第45話 認めたくなかった気持ち

 お兄様と仲がいいわけなじゃない。かといって悪いわけでもない。

 私にずっと無関心なのが淋しかったけれど、年の離れた兄妹だもの。特に珍しいことではない。末っ子のセビーにだって、お兄様が特段甘いわけではなかったし。


 でもサロメの残酷な笑みが、今もまた私の胸の奥を切り裂く。

 私の大嫌いな、獲物を追い詰めた猛獣のような微笑み。


 それはいつもだったら二人の時――少なくとも家族の前ではしない顔で。だからこそ、彼女が言ったことは真実なのだと直感した。

 私がこの家族の中で異端だったのだと。


「ロクサーヌ」


 私にだけ聞こえるような声でユーゴに呼ばれ、膝に置いた私の手を彼の大きな手が包み込んだ。

 かすかに首をかしげるようにして私を見るユーゴの目に温かさを感じ、不思議と自分を絡めとろうとしていた何かがほどけるのを感じた。次いで彼が微かに肩をすくめ、私にだけ見えるようニヤッと笑うので、思わず吹き出しそうになる。


(ああ、そうか。これもくだらないこと、なのよね?)


 これが事実でもそうでなくても、私が気に病むようなことではないのだ。

 ユーゴに手を握られたままサロメを見れば、彼女は意地悪な顔をした小柄な女性でしかない。そのことに気づき、私は小さく息を飲んだ。


(どうしてこの人がこんなに怖かったのだろう)


 たしかに抵抗はできなかった。子どもだったし、私が抵抗することで、使用人や他の家族に被害が行くのが嫌だったから。

 お兄様の妻は平民でも裕福な商家の娘で、お父様が亡くなった後は、残された借金もかなり助けてもらっているという負い目もあったから。

 私だけ我慢すれば、平和だって知っていたから。


(でも違う)


 それとこれは別問題。

 私が彼女に虐げられる理由なんて、どこにもない。


 一瞬のうちにそう考えた私がユーゴに小さく笑い返すと、私の手を握る力がほんの少し強くなり、彼の笑みが「そうだ」と言うように深まった。


(……ああ。好き)


 認めたくなかった気持ちを心の中で言葉にしてしまい、私はそれをぐっとかみしめた。

 可愛く見えて仕方がなかったのは、この笑顔が好きだから。

 出会って以来、どんなに塩対応でも腹が立っても、ユーゴを嫌いになったことなんて一度もなかった。

 だって知っていたもの。

 私を信じてくれる。私を守ろうとしてくれる。それでいて、最後には絶対背中を押してくれる。そんなユーゴが好き。――大好き、だったんだ。


 今までは恋ではなかった。

 でも恋になってしまった。したくなかったのに。してはいけなかったのに。

 分かっているのに、泣きたいほどの愛しさで胸がいっぱいになる。


(でもいい。この気持ちは否定したくないもの)


 唯一誇れた家柄もないのなら、初恋くらいは誇っていたいでしょう?

 叶わない恋をするなんて、あまりにも私らしいじゃない。


 それでも魔法の時間はまだ終わっていないから、今だけ全力で恋人のふりに乗っかってみようと思った。この手のぬくもりも温かい眼差しも、今だけは私のもの。最初で最後の夢を味わいつくそうって決意した。

 でもあなたは気づかないでね。私だけが知っていればいいことだから。

 感情が面に出ない質でよかったわ。



 それは、サロメの驚きの発言からほんの数秒。

 色々な感情がわっと綯交ないまぜになったけれど、おかげで驚く程落ち着いた私は、口の端をほんの少し上げて背筋を伸ばした。

 慎重に周りを見てみれば、お兄様は少しだけ青褪めながらも不快そうに唇をゆがめ、タチアナ母様はそれを心配そうに見ている。


「お兄様、お義姉ねえ様がおっしゃったことは本当ですか?」


 本当だったんだと確信したまま、それでもなんでもないことのように尋ねてみる。

 でも兄が口を開く前に、優雅な仕草でティーカップを傾けたサロメが、何かに気づいたように小さく「ああ」と声をあげた。


「これは持参金替わり、でしたのね」


 得心が言ったと言うように私の手元を見たサロメは、まだ私の手を覆っているユーゴの手を見て小さく鼻を鳴らした。


「ロクサーヌ。縁談の話は断れないわよ? この家のために役に立つことですもの。せめてそれくらいの役には立たないと。ユーゴさんでしたっけ。親切なのは十分理解できましたわ。愚妹に寄り添ってくださってありがとう。いい友人を持ったわね、ロクサーヌ」


 優しげな声で私に笑いかけるサロメにユーゴが何か言おうとした瞬間、お兄様が「はっ」と吐き捨てるような声を出した。


「いい加減にしろ、サロメ。うんざりだ」


 地の底を這うような兄の声に、私は瞬きをする。

 立ち上がりかけたユーゴが座り直すと、兄の方がガバッと立ち上がった。その握った拳が震えていて、兄が本気で怒っていることに唖然とする。それはサロメも同じだったようで、今度は本気で怯えたような目で兄を見上げていた。


「ジャン。さっきから変よ。いったいどうしたの?」

「変? ああ、そうかもな。ロクサーヌと俺の血がつながってない? そんなのこと誰から聞いた?」


 優し気にも聞こえる兄の冷たい声に、サロメが唇を震わせる。


「それは、お母様が……」

「お母様? ああ。君の母君か。そんなことだろうと思ってたよ」


 そのとき、張り詰めた空気を壊すようにセビーが口を開いた。


「でもぉ、お兄様とお姉様、目が似てるわよね?」


 心底呆れたという声を出したセビーが同意を求めるようにタチアナ母様を見ると、彼女は同意するように頷いた。その横でニーナもコクコクと頷く。

 それを見た私がユーゴを見ると、彼も同意するように頷いた。


「そうなの?」

「笑うと似てるなって思ってた」

「初めて言われたわ」


 本気で驚く私に、兄がクスッと笑うのが聞こえた。


「いや、小さい頃はよく言われてたぞ」


 兄の言葉にタチアナ母様が、「その通りよ」ときっぱり言ったことで、サロメが落ち着かなげに目を泳がせる。


「でも。そんな。だって……」


 味方が一人もいないと感じたらしいサロメが、落ち着かなげにスカートを握りしめる。でも戸惑いが怒りに変わったのか、キッと顔をあげて私を睨みつけた。


「ロクサーヌの母親は卑しい女なのでしょう。お義父とう様の温情でガウラ家で子供を産ませてもらったどこぞの馬の骨だって聞いたわ! かばわなくたっていいのよ。あの赤毛、今は染めたのかもしれないけど、不運の象徴を持つ女を家に置くなんて不吉でしょう!」


 一気に早口でまくし立てたサロメが、肩で息をしながら呪詛のように言葉を吐き続ける。


 それらは数年前に亡くなったサロメの母親が彼女に教えたこと。

 サロメの一族にとって、赤毛は商売における不運の象徴であること。

 私たちの父親が亡くなったのはそのせいで、大きな借金が残ったのも同じだと。

 ――そう、本気で言っている。


「ロクサーヌが早くガウラの家から消えない限り、不幸は今後も連鎖していくのよ。わかったでしょう。他国とはいえ男爵なんて身分、あんたにはもったいないくらいだけどね! それともそれ以上の男でも見つけてくる?」


 チラッとユーゴに流したサロメの視線は、軽蔑と憐憫、そして誘惑するような色気が複雑に絡み合い、唇が「ニセモノのくせに」と動く。私は怒りと気持ち悪さで全身が震えた。


(サロメはユーゴを偽物だと思ってるんだ。友達のいないロクサーヌが連れてきた、友達役をしてくれる卑しい身分の男だって)


 それはユーゴを馬鹿にし、同時にロクサーヌより自分につけと語っている。


 でも私とユーゴが口を開く前に、お兄様が突然大きな声で笑い出した。


「傑作だ。サロメ。よくもまあ」


 涙さえ浮かべたお兄様が目元を拭うと、人差し指を立て「ひとつ」と言った。


「ひとつ。父の温情を受けたのはわたしだ。病で両親を亡くしたわたしを、ガウラの父と母が実の子として引き取ってくれた」

「まさか」


 そう言ったのはサロメだけど、同じことを心の中で私も言った。


「事実だ。ただし他人ではない。わたしの母は、ガウラの父の姉だからな。ロクサーヌとセバスチャンは、正確にはわたしのイトコだ」

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