迷惑の森【ミュルクヴィズ】




「――――――――」


 誰かの呼び声に、シェリルの耳がぴくんと跳ねる。

 重い目蓋をゆっくり開くと、ぼやけていた視界が段々と鮮明さを取り戻していく。リングエルが涙を浮かべて必死に呼び掛けていた。


「シェリル! シェリル!」

「リン?」

「シェリルぅー! よかったぁー!!」


 シェリルの鼻面にリングエルが抱きつく。立て続けに頬摺りしてくる親友を、優しく掌に包んで迎え入れる。

 起き上がると、奇々怪々な景色が広がっていた。空は墨を蒔いたような漆黒に染まっていて、反対に地上は木々も地面も全て真っ白だ。

 色があるのは、シェリル達だけだ。


「ここは、一体······」

「漂流する領域、“迷惑の森ミュルクヴィズ„ですよ。グルトップさん」


 ヴァーグことヴェルゴーニャの声がして、武器を取って向く。だが、リングエルが急いで間に入ってきた。


「シェリル、待って!」

「リン!?」

「ティーヴァくんに戦う気は無いよ! サクラコくんと話し合って、この異常事態の解決に協力しようってことになったんだよ!」


 シェリルは不信感で一杯だった。親友リングエルの言葉を信じたいのは山々だが、後ろにいる狐は今さっき攻撃してきた敵だ。どうしても武器を手離せない。


「信じる信じないはきみ次第ですが、一つ事実を言わせていただきますと、きみは生きている。彼女も生きている。そして、彼も生きている」


 ヴェルゴーニャは横を指差した。その方に向くと、ジンテツが木から飛び降りてきた。


「お? 生きてたか、牝馬。おはよ」


 平然としていた。ヴェルゴーニャに向けていた敵意は、すっかり退いているようだ。


「わかった、信じよう。だが、もしも妙な真似をしたら――――」

「わかっていますって。どっち道、僕はとっくに詰んでいる。彼の前で粗相はできませんよ」


 ヴェルゴーニャは肩を竦めて、堂々と降参の意を公言した。

 納得がいかないながらも、シェリルは武器を収めた。そして、輪を組んで現状整理を開始した。


「ねえ、レーザーくんはいいの?」


 リングエルが疑問符を上げた。

 ピットは皆から離れたところに、膝を抱えて鎮座している。隣には、未だ意識が戻らないハウフィが寝かされている。


「いいんじゃない? あれじゃ使い物にならない」


 ジンテツがのんびり答えた。


「この状況にも、ほとんど反応してなかったし。それだけ気が滅入ってるんだ。ほっとけ」

「それよりもだ。ヴァーグ・ティーヴァ、貴様はここのことを知っている風だったな。詳しく聞かせて貰おうか」


 シェリルが急かし、全員が不適の笑みを浮かべる狐に注目する。


「ヴェルゴーニャで構いませんよ。こっちが本名なので――――“迷惑の森ミュルクヴィズ„とは、神出鬼没の遊泳する森林ですよ」

「森が泳ぐのか?」


 ジンテツが訊いた。


「泳ぐ、と言うよりは漂っていると言う方が的確でしょうか」


 ピット以外の全員が首を傾げた。


「簡単に言えば、現状、こことは別の異次元空間が接触している状態にあるんですよ。泡と泡が付着しあっているようなイメージですね。今僕達は、この世界という泡の外側から、別の泡に挟み込まれているんです」

「要するに、部分的な異世界転移ってやつか?」


 ジンテツがそうまとめると、ヴェルゴーニャは軽く頷いた。


「概ね、そういう認識で間違いありません」

「それでティ――――ヴェルゴーニャくん、私達は元の異次元に戻れるのでしょうか?」


 リングエルが不安げに、震えた声で訊ねた。


「あくまでも異次元同士のすれ違いに巻き込まれているだけです。時間が経てば戻りますよ」


 はあ、とリングエルは安心して緩やかに息を吐いた。


「それで? どうします?」

「どうって?」


 ヴェルゴーニャの質問にリングエルが訊き返す。


「まだ何かあるのか?」


 シェリルがそう続くと、ヴェルゴーニャの口角が上に向く。


「ここに生物はほとんどいません。言うて、いつ戻れるかも定かではないんです」

「水くらいはあるだろ」


 ジンテツが言った。


「まあ、それなら探せばあるかもしれませんが、今僕達にとって脅威となるのは食糧ではありません」


 ジンテツ以外、緊張していた。リングエルは固唾を飲んで、シェリルの頬には汗が流れていた。

 各々の反応を楽しむようにヴェルゴーニャは見回して、続ける。


「ここに生息しているのは、たった一体の生物。遅れましたが、僕はここに初めて来ました。だから、それの姿形を見たことはありません。ただ、伝承ではそれに遭ってしまえば終わりと記されていました。その名は――――臓物の魔獣“オーガン„」


 空気が緊迫する。各々、置かれた状況を再認識し、知らず知らずの内に心臓の鼓動が早くしていく。

 ヴェルゴーニャはその様子を、憂さ晴らしを終わらせたように爽やかな笑顔で眺めていた。ただ一人、ジンテツは終始平気そうにしてその場に寝そべった。


「要するに、そいつに出会さなきゃいい話でしょ? まとまったな。やることは一つ。オーガンに会わないで、戻るのを待つ、だ!」


 力強く言って、そのままジンテツはスヤスヤと寝息を立て始めた。


「まったく。どこまでも呆れた野兎だ」

「コラ、シェリル!」


 苦言を呈するシェリルに、リングエルが叱咤する。だが、不思議なことにシェリルは小さく笑みを溢していた。すぐに口元を隠したことで、気づいたものはいなかった。


「どうしたの? 口、怪我してるの?」

「いや、なんでもない」


 シェリルはジンテツに目を向けた。


「すー······すー······ほやぁ~······」


 ぐっすり寝ている。危機的状況に置かれながら、まるで彼だけ平和な空間を確立させていた。

 シェリルには、腑に落ちない点があった。

 先程のリングエルの言い分から、ジンテツとヴェルゴーニャは危機的状況下における一時的和解をしているのは事実。実際、二人の様子は険悪ではなくなっていた。

 ついさっきまで、殺し合っていたというのに。途轍もない変わり身の早さだ。


「リン」

「ん?」

「狐と野兎は話し合ったと言っていたな。どっちから、先に提案したんだ?」

「サクラコくんだよ。どうして?」


 シェリルの疑問が深まった。

 彼女から見て、ジンテツ・サクラコという野兎は馬鹿げた存在にしか見えなかった。身の程知らずの願望を掲げ、大それた口を叩きながらもその実、内容はほとんど何も無いに等しい。

 ただ生きている。それだけで何を語れるというのか。シェリルには到底理解できない考えだ。

 だが、妙に引っ掛かる。この引っ掛かっているものがなんなのか、考えるだけでムカムカして落ち着かない。

 シェリルは立ち上がった。


「どうしたの、シェリル?」


 リングエルが呼んだ。

 シェリルは背を向けて答えた。


「少し周辺を探ってくる。もしかしたら、私達の他にも巻き込まれたものがいるかもしれない」

「そうだね。私もついていく!」

「いや、リンはここに残れ。行き先で何があるかわからない。私は足が速いから、すぐに戻ってこれる」


 冷たく突き返され、リングエルは引き下がる。そして、シェリルが一人、モノクロのミスリル大森林を駆け回った。

 リングエルへの注意は、彼女の身の安全を確保するためでもあったが、本心は一人になる口実が欲しかっただけだ。リングエル・カラドリウスは、自分を常に第二に考える。

 第一は自分以外の周囲の者達。尊敬に値するが、彼女の総合的な能力を鑑みるととても賢明ではない。

 心配してくれたことは素直に嬉しい。だが、もしも守れなかったらと考えると、心臓を槍に貫かれた気持ちになる。

 次第に、周囲から油臭い匂いが漂ってきた。鼻を腕で覆い隠しても、肌に染み入るように匂いが割り込んでくる。より不快感が煽られる。


「惰弱な······」


 シェリルは後ろ足で木を蹴った。

 グルトップ家は、先祖が神を乗せた逸話を持っている由緒正しき、誇り高き血族だ。黄金の前髪は、炎のように揺蕩い、暗澹とした道を照らす神馬の証。

 故に、掲げられた家訓は――――『剛なる健脚を以て、光の如く先を往き、他の追随を赦すべからず。』

 即ち、何者よりも優秀であること。己の弱さを徹底的に廃棄し、誰にも追い付かれない程の強きを築くこと。

 守る側なのであって、守られる側などではない。どんな理由があろうと、決して守られてはならないのだ。

 それを、弱味につけこまれ、狐に化かされて背中を取られただけでなく、責めた相手に守られた。何もかも惰弱であったが故に、一生ものの恥をかいてしまった。

 ヴェルゴーニャが説明している間、シェリルはジンテツの顔を寸分も見れなかった。

 彼に取った態度を非礼とは思わない。――――だが、なぜだ。なぜここまで、何かをズルズルと引き摺っているような嫌な気分になるんだ?


「重い······」


 厳格な家庭、厳正な思想、厳然な現実。

 父も、母も、兄も、弟も、皆同じ。

 規律を重んじ、足並み揃えて、些細な乱れもなく行進する。最も尊重すべきは、先祖代々が築いた轍。

 それから外れることは決して赦されない。

 されど思う。――――シェリルをシェリル・グルトップ足らしめるのは、一体なんなんだ?


「なぜ、揺らぐんだ······クソ······」


 視界が歪む。腕を伸ばすと、二本にも、三本にも見える。心なしか、足元もぐらついてきた。

 目蓋が重くなって、沼にはまったようにずんずんと身体が沈んでいく。咄嗟に、近くにあった木に右手を押し当てて支える。

 そして、立ち込める油臭さと重圧感に耐えかねたシェリルは嘔吐した。同時に、突然前足が挫けて倒れる。

 なんとか首を上げて、目を前に向けると、屈強なケンタウロスが蔑んだ目で見下ろしていた。

 ゴールドブラウンの髪を波打たせ、剛毅な風格を放つこのケンタウロスはシェリルの父親だ。


「······」


 全身から力が抜ける。目の前の光景に圧倒され、不振に思う間も無く、シェリルの意識は父親の幻影に釘付けにされた。

 シェリルの父は、ただ見下ろしていた。冷徹で、鋭利な凄まじい眼力を孕んだ瞳で、依然害虫を見るかのような眼差しを向けている。この佇まいだけで、シェリルの前後の両足は岩石となり、動かなくなってしまう。

 兄弟に負けじとどんな成果を掲げようと、興味無さげに「そうか」の冷淡な一言で片付けられてしまう。

 そんな父が恐ろしかった。そんな父を目指したくなかった。

 なのに、シェリルは身を守る為に、認められたいが為に、自身で鞍を強く引き締め、弱さを隠そうとした。

 それまでリングエルと培った友情はそのままに、それ以外を無益と排する冷血になったフリをし続けた。

 リングエルと衝突することがあっても、彼女と接しているときだけは、家訓を忘れて自身の在るが儘を取り戻しているような気分で、幸福感に満ちていた。

 一方で、虚しいと打ちのめされるときもある。どうやっても、自分一人では自分を立たせられないのだから。


「見抜かれて、いたのですね······」


 あの時だけではない。

 ずっと前から弱かった。

 何一つ、変わってなどいない。

 父の顔色を伺って、

 母には鞭を打たれて、

 兄弟達に嘲られて、

 普通の女の子から離されて、

 友達をいつも悩ませて、

 それでも家の教えを守って、守って、守って、守って、守って、守って、守って、守り続けて――――

 

「何の為に、我慢してきたんだ······!」


 我慢――――そう意識したとき、シェリルは目を下にやった。父の顔を見れなくなったのだ。見透かされているのだから、どう取り繕おうと無駄な運動でしかない。


「父上。どうやら私は、あなたのもとに生まれてはならなかったようです。多大な恥をかいてしまい、大変申し訳ありません」


 シェリルはランスを取り出した。逆手に持ち、左手も添えて腹に矛先を向ける。

 天を仰ぎ見て、目蓋を閉じる。

 ふと、リングエルの顔が浮かんだが、シェリルは何も抱かず、ぎゅっとランスの柄を強く握って振り翳し、貫こうと振り下ろす。

 ――――――――が、阻止された。

 気づいたときには、シェリルの体は横に押し倒されていた。これによって意識が回帰して、地に落ち着いたところで押された方向に目を向けた。

 青い鱗をクリーム色の鎧に包んだリザードマン、フェリヌスだ。


「しっかりしろ! シェリル・グルトップ!!」


 フェリヌスが鬼気迫る勢いでシェリルに声をかけた。そこでようやく、現状を理解する。

 先程まで膝をつけていたところの目前には、肥太った芋虫のような真っ赤な物体があった。

 シェリルを丸飲みできる程に大きく、ぶよぶよしていて、黄色い粘液が絶えず流れている。まるで臓物が動いているようで、とても気色が悪い。


 動く、臓物······?


 まさか、とシェリルはヴェルゴーニャの説明を思い出した。

 迷惑の森ミュルクヴィズに棲息するたった一つの生命体――――臓物の魔獣オーガン。

 見た目と名前の同一性からそれと判断した。


「まさか、やつが······」

「話は、奴を倒した後だ! グルトップ、立てるか!」

「はい!」


 シェリルは立ち上がった。

 フェリヌスは湾曲した片刃の剣を左右に一つずつ、魔法陣から取り出した。真っ赤な芋虫は、鎌首を持ち上げてフェリヌスへ一直線に向かってきた。

 先端が八つに割れ、輪状のいくつもの牙が顕になって体力の黄色い粘液が漏出する。


「【伝播する斬響ウェイブレッド】!」


 フェリヌスは剣を逆手に持って詠唱した。剣先からなぞるように、魔法陣が通う。

 魔術の仕込みが終了して、フェリヌスは真っ赤な芋虫に向けて走り、横を通り際に回転しながら剣を振るった。芋虫の動きが段々と弱々しくなり、最後はバラバラに細かく切り分けられて散らばった。


「刃の斬撃を増やし、一振りで十回切り刻んだ。どうやら、再生能力は無いようだな」


 芋虫の死体を警戒しながら、フェリヌスはシェリルのもとに駆け寄る。


「お前を見かけたとき、この怪物もいたんだ。危うく喰われそうになっていたんだぞ。気づかなかったのか?」


 まったく気がつかなかった。

 シェリルはオーガンが用いる魔術に惑わされた、とすぐに推察した。同時に、それに気づかず術中に嵌められたことにも死にたいと思う程の羞恥を抱いた。


「また、私は······」

「今はじっとしている暇はない。行くぞ、シェリル・グルトップ」


 シェリルは持っていたランスを魔法陣に収納して、フェリヌスの後に続いた。


「シェリル、他の生徒の居場所はわかるか?」

「はい。私のパーティは、全員います。他は、わかりません」

「そうか、無事なら良かった。まずは皆のところに案内してくれるか?」

「はい」



 ++++++++++



 合流したフェリヌスは、パーティの様子を見回し、一先ず安堵のため息を漏らした。しかしながら、いくつか疑問も生じて、それについて一つ一つ解消していく。

 この現象に見回れてからの経緯。

 猿の獣人ヴァナラハウフィ・アッルマリーハが気絶している理由。

 ヴェルゴーニャの正体とピットが通じていたこと。

 この場が迷惑の森ミュルクヴィズとなっていること。

 一度に濃厚な情報量を聞かされたフェリヌスは、頭を抱えて悩ましくしていた。一つ一つ確認するようにぶつぶつと呟きながら事情を整理し、頭から手を離す。

 大きく溜め息を吐いて、ジンテツ達に顔を向ける。


「まずは、皆無事なようで安心した。――――と、言いたいところだが、残念ながら、試験開始前から色々と不備があったようだな。本当に残念なことだ」


 フェリヌスの声から、感嘆が込められているのは明白だった。当然だと、全員が思った。

 ヴェルゴーニャが非合法の冒険者であり、フェリヌス達世間一般的な冒険者からすれば野良魔物クリーチャーと変わり無い認識だからだ。

 当の本人は詳細を話さず、ただ「こちらも仕事で赴いている。試験を妨害するつもりはありませんでした」としか言わなかった。その際に、横になっているジンテツに目を向けているのが、尚更怪しく見えた。


「それで、ヴァーグ・ティーヴァ――――いや、ヴェルゴーニャ・テウメッサ。お前の話を信じていいならば、ここから出るまでは協力体勢を敷く、ということで理解に違いないな?」


 訝しげにフェリヌスが訊ねた。


「ええ。それで構いません。とは言っても、この状況を打開できればよいのですが」


 ヴェルゴーニャの意見にフェリヌスは頷き、考えた。

 話を聞いた限り、シェリルと遭遇した真っ赤な芋虫、仮に臓物の魔獣と称されるそれと接触していない。今のところ一体しか確認されていないが、もしかしたら複数いるかもしれない。

 このまま留まっていた方が安全かもしれないが、しかし他二つのパーティに懸念が行く。

 それぞれを監督しているビル・ヒューキ、スヴァル・ストライクは自分よりも優秀だ。二人共、フェリヌスと同様の行動を執っている筈。

 特に、スヴァルはクレイに並ぶ実力を持っている。控えめに言って、フェリヌスより強い。

 そうなると、スタート位置の距離感から、まずは一番近いビルのパーティと合流しようと思案した。

 臓物の魔獣に関しては伏せておくことにした。余計なパニックを起こしたくないと思っての配慮だ。


「取り敢えず、ここから移動しよう。他のパーティも既に何かしら行動に出ている筈だ。リングエル、空から何か見えないか見てきてくれないか?」

「わかりました!」


 言われた通り、木々の枝を掻い潜って見に行くと、一方にキラキラと光る棒状のものが天高く聳えていた。急いで戻り、そのことをフェリヌスに話す。


「南東方面六キロ地点に、光る塔のような物体がありました!」

「成る程。それは恐らくスヴァルの出した氷の結界だ。一先ずはそこを目的地としよう。途中でビルのパーティとも合流できる筈だ。早速行こう」


 フェリヌスに異論を唱えるものはいなかった。リングエルがジンテツを起こして、早速パーティは移動を開始する。

 幸いにも、臓物の魔獣に出くわす事態にならず、フェリヌスが先頭になって順調に進んでいる。最後尾には、シェリルがいた。

 フェリヌスと来てから、彼女はずっと浮かない様子でいる。リングエルはそれがずっと気になっていた。

 シェリルの名を呼ぶと、顔をそらして向いてくれず、余計にいたたまれなくなる。そうしてまた、ジンテツの頭の上に留まった。


「ねえ、シェリルの様子がおかしいと思うのですけど、サクラコくんにはどう見えます?」

「ん? 別に、あんまり変わってないと思うけど」

「でも、なんだか思い詰めてるみたいで」

「ふ~ん」


 ジンテツは無関心な様子でいる。

 侮辱されたことにまだ根に持っているのか、と不安になりながらも、彼の態度からはそんな気配を感じられずいまいち心境が測れない。

 シェリルが何かに悩んでいることは確実だ。親友であるリングエルに話してくれないのなら、ジンテツにも話さないだろうと詮索を諦める。ただ、別の不安が湧く。

 それは、フェリヌスの様子だ。正直、彼女と合流できたのはリングエルにとって心安らぐことだった。

 実質上、パーティは停滞していたため、どう動けばいいのか鮮明でなかった。こうして、ようやく行動を起こせたことは嬉しく思っているが、先頭を行くフェリヌスからは強い警戒心を感じるのが気掛かりでならない。

 何かあったのかもしれない。シェリルと合流したタイミングで、何かしら非常な事態に。


「そんな暗い顔するなよ。リングエルに似合わないぜ」

「サクラコくん······」

「なんかあったところで、その時いなかった俺達になにができる? 取り敢えず、そっとしてればいいんだよ」


 辛辣な物言いだと、リングエルは反論しそうになった。だが、ジンテツの言っていることは正論で、後の祭りでしかないのも事実。口を出す余地は無かったのだと、リングエルは辛さを懐にしまうことにした。

 考えるだけで、疲れてきている。


「――――と、言いたいところだけど。なんか油臭いんだよな」


 ジンテツは周囲を見回した。茂みの中を覗き込むように目を凝らし、木々の上を仰ぎ見ていた。薄く漂ってくる不快な匂いで、鼻と眉間にシワができる。

 匂いの発生源がわからず、待機に混ざり込んでくるかのように出てくるため、余計に苛々が増す。吸うと微々ながら気分が悪くなるわ、手足の感覚が時折鈍くなるわで、ジンテツはこの油臭さに異様な違和感を覚えた。

 それはヴェルゴーニャも同じことで、胃がもたれる感覚がしていた。気づいたときには既にそうなっていて、意識すると何者かの視線も感じる。

 確信に至るのは、ジンテツとヴェルゴーニャが早かった。それぞれ、パーティの様子を見て異変がより如実に表れていると警戒心を強める。

 状況と感覚の経験則から、二人共に現状にただならない危機感を懐いた。いつでも迎撃できるように、腰の刀に、懐のダガーに手を掛ける。

 その矢先、「クソッ!!」とジンテツが早くに動き出す。

 ハウフィを背負うピットを、腕を伸ばして後ろから強く押した。同時に、ジンテツは横から来た何かに弾き飛ばされ、木に背中を打って地に落ちた。


「サクラコくん!?」


 リングエルの叫びで、パーティ全員の意識が明確になる。先頭のフェリヌスは後ろを向き、最後尾のシェリルも顔をジンテツの方へ向けた。

 次にヴェルゴーニャが動いて、ジンテツを攻撃した何かと向かい合った。彼の前にいたのは、触手だ。木にぶら下がって、蛇のようにうねる真っ赤な芋虫。

 これを見て、瞬時に襲撃者の正体が判明した。


臓物の魔獣オーガンだッ!!」


 ヴェルゴーニャの声が届いて、フェリヌスとシェリルも武器を持って迎撃態勢を取った。

 真っ赤な芋虫は落ちて、鎌首を持ち上げた。まるで食事の献立を選ぶように、一人一人を見て狙いを定めた。リングエルだ。

 芋虫は醜悪な口を開けて、突撃した。ヴェルゴーニャのダガーを掠めながらも、止まらずにリングエル目掛けて突っ込む。だが、シェリルが盾で防いで、ランスで貫いて木に打ち付けた。

 芋虫はパチパチと体表の油を撒き散らしながら踠き苦しんで、動きが鈍くなり、止まった。そして、ダラッと溶けていった。


「シェリル、ありがとー!」


 リングエルはシェリルの顔に抱きついた。頬に頭をスリスリと擦り付けて、シェリルがくすぐったそうにする。


「リン、無事?」

「うん、平気。それより、サクラコくんが」


 リングエルがジンテツの方に向いてシェリルも続くとと、彼は平然とした様子で戻ってきた。


「いってぇ~」

「だ、大丈夫? かなり強く飛ばされてましたけど!」

「いてぇけど、それ以外あらへんかな」


 澄ました顔で答えたジンテツが信じられず、リングエルは魔法陣から紫色の小さな小瓶を取り出した。


「背中、見せてください」

「え?」

「強く打ったでしょ? だから、見せてください。これ塗って痛みを和らげますから」


 リングエルに詰め寄られて、ジンテツは背を反らした。

 確かに痛みはある。だが気にする程度のものではない。いずれ痛みを忘れる。

 だが、何を言おうとリングエルは止まらない性格。どこぞの頭お花畑の妖精姫と同じタイプであるために、これは押し切られるとして観念した。

 処置が済んだところで、フェリヌスから声が上がる。


「すまない! 私が警戒を怠った所為だ!」


 フェリヌスはジンテツに、頭を深く下げた。


「いいんだよ。取り敢えず、生きてるから。で、狐、さっきの奴が?」

「ええ。オーガンで間違いないでしょう。見た目の気色悪さから言って、まるで名前の通りでした」


 ヴェルゴーニャが言った後、その後ろから一瞥しているピットと目があったジンテツは、彼に歩み寄った。


「いきなり突き飛ばしちゃったけど、怪我は無い?」

「あ、ああ······」


 ピットは震えた声で返した。


「別に、狐と通じていたからなんなんだ?」

「······ッ?!」

「俺はな、気に食わないものだったらシバいてやるさ。だけど、それ以外が何しようと興味は無いよ。俺に実害があるか無いかは、お前達の思うところと別でしょ」


 ジンテツは何となく察していた。ピットはハウフィ、エイミー、キッテルセンとつるんでいるにしてはいい奴だと。だから、余程の事情が無ければいけすかない狐に協力しない。

 ピットの人柄から考えて、恐らくは家族等の親しい間柄にある人物を出汁に使われたか。

 正直にそれでピットが何をしたのか興味こそあれど、詮索するほどのものではないと判断し、糾弾せずに容赦したのだ。

 ジンテツにとって、今一番に気に食わないのはヴェルゴーニャ――――だった。しかし、それ以上の優先的害悪の存在を感知して、腰の得物を鞘から解いた。


「取り敢えずよォ、あいつぶっ殺すぞ」


 予感が的中し、突然パキッ、パキッ、と周囲の木々が次々に割れて中から大小バラバラな真っ赤な芋虫が這い出てきた。

 それらは一つの意思に従うように、一斉に動き出し、パーティを襲う真似をせずに一ヶ所に、ジンテツに向き合う位置に集中していく。やがて重なり合い、溶け合って、ぶくぶくと膨張と収縮を繰り返して、巨大な一つの恰幅のいい人型と成った。

 大きさは目秤で五メートルある巨人の子供程度。顔とおぼしき瘤には目も、鼻も、口も耳もなく、それ故に芋虫単体だったときよりも一層不気味に写る。

 体表からは絶えず黄色い粘液が流れ落ち、濃密な油の悪臭が濃くなった。


「これが、臓物の魔獣オーガンの全容ですか」

「――――左様」


 ヴェルゴーニャの一言に、不気味な声が答えた。頭の中でこだまするような、不快を覚える声だった。

 主は目の前の肉の巨人だ。


「オ前タチ、食物ノ語ル臓物ノ魔獣トハ、イカニモコノ私ノコトダ」

「総員、戦闘態勢を取れ! リングエル、ピットはハウフィを連れて後方うしろに回れ! こいつは必ず、私達で倒すぞ!」


 フェリヌスが叫んだ。

 本来ならば、即座に逃亡を選択するのが常套。だが、それは真っ赤な芋虫によって多勢に無勢を強いられたときだ。今、それらは一つの対象となって目の前に具象化した。

 懸念すべき点は残っているが、数も戦力も勝っている。フェリヌスはそう考え、戦闘を選んだ。パーティ全員も、逃げるより戦った方がいいと同意して構える。


「愚カダナ。食物ゴトキガ、コノ私ニ牙ヲ向ケルカ」

「くぅ······」


 フェリヌスの目が険しく、オーガンを睨む。


「毎度毎度、ゴ苦労ナコトダ。自ラ私ニヨリ良イ栄養ヲ与エルタメニ、活力ヲ引キ出シテ旨味ヲ上ゲテクレルノダカラ。オ前タチハツクヅク、滑稽ダ。ダガ、誇レルコトダゾ? ソコラノ牛ヤ馬トハ違イ、オ前タチノヨウナ食物ハ、肉ガ引キ締マッテテ、骨モ硬ク丈夫デ、ソノ上、魔力ガ豊富ダ」


 オーガンの声を聞く度に、フェリヌス達は一つの事実を段々と浮かび上がらせられていた。

 最初はただの緊張。次には怯え。そして、オーガンが言葉を連ねる度に刻々とその意識が飲み込んでいく。

 武器を持つ手が震え、息が荒くなって意識が揺らぐ。


「オ前タチハ食物、ソシテ私ハオ前タチヲ喰ラウ者。オ前タチハ既ニ、食卓ニ置カレタ皿ノ上ナノダ」


 ――――捕食されることへの、際限無い恐怖。

 これが武器を持つ手を震えさせ、息を荒くさせているものの正体だ。どうしようもない生存本能が、心身に多大な負荷をかけている。

 絶対的な捕食者を前にして、フェリヌス、シェリル、ヴェルゴーニャ、ピット、リングエル、そして気絶しているハウフィまでもが反応し、誰一人として反抗心を削がれている。それどころか、恐怖に支配され、武器を持つ手の力が、体が弱くなっていった。

 ――――――――たった一羽を除いては。

 オーガンの無防備な腹に、突如として横一線の閃きが駆けていった。赤い軌跡を残し、そこからプシャ、と鮮血が流れ落ちる。


「ホーウ、ヤハリ、オ前カ······野兎」


 オーガンが見下ろしたそこには、次の攻撃をしようと深く構えるジンテツがいた。急速に得物を振り上げ、オーガンの腹をさらに抉り斬ろうと悪辣な一閃を入れにいく。しかし、変形して避けられる。

 オーガンは距離を取った。


「解センナ。私ノ体臭ヲ嗅イダ食物ハ、ドレダケ強イ精神ノ持チ主デアロウト、疲労感ヲ覚エ、私ノコノ姿ヲ見ルコトデ、疲労ハ喰ワレル恐レニ転ジル。ソシテ、ヤガテハ受ケ入レ、被食ニ徹スル。コレガ条理ダ。ダガ、オ前ハドウダ?」


 ジンテツは刀を肩に置いて、鋭い瞳孔で睨み付ける。


「オ前ハマルデ違ウ。私ノ食卓ニ来テ、匂イモタクサン嗅イダダロウ。ソノ筈ナノニ、ナゼオ前ハソンナ目デ私ヲ見ル? 大変、不快ダ。本能的ニ、不快デナラナイ」


 ジンテツは耳をほじってから、つまらなそうにしてオーガンに歩み寄る。黒い瞳に写る害敵は、彼にとってそうとしか見えていない。そこに精神の変動は皆無だ。

 オーガンに不快感を与えたのは、ジンテツをジンテツ足らしめるそもそもの根底、ここ迷惑の森ミュルクヴィズに最も不相応な性質にある。それは、喰われることへの恐れとは全く違った、別の本能だ。


「そうだ。今日の昼飯、お前に決ーめた」

「············ハ?」


 ジンテツがオーガンを指さして言い、オーガンは呆気にとられる。


「さっきからペチャクチャペチャクチャ。喧しいんだよね。聞いてたら腹減ってきたよ。どうしてくれんの? あぁ? 今朝はパンを二枚し喰ってないから、ぐぅーぐぅーぐぅーぐぅー、もう堪えられへん」


 オーガンは、ジンテツが何を言っているのかわからなかった。喰われることへの恐れどころか、全然平気でいる。平然と、不平不満を喋っている。


「これだけ肉があれば、試験が終わったときの打ち明けにパーって使えそうだな。最近、料理ってやつをやり初めて、案外大したことないってわかったからさ、次はお前でなんか作ってやるよ。ケケケ」


 途端にうきうきな様子になった。

 マサカ、とオーガンは予感した。


「野兎、オ前、ヨモヤ私ヲ喰ラオウナドト、世迷言ヲ唱エテイルワケデハナイダロウナ?」

「あ――――?」


 ジンテツは眉をひそめた。肩から刀を離して、両手で持ち直す。


「だからどうしたよ、“„」


 オーガンは、無い目を見開かせた。


「さっきからお前、俺達を喰うとかなんとか言ってるけどさ、なに決めつけてやがんのかな? 喰われるのはお前の方なんだよ。お前が、俺の飯になって喰われるんだよ! つーか、お前口無いのにどうやって喋ってるの?」


 驚くべきは、これがふざけているわけでも、あまりの恐怖で正気を失って出た自棄糞な戯言でもないということだった。ジンテツが口にした一言一句、全てに至るまで、本気なのだ。

 オーガンは、不思議な気分になった。初めてのことだ、戸惑わずにいられなかった。


「カツテ、コレホドマデ啖呵ヲ切ル食物ガ、アッタダロウカ」


 オーガンは両腕を上げて、振り回してジンテツへ向けて伸ばした。木々を薙ぎ倒しながら、野兎挟み込む。

 ジンテツは姿勢を低くして避けつつ、白鞘を振るってオーガンの両腕を両断した。そして、間髪入れずに駆け出す。

 直前まで来たところで腕の下から飛び上がり、勢いよく白鞘を振り下ろす。だが、オーガンののっぺら坊な顔が表面に渦を巻いて、一本の腕を突き出した。

 ジンテツは咄嗟に刀で受け止め、受け身をとって着地した。


「結構、めんどクセェだな」


 静かに言いながら、次の手に打って出る。薙ぎ倒された木々を飛び伝って翻弄する。

 オーガンは身体中から腕を発生させ、胴体を目一杯捻っては解き放ち、無慈悲な暴虐を撒き散らした。

 無秩序に振り回されしなる腕もそうだが、腕に凪ぎ払われる木の破片もこれによって凶器に変貌する。

 しかしジンテツは、障害物を軽やかに回避。それだけでなく、空中に飛び出して、「せーのっ」と回転しながらオーガンの腕を斬り崩した。本体のところまで来て、体を強く捻り回して右腕を断ち切った。


「グヌゥ······」


 短い悲鳴が、オーガンの口から漏れ出る。続けて、ジンテツは足の腱を斬りつけて動きを封じ、反撃に転じられる前にもう片方の腕を切り離す。そして腹に刃を刺し込んで、そのまま頭部まで持っていった。

 オーガンの悲鳴は高らかに聞き苦しいものとなって暴れるも、ジンテツは最後に首を斬り飛ばして仕留めた。

 首を失ったオーガンの体は、後ろへドン、と重い音をあげて倒れた。


「ラッキー、これで飯代が浮いたな」


 オーガンの死体を背に、小さくガッツポーズをするジンテツを見て、フェリヌス達は呆然としていた。

 先程までの驚異が、拍子抜けするほど容易く、たった数分の内に倒されてしまった。

 最早、彼女達からジンテツに対する驚きからオーガンへの恐れは一切無い。むしろ、返ってきた彼にどう接すればいいのかわからなくなっていた。

 一番驚いていたのは、フェリヌスだった。彼女の冒険者経験から、ここまで動きが軽かったのは久しぶりだ。

 化け物を相手に『食材』と呼び捨て、さらには強がりでも自惚れでもなく、確かな実力をもって斬り伏せた。

 とんでもない逸材だと、フェリヌスは大いに期待を膨らませた。

 ヴェルゴーニャと言えば、どこか残念な風だった。手っ取り早く黒霧の怪物になってくれれば、どさくさに紛れて逃げられたかもしれないと思ったからだ。

 だが、精神的にその暇は生まれず、それどころかジンテツは素の状態で倒してしまった。これはこれでと、ある意味で貴重な情報を得られたからよしとした。

 シェリルはジンテツの闘いに見入っていた。埃同然だと思っていた奴隷兎に対して、あってはならない情動が彼女の胸中で生まれつつある。それに自覚するまでに、刻一刻と迫る勢いとなっている。

 ピットもまた、ジンテツの強さに開いた口が塞がらなかった。自分の近くに、これ程の猛者が混ざっていたのかと、一際接し方がわからなくなっていた。

 リングエルはというと、真っ先にジンテツのもとへ怪我が無いか診にいった。小さな手羽で体のあちこちを触り、状態を確認している。

 ジンテツは、リングエルが煩わしいと思いながらも、無料で食糧をゲットできたことに上機嫌になっていた。同時に、オーガンの首を斬った際に、不可解な感触に疑問符をあげていた。





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