第48話 長年染みついた習慣は恐ろしい

 兄が頭を下げている。

 それはあまりにも予想外の出来事で、私はひゅっと息を飲んだ。

 サロメが私に意地悪だった理由にも呆然(いや、愕然?)としたけれど、私に無関心だと思っていたお兄様が私に謝ったなんて。しかもサロメの仕打ちを知っていたなんて!


(な、な、何で知ってるのっ? いつから知ってたの?)


 それがいつだったかは分からないけれど、兄に見られていたなんてまったく気づかなかった。

 だって家では家族にはバレないように必死だったんだもの。使用人にも硬く口止めしていたのに。


 傍から見れば、私の我慢は愚かで見栄っ張りにしか思われないと思う。でも、それでもいいから、兄嫁に嫌われているなんて家族には知られたくなかった。サロメが表向きそう見せているような、可愛がられている妹だって思っていてほしかったのだ。

 この休みに実家に帰らなかったのだって、婚約破棄で傷心中の私に、サロメが縁談を持ってくるのが原因で喧嘩したと、継母たちは思ってくれていたはず。


 なのに兄にはバレていた。

 今ので継母たちにもバレてしまった。

 そのことが、兄の謝罪やサロメの話以上にショックだった。


 そんな状態だったからだろう。サロメがハッとしたように勢いよく立ち上がり、

「ジャン、あなた何か勘違いしてるんだわ。私は姉として、最低限のしつけをしたに過ぎないもの! 私たち仲良しよね、ロキシー」

 そう叫んだとき、私は条件反射で同意しそうになってしまった。

 はじめて愛称で呼ばれたにもかかわらず、いつものように、さも当たり前だと言う風に振舞おうとしてしまったのだ。


 でもそんな私の背を、ユーゴが叱るようになだめるように二度叩く。

 ハッとして彼を見ると、不機嫌そうに眉を寄せるユーゴが目に入った。そのまま小さく首を振ったユーゴがあまりにも私の知ってるユーゴで、一瞬自分が学園にいるような気分になり、ポカンとした。


(私、今、何をしようとしていた?)


 ユーゴは学園で普段そうだったように、一見すると怒ってるようにも見えるし、周りがおびえて逃げそうなほどの冷気も漂わせている。でも私を見る目には心配するような色が、間違いなくあった。

 そこには思いやりと、自惚れかもしれないけれど私を守ろうとしてくれているような力を感じ、強張っていた肩から力が抜ける。


(危なかった。ユーゴがいなかったら私、またギヨームと婚約していたころの私に戻るところだったわ)


 魔法をかけられる前の自分になんて戻りたくない。

 ユーゴの目に映る私はもう、長い髪をきつく編んだ地味なロクサーヌじゃないのだから。

 シルヴィア様の素敵なドレスを着せてもらい、セビーにヘアメイクしてもらった私は、今まで生きてきた中で今日が一番綺麗だって胸を張れる。


 たかが学園の友人でしかない私のために、彼が恋人のふりをしてくれているのはなぜ?

 ずっと親密な距離を保って、私のことを大切だと思ってるみたいに振舞ってくれているのはなぜ?


(そんなの、私をサロメや縁談から守ってくれるためでしょう)


 なのに、長年の習慣でサロメの思惑通り動こうとするなんて! 私のバカ。本当にバカ。


「ごめんユーゴ。ありがとう」


 そう囁きながらユーゴに感謝の笑みを向けると、彼がふっと優しく目元を緩める。こんな時なのにそれがすごく嬉しくて愛しくて、ドキンと大きく高鳴った心臓の鼓動が、まだ背中に当てられている彼の手に伝わってないよう祈った。

 今なら、ユーゴに恋をしてしまったことを面に出しても、彼は演技だと受け取ってくれるだろう。むしろ都合がいいくらいのはず。

 でもそうすることはやっぱり恥ずかしくて、慌ててまつげを伏せて深呼吸する。そして一瞬で気持ちを切り替えた私は、精一杯の笑顔をサロメに向けた。


「いいえ、お姉様。あなたと仲が良かったことなんて一度もなかったわ」

「なっ、何を言うのロキシー」


 まさか反論されるとは思わなかったらしい。

 今までで一番顔色が悪くなったサロメに、私は笑顔を消して半眼になった。


「ロキシーなんて、今まで一度も呼んだことがない癖に……。私はあなたがずっと怖かった。ギヨームまでけしかけて、ダメな子だって、駄作だって言われるのも嫌だった。お父様に申し訳なかったから。

ご飯を食べさせてもらえないのもつらかったわ。何を、どんなに努力しても頑張っても、全部ぜーんぶ! 台無しにするあなたが怖くて、だ、だ、大嫌いだった。

そうよ。サロメなんて大っ嫌いよ! わ、私のお母様は絶対卑しくないし、私だって駄作なんかじゃない!」


 ずっと言えなかったことを、つっかえながらも一気に言ったせいか、私の目からいつの間にか涙がこぼれていた。


 つらかった。こわかった。

 でもとうとう言った。言ってしまった。


「誤解よ。タチアナ様、これは誤解です。ジャンも。ああ、セバスチャンならわかってくれるでしょう?」


 下手くそな笑みで周りを味方につけようとするサロメに、セビーたちが冷たい視線を向ける。

 再びユーゴからハンカチを借りて目元を押さえると、ふわっと彼の胸に引き寄せられた。


「頑張ったな」


 耳元で囁かれ、素直に「うん」と頷く。

 そのまま彼の背に手をまわし、額を胸に押し付けた。

 彼の服を汚してしまうかもとか、みんなが見てるのにとか少しだけ考えたけど、今は自分の気持ちだけを優先した。後悔したくなかったから、今だけは許されると信じて。

 初恋の相手が王子様だなんて運が悪いわよね。


 ユーゴは一瞬強張った後、労わるように私の背をポンポンと叩いてくれるから、少し甘えてスリッと頬ずりしてみる。


(ありがとう。大好き)


 口に出せない気持ちを心の中で告白してから顔をあげると、まだ騒いでいるサロメにユーゴが冷たい視線を向けた。


「見苦しいな」


 決して大きくないのによく通るユーゴの声。

 サロメが息を飲んでとっさに目線をそらす。学園でよく見ていた光景だ。


「ロクサーヌが、おまえごときに躾を受けるだと? 冗談だろう。彼女は賢く努力家で、尊敬に値する女性だ。勘違いも甚だしい。母親に何を吹き込まれたのか知らないが、おまえには目がないのか」


 怒りのこもった静かなユーゴの声に、また目頭が熱くなる。


「赤い髪も綺麗だったけどな」


 そう言ったユーゴに一筋髪をすくわれ、私は熱くなった頬を隠すようにうつむいて、彼の話を聞いた。


「赤い髪が不吉だなんて迷信もいいところだ。そんなの元々、フッルムの商売の神であるビジが、オーディアの幸運の女神キャリに懸想し、あげくフラれたところからきてるだけなんだからな。くだらないにもほどがある。むしろオーディアでは赤みがかった髪は幸運の印だ」


「え、そうなの?」


 突然出てきた話の真偽が分からずポカンとする私に、ユーゴが呆れたような顔をした。


「知らなかったのか?」

「神話は知ってるけど……」


 まさか、不幸の意味がそんな理由だなんて想像もしてなかった。そんな理由で、私はサロメやギヨームの母親から嫌味を言われ続けてたの?


「なにそれ。くだらなーい」


 セビーとニーナが同時に言ったけど、二人の言うとおりだ。

 本当に心底くだらない。商売において縁起を担ぐのは知っていても、だ。

 そして手元の書類から顔をあげたタチアナ母様が、「本当に」と呟く。兄たちの離婚証明書にサインが終わったらしく、兄が確認して懐にしまいなおす。


 当事者の同意抜きで離婚が進められるのは、相応の理由がないと無理だということが、まだサロメには理解できていないらしい。兄から離婚証明書を奪い取れなかったサロメが、お前のせいだとでも言うようにユーゴを睨みつけた。

 もっとも、それくらいでユーゴが動じるはずもないんだけど。


 サロメはまたもや相手にならないと判断したのか、今度はタチアナ母様に同情を誘うように哀れな顔をして見せたけど、継母は冷たい顔でにっこり笑った。


「私ね、アンヌマリー様の大ファンなの」


 その一言にサロメが訳が分からないと言う顔をする。


「そ、そんなわけ」

「そんなわけ、あるのよ? 謎の女だなんて、とても素敵じゃない。――実際には、素性を隠していただけなのにね。サロメさん。あなたのお母様の言動には目をつむって来たわ。もう亡くなっている方の悪口を言う気もありません。でもあなたは違う。ユーゴさんが言うように、まさかその頭や目は飾りなの? あなたを尊重し、耐えてきたジャンやロクサーヌに、よくもまあそんな態度が取れたものね。出ていきなさい」


 有無を言わさない彼女の声に、サロメは周りを睨みつけた後、大股で部屋から出ていった。

 継母がかすかに震えているのは、怒っているからなのかもしれない。

 ばたんと大きな音を立ててドアが閉まると、兄が一瞬眉を寄せたあと、カギを閉めるので驚いた。


「多分戻ってくる。――実は今、例の男爵が来ているんだ」


 少し言いにくそうにそう言った兄の前で、思わずびくりと震えた。でもお兄様は安心させるように微笑む。


「どうしてここが分かったのか、ましてやなぜ突然訪ねてきたのか、わたしも知らない。でもロクサーヌを無理やり嫁がせるようなことはないから安心しなさい」

「でも……」


 サロメが持ってきた話とはいえ、家にメリットがあるから兄が許可したのだろうと思っている私に、兄は「縁談は口実だろう」と言った。


 その男性が、オーディアから私に会いに来るための口実だろうと。

 意味は分からないけれど、今のうちに成人式を終わらせてしまおうと言う兄に、私以外のみんなが一斉に動いた。状況的に出ていけなくなってしまったニーナも、立会人の一人になる。

 セビーが微かに頬を染めたけど、ニーナは全くそれに気づかず、私のほうへ「嬉しい」と笑顔を向けた。


「私ね、お兄様しかいないから、女の子の成人式を見るのは初めてなの」


 ニーナの目がキラキラする後ろでタチアナ母様が肩を揺らし、セビーがそっぽを向く。張り詰めた空気がフワンと緩んだ。

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