たドレスを着ているのだが、生気が無くて緑が濁っている。
「ジンテツですか? ご苦労様です」
「なんか、また声枯れてない? 肌も老けちゃって」
カルスの頬に軽く触れると皮膚の感触が固かった。初めて会ったときはもっと潤いがあったのに、随分弱ったな。
「調子、悪いの?」
「そうですね。最近、森が慌ただしいですから、どうにも空気の流れが所々滞っているようで」
「それで病状が悪化してるって? 冗談はよせ」
髪も少し刺激を与えれば崩れそうだ。滑らかな手触り、好きだったのにな。――――ざけやがって······。
取り敢えず、薬の調合に取り掛かる。
近くの泉から水を掬い取ったら、全力全快で石を打ち合わせて積んだ枝葉に着火。息を絶え絶えにしてまでも灯した火に、鉄の盃を乗せて水を入れる。
薬草を刻んで、搾って、まぶして、注いで。あとは湯煎した盃に溶けにくいものからぶちこむ。
必要なのは薬草そのものというよりは、葉や根っこから取れる出汁がポイントだ。誤って材料をそのまま入れたりしたら、カルス共々毒霧によって天に召される。
匙でかき混ぜつつ、材料を全て入れたら十分程度ボーッとする。そしたらまたかき混ぜて、色が緑から鮮やかな赤に変色すれば器に移して、俺ブレンドの『よく効く薬茶』の完成である。
「一人で飲めそ?」
「ごめんなさい。指を動かすのも辛くなってきました」
「そうかい。しゃーないな。熱いから気ぃつけろよ」
「お手数お掛けします」
カルスに薬茶を飲ませる。喉の通りは悪くない。
薬には睡眠作用があるから、カルスが寝るのを確認するまではここにとどまる。少しすると、うとうととし出した。
薬が効き始めているな。取り敢えず、順調と。
「ジンテツ、私が眠っている間、外を出歩いているようですけど、控えてくださいね。森が一層騒がしくなってきました。あなたも、他の動物達のように身を潜めた方がいいですよ」
「それただの冬眠やろ。できたらやってるってーの。つーか、カルスが弱ったら森全体が萎えてまうんやろ? そやったら、あんたを回復させる方が何倍もマシだし。得でしょうが。気張れ。じゃないと棲み場所が無くなる」
カルスは弱く溜め息を吐いた。
「まったく、あなたには励まされてばかりですね」
「病人は黙って寝てろい」
「はいはい」
目蓋を閉じて、カルスは幹の中に戻って寝静まるのを見届ける。俺の目の前には、物静かな大樹が一本あるだけとなった。
「さて、俺も帰って寝るか」
道具を片付けて、欠伸をかきながら帰路につく。
道中ではよく冒険者を見かける。森の外にある『街』ってところから来る武装した集団だ。
その辺の野獣とは比べ物にならない程に、知能も武器も文化的な発達を遂げた外界の猛者。カルスもあれには近づかないでと何度も釘を押された。
言われなくても、自分から面倒事に突っ込もうなんて思っちゃいない。何せ相手は、『魔術』だとか『呪術』なんていう奇々怪々な妙技を収得している。
目障りで歯痒いが、マシでめんどクセェことは避けたい。
一年前だったか、数十頭ってそれなりの規模のハウンドの群れが森を横断してきたときは驚いた。さらにそれをたった三人の冒険者が狩り尽くしたというし、職の名に偽り無しの生存能力を持っているのだから、尚関り合いになりたくない。
大抵は薬草を採りに来たり、獣の首を獲りに来たりしている。カルスは自然の摂理として看過しているが、こっちとしては大迷惑この上無い障害だ。
生きにくいったらありゃせんわ。
俺の住み処は北東部にある。少し開けたお花畑には、季節を無視して彩り豊かな花が咲き誇っていて、中央にはねじまがった木に飲まれた一戸の小屋が建っている。
これが俺の巣穴マイホームだ。中には元々あった本と、カルスから貰った本が大半を占め、あとは小さな物置棚とベッドだけ。
狭いが一人で棲む分には窮屈ではない。しかも一年中ここに居て、本来の主が戻る気配が無いから、本も棚もベッドも完全に俺のものだ。
俺には記憶が無い。一年前より以前の記憶が、すっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。
頬の傷、首に下げた鈴、二振りの得物。どれも俺にはさっぱりだ。
一番古い記憶は、森の中に一人寝転がっていたこと。辛うじて覚えていた言葉は、『さくらこじんてつ』って単語だけ。なんとなくだが、それが俺の名前なんだろうと思う。
何も覚えていないから、取り敢えず惚けていたところをカルスに拾われて今に至る。
根なし草だった俺に、雨風を凌げる程度の住み処、棲むには困らない程度の知識と娯楽を与えてくれた木の精霊には恩義しかない。だから、カルスの病はなんとしてでも治してやりたい。
そもそも、制限されるのが我慢できない性分らしく、やるなするなと言われると、反抗心がよく働く。それで何度、カルスに逆さ吊りにされたことか。そんなほとんど口煩い親同然の存在があのザマじゃ、気が気でならない。とにかく無性に気に入らねぇ。
記憶を戻そうなどと考えたことはない。気にならないと言えば嘘になるが、俺は今の生活が気に入っている。静かで穏やかで、小鳥や小動物、あと
勝手に生まれて、勝手に活きて、勝手に死んで、勝手に朽ちる。これ以上にわかりやすい条理はあらへんよなぁ。
所詮は、どう暇を潰して最期を迎えるかってことなんだ。記憶が有ろうと無かろうと、その辺の成り行きってやつになんら変わりはない。
そやったら、俺は俺の儘に暮らすだけ。深く考える必要も、拘る意味も抱えるだけ邪魔でしかない。
たまに喧嘩沙汰が起きたり、カルスに雑用を任されたりするが、十分すぎる良環境だ。
「さっき見た冒険者共、やけに目が血走っていたな」
ああいうのが来るようになった所為で、森はいつもただならない空気に襲われている。偶然通りかかった行商達の話を盗み聞きしたところ、“黒霧の怪物„っていう化け物が原因らしい。
一年前から騒がれている存在で、名前の通り黒い霧を放って現れることから正体が不明なんだとか。
それを捕獲、または討伐しに冒険者達が躍起になっているってことだ。
黒霧の怪物のことはカルスも悩ましく思っているみたいだった。特に大きな被害を与えてはいないものの、
ただ凶暴なだけなら目にかける程でもない。だが、その怪物には明らかにおかしい部分があるのだ。
なんでも、魔力を微塵も感じないらしい。
魔力とは動物は勿論、植物や石、空気など森羅万象を巡っている絶対的な力の流れのことだ。
本によっては『神の恵み』だとか、『理の奔流』とも記されていたっけな。要するに、この世に存在する全てのものに魔力が宿っている。
死体でも微々ながら発しているというのに、そもそもそれが微塵も感じないというのは、なにも口にせずに百年を過ごしているも同然の異常なんだとか。
俺にしたらどうにも想像できないが······。
天井に向けて手を翳して、力を込めてみる。――――ま、何も起こらないんだけどさ。
「もしも、俺に魔術とか使えたら、もっとカルスを楽にできたんやろか······」
ま、無い物ねだりしたところでめんどクセェ気分になるだけだし。別に羨ましいわけでも困っているわけでも無し。とっとと捨て置け。
とにもかくにも、ただでさえカルスが病弱で気に掛かっているのに、危険な怪物だとか冒険者が険しいとか一々意識を向けていられない。俺の平穏を邪魔する敵は、何であろうと苅り尽くしてやる。それだけだ。
ベッドに背を預けて寝ようとしたら、ふと先程に見た冒険者の一団を思い出す。
「そう言えば、一人だけ女がいたな」
周囲に雄々しい戦士や魔術師がいる中で、一際目立っていた清潔感のある鍍金装備をしていた
丸みのある目には若葉のような透き通った翡翠の瞳。俺が首に下げているこの“音の出ない翡翠色の鈴„と同じ色の眼。綺麗だったな。
長くツンと尖った耳、クセの強いの黒髪に下した背からはマントのようにカゲロウの翅がひらひらと棚引いていて、それだけでも目が引かれた。
首元には瞳と同じ色の石が填められた金具で止めた緋色のジャボを掛け、栗色のギャンベゾンの上に輪を成した真珠の描かれた軽い金属製の胸当て、腕と腿から下にも同質の装備で身を固めていた。
身体つきは俺より少し肉付いているが、背丈は俺の胸辺りに頭が来るくらいだ。顔は幼さを残しながらも整っていて、妙に印象に残る。
あれが『姫騎士』って奴か。小説によく似た特徴のキャラクターが出てくるから、なんとなく立ち位置っていうのか、設定的に見ればあの
絢爛さが無いからマジで姫かどうかは知らへんけど――――。
「精々、励めよな······」
次に出会したときには死体になっていないことを祈って眠りにつく。
死なれていたら気分が悪いし、そうなると後始末しにぞろぞろと他の冒険者が押し寄せてくる。それは落ち着かない。
++++++++++
ジンテツが去った後、カルスは思い悩んでいた。
彼女はミスリル大森林を基に生まれたため、それと直結している。
森の意志はカルスの意志であり、森が感じていることは直接にカルスへと伝わる。何をしようと、森の中で起こることであれば全てを見通せる。
ジンテツが大人しく小屋に帰ったのを遠巻きに見送って、安堵の溜め息をつく。同時に罪悪感が胸に沸く。
彼はどこからともなく、突然森の奥地に現れた。まるで水面に雫が落ちるような、脳天をつつかれたような、筆舌に尽くしがたい異常事態。
どうして発見が遅れたのか、早々に答えは出た。
“有り得ない„が、それが一番“有り得る„という事実に自身の生きてきたこれまでの全てを疑った。
――――ジンテツ・サクラコには、魔力が微塵も宿っていない――――
最初は警戒した。
長い時を生きてきて、規格外の魔力を持つ存在に会ったことはあっても、その全くの対極だなんて想像すらしたことがなかった。小細工はおろか、二振りの刀剣以外に妙な道具は見当たらなかった。
装備も調べたが、異様な気配を放っていたものの、魔力を祓うような効果は見受けられなかった。
さらに驚いたことに、ジンテツは自然の中に溶け込んだカルスを意図も容易く見抜いたのだ。
魔力を持っていないのなら、当然、魔力に纏わるものには鈍感な筈なのに。そうでなくとも、精霊であるカルスが樹木に身を潜めれば、どれだけ敏感な感性を持っていても見つけるのは不可能。それ故に、カルスは野兎に尋常でない恐怖を覚えた。
そんな胸中に、ジンテツは無邪気にこう訊ねてきた。
「これ、なんていうんだ?」
ジンテツが指差していたのは、一輪のスノードロップだった。目を丸くして、まじまじと見つめていた。
恐る恐る教えてやると、「そうか‥‥‥いいな‥‥‥」と感慨深そうに言って、日が傾くまでその場に腹這いになって眺め続けた。まるで、池の魚を見ている子供のように。
次第に恐怖が薄れて、気付けば笑みがこぼれていた。
魔力を持たない。たったそれだけのことでも、世界の理から大きく外れている。
創造主たる神の恵みを与えられなかった異端者――――この烙印は、一生を投じても拭い落とすことはできないだろう。その者が一切の穢れを知らぬ善良だろうと、底知れぬどす黒い邪悪であろうと、関係無く、無慈悲に。
だから隠すことにしたのだ。
きっと、森から一歩でも外に出てしまえば、ジンテツは多くのものから忌み嫌われてしまうだろうから。
その一方でこうも思う。ジンテツは非常にやんちゃだが、とても好奇心が旺盛で器用な兎だ。このような辺鄙なところで燻っていていい存在ではない。
その気になれば、誰しもの助けになれるというのに、自分という存在が過保護や病に倒れたことが重なって、その機会に巡り合うのを妨げている。
守りたいが、縛っていたくない。そんな正反対の苦悩が堪らなく辛い。
「いつか······そう――――例えでないいつか、あの
もう何度目になるかわからない祈りを胸に、カルスは虚ろな瞳を静かに閉じる。
++++++++++
「すぅー······すぅー······ほやぁ~······――――ミミズかと思ったら蜂でしたってアホかァァァァァァ!!!?――――なんだ、夢か······」
久しぶりに壮絶な悪夢を見た。たまに変な夢を見るんだよな。身震いが止まらん。ストレスかな?
いつの間にか夜になっていた。
取り敢えず、大きな欠伸をかいたら背伸びして、カルスの様子でも見に行こうと思い外に出る。
目蓋を擦ってぼやけた視界に妙な明るい光が写った。安定してくると、南の空が局所的に赤くなっている。
その景色が何を意味するのかすぐにわかった。
「火事かよ······めんどクセェ!」
俺は全力疾走で向かった。
南の森から逃げてきた動物達の荒波に遭遇して、木々を伝って回避しながら先を急ぐ。
離れたところで稲妻が弾けたり、炎の渦がうねったりと穏やかでない光景が広がっている。
明らかに原因はあそこにいるな。まったく、甚だ迷惑千万な!
次第に周囲を火花が舞い散って、蒸し暑くなってきた。さらに進むと烈火の生い茂る南の森に到着した。
上下左右、隙間無く火の手が上がっていて、樹々も倒れて手がつけられない大惨事になっていた。
俺はカルスの方に足を向けた。あいつは恐らく、炎の中心部にいる。
カルスにとって森は命そのものだ。このまま放置していたら、いずれ火は森全体を真っ赤に染め上げる。一刻も早く消化に取り掛からないと、カルスが死ぬ。
自分が焼け死ぬかもしれないなんてどうでもいい。こんな下らねぇことで死なれるのが腹立たしいんだ。――――それに、森が焼けちまったら棲む場所が無くなってめちゃくちゃ困るし!
「許さねぇぞ! こんなんで逝っちまうとか、絶対に許さねぇっ!!」
崩れ落ちる木々と、噴き出る炎を越えて、カルスのところに辿り着く。
ここは一際、火の勢いが激しかった。カルスの大樹は酷い有り様で、急いで泉から水を汲んでぶっかける。しかし、こんな雀の涙でどうにかできるわけがない。
だから、カルスがいる箇所を優先的に消化して納めたままの刀を突っ込んで口を開かせる。
「カルス!」
火事の所為で病が悪化したのか、昼に見たときより顔色が悪い。
「うぅ······ジンテツ? どうして······」
「まだ生きてた。取り敢えず、行くで」
「待って、ください······ジンテツ······」
カルスの制止を聞き入れずに、痩せ細った身体を傷つけないようさっと回収して避難を急ぐ
一人程度背負ったところで全然余裕だ。つーか、弱っているからか本五冊分より軽い。
取り敢えず、俺の小屋に避難したいところだが、辺りの火の勢いは一向に収まらなかった。
ったく、昼に見た冒険者はなにしていやがんだか。こんだけ炎上沙汰なのに、消しに来ないってどういう采配だよ。
「いねぇ奴を待っててもしゃーない。取り敢えず、カルス、少し揺れるけど、落ちるなよ――――しゅぅぅぅ······」
やむを得ず、一か八か一気に飛び越えようと足腰に力を入れる。失敗したら炎の海にダイブだ。
少々、根気がいるから余計な思考を払って『跳躍』という動作一つに心血を注ぐ。
いざ、空の彼方へ――――というところで、寸前で唐突に森から飛び出してきた何かに衝突した。軽々と吹き飛ばされた拍子にカルスは背から落ちた。
「ったく、なんなんだよ······はぇ?!」
立ち上がって、ぶつかってきた何かに目を向ける。俺の目に写ったのは、昼に見かけた妖精の女冒険者だった。
吐血していて、裂傷と火傷が身体中に散見される。鎧にも引っ掻き傷があって、近くに落ちている細剣レイピアを拾おうと這いつくばって血塗れの手を伸ばすが、痛みで力が入らないといった惨状だ。
「おい、お前」
「くっそ······」
妖精が力むと身体を青白い電光が走った。今さっき、ここに向かう途中で見かけた稲妻の主は、こいつか。
取り敢えず、まだ口を利けるっぽいから仰山知っとること絞り出して貰おうかね。――――俺はやっとの思いで剣を掴んだ女の右手を踏みつけた。
「うぐっ!!」
「おい、悶えてへんで俺の問いに答えろよ。手じゃなくて、口ぃ動かしてなぁ!」
さらに手を踏みにじると、妖精は痛みに喘ぎながらも俺を睨んで見上げた。
見かけたときはのほほんとした印象だったが、案外悪くぁねぇ生意気な目付きをしてくれてんじゃねぇか。
「答えろよ。お前、冒険者だろ? ここになにしに来た? この炎はお前か? 仲間がやったのか?」
「······あなた、は――――ぐぅ!!」
「訊いてんのは俺で、応えんのがお前! 筋ぃ建ててんだから、則れや!」
妖精を問い詰めていると、カルスが弱々しい小声で呼んでいるのが聞こえた。
「ジンテツ······その方、は······“敵„じゃ、ない!」
絞り出したカルスの訴えに耳を傾け、その後すぐに感じた殺気に妖精を抱えて飛び退く。直後、俺が立っていたところの地面がトラバサミのように変形してガシンと勢いよく閉じた。
今のは魔術か。俺と妖精を区別していない無差別な所業。――――っとなると、妖精の仲間じゃない?
まだ殺気を感じる。近くにいるな。火の元手はそっちか。
「出てこいやァァァァァァァ!!!」
高らかに叫ぶと、周囲の炎が球となって襲い掛かってきた。軽快に飛び越えて回避する。
さっきのが土、今のは火。少なくとも敵は二人いる。
姿を隠してずっと俺たちを見ていやがる。こんなつつき回すような真似をして、何がしたいんだか。
「ざけんなよ······」
「ダメ! 逃げて!」
妖精が叫んだ。あまりに必死な様子で驚いている隙に、首の後ろにチクッとした刺激が入り込んできた。
すると、瞬く間に手足の指の先までツンとした痺れに襲われて気づいたときには地面に倒れていた。
身体の自由が利かなくない。この感じは麻痺毒か。
「フィッフィッフィー。少し手こずりやしたが、上々でやすね」
視界の外で、引き吊った嘲笑と舐め回すような声が聞こえた。誰かが俺を見下ろしている。
音がぼやけてよく聞き取れないが、蹄が鳴っている気がする。敵は草食有蹄類の獣人か。
「回りくどい真似を致しやしたが、ようやく捕まえやしたよ。黒霧の怪物······」
············はぇ?
++++++++++
――――ヤバイヤバイヤバイヤバイ!! しくじった!! なにしてるんだよ、私の、バカっ!!!
妖精の女冒険者ことクレイは内心で自責していた。
彼女がミスリル大森林を訪れた理由は、森を燃やしている元凶を捕縛する為だ。そして、それと共犯であるもう一人の敵が、今目の前に悠々と現れていた。
容姿は正に二足歩行をしているヤギそのものだ。後ろ向きに伸びた一対のV字の角に、焦げ茶の剛毛に包まれた体躯。黒い顎髭は上に反り返り、上裸でベルトの左右には曲剣を下げて、首から肩にかけての体毛が一際赤黒くファーのようになっている。
毒矢を刺して動けなくした
彼女には怪我した手を踏まれたり、罵声を浴びせられたりと散々虐められたけれど、隣で倒れているカルスが呼び掛けていたのを見て敵ではないと即座に判断した。
巻き込んでしまったのは自分のミスとして、クレイは傷まみれの上、毒で麻痺した身体を動かそうと全力で魔力を巡らせ腹に力を入れる。
「デリー・ビリワック!!」
「おやおや、これは驚きでやすね。ワタクシ特注の麻痺毒を受けても尚立ち上がれるとは、噂以上に規格外でやすね。
デリーは口角を上向きに歪め、気色の悪い笑みを浮かべた。
「辛いでやしょう? 苦しいでやんしょう? 何せ蛙の毒をメインにしているのでやすから、魔力で生成した遇物とは質が段違い。冒険者の中でも飛び抜けた実力を持つあなた様ですら、生まれたての小鹿になる。まったく、お仲間さんを庇ったばかりにご自分が痛い思いをして、哀れなり、哀れなりぃ~」
彼の言う通りであった。
何の前触れもなく森が炎上してそれの対処に当たっていたところに強襲を受け、仲間に応援を呼ばせて一人だけ残った。その際、毒矢を身を呈して防いだのだ。
結果、身体は痺れて本来なら余裕で倒せるレベルの敵に散々痛め付けられる羽目になった。
不覚をとっただけでも屈辱なのに、デリーの態度の悪辣さによって拍車がかかる。
「さてさて、あなたはどう捌いて差し上げやしょうかねぇ。妖精の翅は高く売れるし、見目麗しいその身も欲しがるお客様も多いことでやしょう。流石は人気者。あっちの野兎と一緒に収穫致しやしょうかね?」
ゆっくりと歩み寄りながら舌鼓を打つデリーに、クレイは言い知れない恐怖を懐いて痺れた身を震わせた。
「待て、デリー」
なにもない空間から、とんがり帽子を被った魔術師風の黒い男が出てきた。身の丈程の杖を左手に、右手には円塔を模したランタンを持っていた。目の下に濃い隈があって、顔面蒼白で窶れている。
「メイザースさん」
「我々の目的はこっちの人兎の方だけだ。遊んでいないで、応援が来る前に回収してさっさと撤収するぞ」
「へいへい。でも、なんなら彼女も持っていきやしょうよ。わざわざいろんな所に毒を刺して、ドライアドの神経を磨り減らして、徐々に徐々に動きやすく動きやすくしたってところに、冒険者に嗅ぎ付けられて。これで金貨五枚は、少々割に合わないとは思いやせんか?」
デリーのねっとりとした文句に、メイザースは苛々を募らせる。
「それはお前が不用意に罠を仕掛けて、近隣の村の猟師に被害を出したからだろ。余計な真似をして、要らぬ苦労をかけた結果がこの強行手段だろうが」
「だって、あの猟師の狩りは下手くそでやしたから」
「黙れ。女共の始末は俺がつけておく。お前は兎の回収を急げ」
「へいへい」
デリーは魔法陣を展開し、そこから巨大きな木箱を取り出して武器を取り除いて人兎の詰め込ちを始める。その間、メイザースが立ち塞がる。
クレイは二人の行動が不可思議でならなかった。
「あなたたち、その
「答える必要が無い」
言いながら、メイザースはクレイを蹴り倒した。そして、再度起き上がろうとする彼女に杖を向けて妨げる。ランタンも掲げ、動けば燃やすと無言の脅しも加えた。
「こんなことをして、ただで済むとは思わないことね!」
「勇ましいな。流石にギルドが誇る一番星だ。だが、青い。青すぎて見るに耐えないな」
なんとしてでも助け出さねばと、クレイは思考を巡らす。今の状態では二人はおろか、メイザースを倒すのも難しい。
「どうしてこんなことを! あなた達は元冒険者でしょ! なんで
メイザースは呆れて溜め息をついた。
「
実力に見合った評価を得られない。冒険者にはよくある不満だ。
澄んだ目で見れば誰しもの役に立てるやり甲斐のある役職だが、実際のところは依頼人と報酬に振り回されることが多い都合のいい職業。雑用となんら変わらない。
それでも、誰かの役に立てるだけでクレイは誇りに思えた。価値観は人によって違うのはわかっている。
だから自分の為に力を振るう気概も、それが駄目だと押し付けがましい否定はしない。
しかし唯一我慢ならないのは、他人に平気で迷惑をかけること。そしてそれを平然と自慢する下劣な精神だ。
「なんだ、その目は。ひどく不快だ」
「それはそうよ。だって、不快に思ってるから。私はあなたみたいに、横暴を働く輩が大嫌いなの! 力の使い方は人それぞれ。でも、他者を顧みない使い方は本当に大っ嫌い! 私がいなくなっても、あなた達は絶対に裁かれるわ! 絶対にねッ!!」
クレイの身体を青白い電光が走る。まるで威嚇して毛を逆立てている猫のようだ。
その無様ながらも勇猛果敢な態度が、ひどくメイザースの癪に障った。
「······生意気な、お姫様だな」
ランタンの火が大きくなる。
「お前、あの人兎と関係無いよな?」
「ええ。初めて見るわ。なんなら今さっき手を踏みつけられたわ」
「だったらなんでそこまで噛みつくんだ? 気分か?」
「そうよ!」
力強くクレイは答えた。
メイザースは逆に感心した。齢十七の少女が大それた正義感を持っている。夢見がちな子供のいいお手本だ。
聞けば聞く程、沸々と怒りがこみ上げてくる。
こういう奴がいるからこそ、自分の掲げる誇りが踏みにじられるのだ。本来受け入れられる筈のことが、他にとっては排斥されても構わないと軽く見下されるのだ。
無意味で無謀な正義は、惰弱で腐りきった最悪を産み落とす。なぜわかろうとしないのだろうか。
理解できない世界に、理想を追い求める若者に、理念を突き詰められない愚者に、全てが腹立たしい。
「よくわかった。お前はここで灰になってろ。後の事なんか知ったことか。俺はお前が気に入らない。虫けらは虫けららしく、焼けちまいな!」
メイザースはランタンから火球を出して、クレイに撃とうと杖を振り上げた。その瞬間、背後で木箱に腰掛けたデリーから情けない呼び声がかかる。
「メイザースくん」
「なんだ! こんなときに!」
「なんか、箱からモヤモヤが出てるんでやすが······」
「あ?!」
振り向くと、確かに人兎が詰め込まれた木箱から静かに、うっすらとした黒い気体が滲み出ていた。それを見て、クレイ、デリー、メイザースは揃って困惑する。
それは、ミスリル大森林でしか見られない大異変。最恐の怪物が放つ、最悪な予感の一つ。
唯一、その現象が何を意味するかを知っているのは、カルスだけだった。薄れる意識の最中、霞む視界に収めたそれに向かって、哀れと嘆きが内心でざわめく。
――――あぁ、いけない。また、目覚めてしまう······。
++++++++++
麻痺毒で意識が朦朧とするなか、ジンテツの耳は僅かながら外界の事情を拾っていた。
何やら下らない内容が聞こえた気がする。しかし、彼には真相も理由もどうでもよかった。重要なのは、自分の身が置かれている状況ただそれだけ。
捕まえられた。
即ち危害を加えられた。
即ち縄張りを害された。
ここまで屈辱的な気分は始めてだ。困惑するよりも、懐疑、猜疑がジンテツの中で渦を巻いている。
どうしてこうなった?
俺はなにかしたのか?
お前達を害したのか?
何もしていないよな?
取り敢えず、獣は全てを悟った。
疑惑は憤慨へと転じる。
この状況、その原因。
この状態、その主犯。
“苅る„べき敵は近くにいる。縄張りを侵し、平穏を壊し、とことん“縄張り„を害する鬱陶しい『害敵』が。
赦せない、赦せない、赦せない――――絶対に、赦さねぇ!
獣は目覚めた。同時に、怒りから発露した黒い気体が漏出し始める。
狙うは害敵のみ。溜まりに溜まって濃厚に、濃密にどす黒くなっていく果て無き鬱憤は、
――――
++++++++++
「グォォォォォォ――――ッ!!!」
唐突に凶猛な雄叫びが轟く。ドラゴンのものより張りがあり、鉄が割れるような空気の軋みが強烈に耳の奥にまで響いてくる。
ドン! ドン! と、木箱が揺れる。中身など明白なのだが、三者には内容物を忘れさせる程の衝撃だった。
グルルルルと木の幹を削るような唸り声に、計り知れない感情が込み上げる。獰猛な猛獣に目をつけられたと、確信した戦慄だ。全員、動くことを忘れている。
静寂が搔き殺される。火の猛りよりも深く、鋭く、強烈な獣の息吹き。
唸りが沈んでいくと、突如として座っているデリーに向かって木箱から何かが突き出る。それは黒い気体を纏っていて、目を凝らせば女性的な細腕だった。
デリーには飛び退いて逃げられてしまうも、しなかやに蠢いて獲物を探している。見つからないとわかると、腕は爪を立てて木箱の表面をガリガリと引っ掻き回す。
「おい、デリー!」
「毒はきちんと刺しやしたよ! 間違いなく!」
「だったらなんで動いている!」
その疑問はデリー自身が訊きたかった。
自作の毒は魔力云々に関係無い。そもそも、彼には魔力が無いというのだから、気にせず実行した。
狩人デリー・ビリワックの毒が利かないものはいない。いるとしたら、毒そのものでできているか、もしくは病魔や苦痛を意に介さない根性漢か、はたまた――――
「根っ子から常識すら持ちえない、破壊衝動の塊か······」
デリーは両腰の曲剣を抜き、メイザースも舌打ちして杖とランタンを構える。
二人の意識が逸れている隙に、クレイは身体に鞭打ってカルスを連れてその場から離れた。
木箱には段々と亀裂が拡がり、みるみる内に全面を覆いつつあった。それに伴って、漏出する不気味な唸り声と黒い気体が色濃くなっていく。
ドン! ドン! ドン! と内側から衝撃音が絶えず鳴動する。刻一刻と迫る怪物の解放。音が一旦落ち着いて、十秒程、緊迫した沈黙が流れる。
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····························································来る。
――――ブォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!!
木箱が爆発四散した。飛び散る破片を魔法陣を展開して防ぐ。
隔てた障壁の向こう側では、火山が噴火したように黒い濃霧が凄まじい勢いで昇っている。
解放された黒霧は生暖かく、手の平を広げるようにして地上に拡散、瞬く間に腰の高さまで侵食し、やがて木箱があった場所に一つの塊が渦巻いているのが曖昧に見えてくる。
踞るようにしていたそれは、巨大な毛深い猛獣を思わせ、身体が近づくことを許さなかった。
クレイはまた少し距離を開ける。
しかしデリーは、「こういうのを待ってたんでやすよ!」と狂喜乱舞し、無謀にも霧の中心へと曲剣を振り上げて襲いかかった。
だが、曲剣が振り下ろされるよりも先に、メイザースがデリーの行く手を魔法陣で封鎖した。
「なんで?!」
「計画は中止だ! 逃げるぞ!」
「ここまで来て?!」
「念のため強化した木箱が粉々に破壊されたんだぞ! サイやカバが突っ込んでも壊れない頑強な木箱がだぞ! 見てわかれ! 尋常じゃない! そいつは――――」
グルルルル――――霧中から猛獣の唸り声が聞こえ、メイザースの口が止まる。一斉に霧が波打って、中心へ向かって寄り集まり、膨らみ、一気に破裂。
「ゴゥルァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ――――!!!」
黒霧の中心が方向によって晴れ、そこから姿を現したのは、天に向かって盛大に吠え散らかす“怪獣„だった。
耳を塞いでも咆哮は鼓膜が破られそうになる程に猛々しく、周囲の草木はざわめき、空気は震撼し、地震が起きているように感じた。
あれが、木箱の中身――――全員が目を疑った。さっきまでの野兎とは似ても似つかない。
髪は何もかもを飲み込みそうな闇を宿した漆黒で、霧に雑ざってどこまでも伸びているように見える。牙も爪も鋭利に尖って凶暴性、獰猛さが凄まじい。
今までに様々な人外に遭遇した三者であったが、ここまでおぞましい印象を与えてくる輩は初めてだ。
魔力を全く感じないにも拘わらず、圧倒的な迫力、絶大な威圧感。三人共に神経の隅から隅まで、骨身の髄まで、本能の深い深い奥底にまでわからせられた。
――――あれが、“黒霧の怪物„ッ!!?
メイザースは早くに逃亡を画策するも、デリーが止まらなかった。今までにない獲物に相対し、感極まっていた。興奮を抑えることをやめ、ただ
血飛沫、火の粉に紛れて空に散る。その発生源は――――デリー・ビリワックの鼻腔。
メイザースとクレイはしかと見た。デリーが突如として吹き飛ばされる様を。怪物が彼を蹴りあげたのだ。そして、デリーの足を掴んで地面に叩きつけ、ぐしゃりと骨が砕ける音がしかと耳に入った。
横たわる山羊の背を踏み越えて、怪物の鋭い瞳孔がメイザースを捉える。
「ま、待て! 待て! 俺には敵意が無い! 今すぐこの場から消えるから、見逃してくれ!」
冗談じゃない! ただ魔力の弱い兎を捕獲するだけの簡単な仕事の筈だったのに! 今頃は依頼人に引き渡して優雅に晩酌を嗜んでいる筈なのに! 武闘派で森では並ぶ者無しのデリーが容易く倒された! こんな事態は予想外だ!
動悸が激しくなるメイザースは慌ただしい胸中で必死に訴えるも空しく、怪物は歯を軋ませながら唸る。
落ちていた二振りの刀の内、白鞘を拾い上げてしゅっと抜く。これだけの挙動で、メイザースは半歩下がった。しかし、怪物の武器を目にして呆気に取られる。
出てきたのはボロボロに崩れた片刃だった。ほとんど手入れされた気配が無く、峰に届きそうな程にまで削られたその不格好な有り様は、剣はおろかなまくらの方がまだ芸術品に見えるぐらいだ。
到底武器とは呼べない怪物の得物を見て、メイザースは嘲笑を抑えられなかった。
「ハハァー! 所詮は畜生か! そんなガラクタでなにができる! 魔力も武器もゴミカスで、頼れるのは獣人由来の運動能力だけ! 何をビクビクしてたんだか。この世は所詮、魔力が全てなんだよ! 驚かせやがって! この毛玉野郎がァーッ!!」
恐怖が怒りに転じたメイザースは杖を構えて魔法陣を展開し、ランタンの火を収束させて渾身の大火球を砲撃。膨大な炎熱の塊が一直線に走る。
見ていたクレイは「逃げて!」と叫ぶも、怪物はその場から微動だにせず立ち尽くしていた。
着弾の時が間近に迫るとクレイは目を背け、メイザースは嬉々として最期を期待し見届ける。
両名の予想は大きく外れた。
怪物は避けもせず、防ぎもせず、かといって喰らうこともなかった。
ただ断ち斬った。一刀両断という事象を、文字通りの意味で大火球に対し実行したのだ。
どう見てもガラクタでしかない貧弱そうな刀剣で、紙すら切れるかどうかも定かでない脆弱そうな白刃で、一息に斬り棄てた。そして別たれた二つの火炎の半球は、怪物の背後で消沈した。
「は······? 今、なにをした······?」
メイザースは目を丸くして、鼻水を垂らした間抜け面で訊ねた。クレイも同じ心境だった。
『魔力』とは、物理範疇を独立して共鳴する力である。その特定の波長を魔法陣を介して誘導することで魔術の基盤として用いる。また、この時に留意しなければならないのは、発動に至るまでの工程である。
『魔術』とは、魔力を用いて引き起こす人為現象の全てを差す。この時、大きく二つの行程が踏まれる。一つは術を発動させる際に生じる『作動反応』。もう一つが術をかける際に生じる『作用反応』。これらの一連の反応を総じて、『魔力による干渉影響』という。これを以て漸く、『魔術は発動した。』と言える。
加えて、魔力に対抗できるのは魔力のみ。ただし、出力、濃度、密度の個人差はある。
――――ゾハル・グリモワール著「神秘なる術式理論」より。――――
魔術の心得を持つ者ならば、誰もが知って然るべき常識であり、教科書にも採用されている八百ページに及ぶ書本の内容が二人の頭に過った。
とどのつまり、魔術は魔力があってこそ成り立つ。故に、差はあれど魔術でしか相殺する手段は存在し得ない。
しかし、怪物の一挙手一投足には微塵も魔力を孕んでいなかった。
なにも感じなかった。なにも感じられなかった。
常識が破綻した光景に、理解できず頭を抱えるメイザース。思考を放棄し、恐慌状態となって情けなく叫びながら滅茶苦茶に火球を放つ。
されど、怪物は先程と同様に悉くを振り払って、低く構えた。
「しゅぅぅぅ‥‥‥」
静かに息吹が流出する。地面に右足の爪先がめり込み、一歩後ろに同様の形で左足の爪先を立てる。
その姿勢は明らかに、肉食動物の迎撃体勢――――否。これは元より迎撃でも、反撃でも非ず。
正しくは“黒霧の怪物„ジンテツ・サクラコによる、蹂躙という名の雑草
そこに在るのは単純な殺意。
その目に写すは明確な害敵。
絶対に逃がしはしない。確実に仕留めてやる。
縄張りを侵す敵は、地の果てまで追ってでも苅り尽くす。
行き過ぎた殺意を刃に乗せて、怪物は駆け出した。振り掛かる火の粉を悉く斬り捨て、過激な動きに黒霧が軌跡を残す。
眼前まで来たところで、メイザースは最大出力の火炎を放射。ほとんどゼロ距離で防御も回避もできない。
火球の連弾は油断させるためのブラフ。気配を感じないが、刀は恐らくは魔剣の類いだ。
そういう道具であれば当人に魔力が無くても、先程の奇想天外な現象にも納得がいく。なればこそ、敢えて攻撃の間合いを提供して怪物の防御、回避へのルートを遮断して賭けに出た。
狙い通り、真正面から怪物に火炎を浴びせられた。
駆け引きに勝利した。と、メイザースは高らかに笑った。可能であれば五体満足で生け捕りにしたかったが、無理は通せない。
自身の命が掛かっている以上はやむを得なかった。最悪、ただ働きになることには目を瞑ろう。それよりも、最恐の怪物を下して生き残ったことの方が何十倍も嬉しい。黒煙の前に笑いが絶えない。
「やった······やったぞ······!!」
「オ゛イ?」
唐突に聞こえた。次には目の前に立ち込める黒煙から手が伸びて顔面を鷲掴みにされる。あまりの握力に顎が動かず、悲鳴すらあげられない。
離そうと必死に踠くが離れる気配が無い。
黒煙を振り払って出てきた怪物は、見るからに無傷だった。服装は焼け焦げていたが、身体には微々たる変化も見受けられない。
メイザースは反撃しようと魔法陣を展開するも、怪物はそれごと袈裟斬りに掛けた。術者の眼前には粉砕され光の塵となって霧散する魔力の残滓と、滞りなく刻み付けられた斜め一閃から噴き出す多量の血。
痛みは感じなかった。それどころではない更なる超異変に、意識の全てを持っていかれていた。
元来、魔法陣は意識せずとも盾にも成り得る高密度、高濃度の魔力の起点。これを破れるのもまた、魔力を伴う技能のみ。
しかし変わらず、怪物にその気色は皆無。この事から、クレイとメイザースは直感的に、決してありえない可能性を見出だした。
この生物に、『魔力による干渉影響』が全く起こっていないということ。
あり得ない。不朽不屈の条理が根底から覆される。
魔力に対抗できるのは魔力のみ。しかし、これは全ての事象に『魔力』という要素があることが前提で成り立つ概念。
奇しくも、ジンテツにはそれが当てはまらなかった。
魔力を微塵も持たない者に対して、魔力を伴う術が通用するのか。そんなシチュエーションなど儘ならなかった。――――現在に至るまでは······。
結論、――――ジンテツは『魔力を微塵も宿していない』が故に、魔術が
よって、あらゆる魔術は彼には無意味。同時に一年間も目撃証言が挙げられていながら、今の今まで誰にも接触されることなく暮らしてこれた。
正真正銘の、“反則„。
常識が跡形もなくぶち壊され、メイザースの涙に満ちた目の色は絶望の黒に染められていた。
わかっていても理解できない現実に、思考はやがて後から追い付いてきた激しい痛みに耐えかねて完全に停止し、身体は行動する意思を放棄する。
怪物は白目を向いて脱け殻のようになったメイザースを見て、ぶらぶらと揺らして様子を伺っている。
その背後から、辛うじて生きていたデリーが曲剣を振り被って奇襲をかけようとしていた。
「ウッぜぇなッ!」
怪物は察知していた。メイザースを投げ飛ばして、デリーにぶつける。
地を跳ねる二人の心臓が重なったところを一気に刺し貫き、燃え盛る火の森へと蹴り飛ばす。
こうして、ジンテツの苅りは終了した。
++++++++++
怒涛の展開にクレイは開いた口が塞がらなかった。眼前に広がる凄惨な光景に、どう向き合えばいいのかわからないでいるのだ。
森で相手取れば敵わない筈のゴートマンと、火炎を操る魔術師が、魔力を感じない野兎の手によって、今、意図も容易く始末された。
どうしたって、心の整理が追いつかない。
ただひたすらな暴力は、苛烈で、凶悪で、猟奇的。まるで宗教画のようなおどろおどろしい災禍の渦中で、鮮血にまみれた怪獣は神秘的な魅惑を秘めている。
クレイが胸に懐いていたのは、あろうことか無性の感動だった。目の前で起こったのは明らかに惨劇。であるというのに、危うい麗々しさに魅入られていた。
しかしすぐに我に返って、緩んだ顔を凛とさせる。まだ安心できない状況なのだ。
二人の
クレイは後回しにされただけのこと。優先していた敵二人を撃破したとなれば、後に怪物の目はカルスを抱える傷ついた妖精に向く。
この時、クレイ自身がどう写っているかなどまあまあ予想がつく。黒霧の怪物は途方の無い暴力の塊だ。それこそ、凶暴性だけならドラゴンをも凌ぐかもしれない。
挙げ句に魔術が通用しないともなれば、戦意なんて湧くわけもなく。かといって、素直に逃がしてくれる空気でもない。ワンチャン
、死んだフリが通用するのでは? と冗談交えに思い浮かべてみる。――――ダメだ。大人しく殺してくださいと言っているようなものだ。
試しに
カルスが先程、野兎がクレイに乱暴を働いた際に「敵じゃない」と必死な様子で訴えていた。あの言葉の効果が継続しているのなら、光明が見える。
「わ――――」
発言しようとしたが、次には口を塞がれ背に衝撃が走っていた。気づいたときには、怪物はクレイに股がっていて、切っ先を左目に突き付けていた。
下手に動かずじっとしていると、唸り声が近づいてくる。猛獣がじっくりと監察するように、くんくんと匂いを嗅いでくる。
このまま食べられてしまうのだろうか、とクレイは心臓が止まりそうな恐怖に苛まれる。
「お前、なんだ」
「え······?」
「お前は、なんだ?」
唸り声に混じって女性的な澄んだ声が聞こえた。その主が怪物だと知れると、クレイは顔を向き合わせる。
目と鼻の先にあるのは怪物の素顔。まるで絵画から出てきたような、偶像的な見惚れる程の美貌についうっとりとしてしまう。無意識に触れようと手が伸びる。
怪物は飛び退いた。唸りをあげて警戒している。
クレイは痛む身体を起き上がらせ、覚束無い足取りでゆっくりとゆっくりと歩み寄る。
関係無いとは言えない。この世界に生まれた瞬間から、誰しもが誰かしらに影響を与えている。
「私は、クレイ。この国の第二皇女、クレイ=ドゥージエム=フードゥルブリエ――――安心して。あなたの“味方„だよ」
微笑みを浮かべていい終えると同時に、黒霧が散って野兎が出てきた。倒れる身体をクレイが受け止め、ジンテツはそのまま彼女の胸を枕にして寝息を立てた。
そして、漆黒だった髪はみるみる内に純白へと変わった。
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