第55話 気持ちに寄り添う
部屋中から、驚きが波のように押し寄せてくるのを肌で感じる。
ハッと息を飲んだお兄様、ポカンとしたセビー。タチアナ母様は少し心配そうに眉を寄せ、ユーゴは「エフル卿の孫?」と呟いた。
本音を言ってしまうと、脊髄反射でお断りしようと思ったのよ。
だってさっき男爵は、『縁談の相手はわたしではない』と言っていた。ということは、少なくとも私に別の縁談があるのはほぼ確実で、会ったこともない祖父が私を利用しようとしているんだって考えたから。
でもとっさに口を閉じたのは、男爵の芝居がかった仕草が私だけに向けられたものではないのを感じたからだ。
(ああ。本当は、かなり怒ってらっしゃったんですね)
サロメが蒼白になっているのは、ここへ来るまでに相当、私やアンヌマリー母様の悪口を男爵に吹き込んでいたからに違いない。
私の母は、勘当されてまで一途に愛を貫いたお姫様だった。そのお姫様を、「卑しい」だの「男をたぶらかす」だの言われたら怒るわよね。うん、私以上にショックだったかもしれない。
――そんな風に思ったのだ。
(そっか。男爵は、私よりもアンヌマリー母様をよく知っている人なんだわ……)
だから母の恩人のために、少しだけ口を閉じた。
丁寧に一礼した男爵が顔をあげる。でも私の表情が通常運転だったせいか、彼は少し意外だと言うような顔をした。
「おや、驚かれないのですね?」
「いいえ。十分に驚いてます」
男爵の言い方に、母親の正体を知っていたのかというニュアンスを聞き取り、私はゆっくり首を振って否定する。
知っているわけがない。ほんと、まさかだったもの。
それでも予想していたことで心の準備がいくらかできていたことと、感情が面に出ない質だからから、見た目だけでも落ち着いていられるのだ。
これでもし昨日ピピさんから、偶然昔の話を聞いてなかったら、さすがに動揺を隠せなかったと思うわ。
(ピピさん。逆サンドリヨンだったご令嬢は、私のお母様だったみたいです)
それでも心の中では遠い目で、ここにはいないピピさんに語り掛けてしまう。
アンヌマリーお母様の存在は、勘当と共に、オーディアではいなかったものとして扱われているらしいとピピさんは言っていた。ある程度以上の年の人なら覚えているかもしれないけれど、あえて話すことはないだろうって。
ピピさんが教えてくれたのは、昔話であるのと、ここがフッルムだからだ。それでも名前を伏せるくらいには、気を使って話してたんだと今は分かる。
「そうなのですね」
ちょっと懐かしそうに目を細めた男爵は、そのままなぜか、私の隣にいるユーゴを見る。真面目な表情のはずなのに、目だけはなぜか面白そうにきらめいたのを私は見逃さなかった。
ううん、なぜかではないわね。実際面白がってるのかもしれないわ。
(ああ。よりにもよって!)
本音を言ってしまうなら、今すぐ両手に顔をうずめて叫んでしまいたかった。
男爵がお父様のもとに送り届けたご令嬢が逆サンドリヨンと言われたのは、彼女が伯爵令嬢という地位を捨てたからだけではない。令嬢が当時、オーディアの王太子殿下の妃候補と言われていたからだ。
(ううっ、そんな人が自分の母親だなんて思うわけないわよぉ。絶対想像もしないってば)
王子様、それも王太子殿下よ? つまり現王陛下のお妃候補って何?
つまりアンヌマリー母様は、ユーゴのお父様を振って私のお父様を選んだわけで。そんな女性の娘の隣に、陛下の息子であるユーゴがいる。
これが昔話やおとぎ話なら、ロマンティックに語る自信があるけれど、当事者としてはそれどころではない。
多分、ユーゴはよく分かってないんじゃないかと思う。
国王陛下や王妃様だって、わざわざ息子にはこんなこと話さないわよね。
タチアナ母様を見ると、どうやら彼女はすべて承知だったらしい。特に驚いた風でもなく、どうするかは私に任せると言っているみたいに感じる。
(やっぱり私のお母様は、タチアナ母様なのよね)
もちろん、産んでくれたアンヌマリー母様も大事に思ってる。小さい頃みたいなこだわりもなく、私には二人の母親がいるって素直に思えるのは、タチアナ母様のおかげなのだろう。
だから私はこっそり深呼吸をして、自分のことはいったん横に置き、男爵の気持ちに寄り添うことにした。
「この休暇を利用してガイドのバイトをしているんですけど、昨日偶然、エイファン様のお話を聞いたんです」
「ほお? わたしの話ですか?」
「ええ。とある伯爵令嬢の駆け落ちを助けてくれた騎士様だって。まさかお目にかかれるとは思ってませんでしたわ」
お母様の肖像画の印象をなぞるよう、ちょっと勝気めに笑って見せると、男爵は孫でも見るような目をしてにっこりと笑った。
「あのころのお母上にそっくりだ」
それは、短い人生でも幸せだったのだと確信するような声で、私は目の奥がじわっと熱くなる。
「男爵とアンヌマリー母様は、どのようなご関係だったのか聞いても?」
「もちろん。アンヌマリー様の兄君がわたしの乳兄弟でね。彼女はわたしにとって妹も同然の女の子だったのですよ」
「そうだったのですね」
兄弟と仲が良く、お転婆だったというお母様の話にタチアナ母様の目が輝くので、ついクスッと笑ってしまう。
石のように身動きしなかったサロメが、どんどん紙のように白くなっていくのを横目で見ると、男爵も釣られたように彼女に視線を向ける。するとはじかれたように立ち上がったサロメは、スカートのしわをなでるようにせわしなく手を動かし、口の中でもごもごと何かつぶやいた。
「あ、あの、馬車が、待ってるので、私、行かないと」
どうにかそれだけ言ったサロメが、救いを求めるように兄を見る。でも兄は軽く肩をすくめて「お父上からは、身一つでいいと言われている。そのまま出ていきなさい」と、冷たく言い放った。
彼女の財産は、散在してきたものの一部にしかならないけれど、それでもないよりはましだと。
いつもだったら食って掛かるところだろうに、サロメはまるで肉食獣を前にしたうさぎのように震えながらコクコクと頷き、うつむいたままそそくさと出ていこうとした。
(結局、一言も謝らなかったわね)
そう思った瞬間、ユーゴがサロメの腕をつかんで引き戻し、強い口調で何かささやいた。
「えっ、あっ……」
ハクハクと口を開け閉めするサロメが、ギクシャクと私の方を見る。
「あ、ロ、ロクサーヌ」
「はい」
「っ……」
せわしなく目を泳がせながら、口にしようとしたのは謝罪の言葉かもしれない。でも心が伴ってないからか、プライドのせいか、それ以上言えないサロメに私は大きく首を振った。
「何も言わなくて結構です。むしろ謝罪はお兄様へ」
私にとって彼女は、ずっと怖かった人だ。
愛してほしかったなんてバカだったなって思う。
でも可愛がってほしかった。仲良くしたかった。
最初にそう思った気持ちは本当だったのよ。
だから恨みも悲しみも、全部ここで捨てよう。
「さようなら、おねえさま」
何も価値がないことを聞く時間がもったいないから。
ユーゴを見ると、彼は軽く頷いてサロメをはなす。立ち去る元姉の姿を見ないよう、ぎゅっと目を閉じると、少し離れたところからサロメが叫ぶ声が聞こえた。
「あんたはやっぱり疫病神よ! でもあんたの母親は馬の骨じゃなかったわ! それだけは訂正する!」
「!」
(うーん、これは、サロメ流のごめんなさいと受け取るべきかしら)
ユーゴが瞬間的に怒りをあらわにしたものだから、思わず吹き出しそうになってしまった。
「何笑ってるんだよ、ロクサーヌ」
「ふふ。ユーゴが怒ってくれたから、なんだかどうでもよくなっちゃった」
追いかけようかというユーゴを止め、心から晴れ晴れした気持ちで彼に笑いかける。
「二度と会わない人だもん」
それにお兄様も同意するように頷いてくれたし、男爵も気が済んだように見えるから。
(さ、話の続きをしなくちゃいけないわね)
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