第44話 今日のお兄様
(私を産んだお母様から?)
驚いて目を瞬きタチアナ母様を見てみると、彼女も知らなかったらしい。
「アンヌマリー様から? まあ、素敵」
ワクワクした様子のタチアナ母様の隣で、セビーやニーナも驚きつつも楽しそうな顔で小箱に注目している。サロメも穏やかな笑顔を浮かべているけれど、さっき一瞬だけ驚いたような顔をしていたから、彼女も知らなかったらしい。
反応に困った私が小箱を見たまま動かないでいると、お兄様が小箱の留め具を外して蓋を開けた。
「ピアス、ですか?」
中に納まっていたのは三組のピアスだった。
ひとつは小ぶりながらも美しい紅玉のシンプルなピアス。ひとつはアンティーク風の金のピアス。それからもうひとつは、華やかなデザインの白金とダイヤのピアス。
この三点だけで、どんなシーンでも困らない。そんな心遣いを感じるピアスに、私は胸がいっぱいになってしばらく声が出なかった。
「お兄様……。本当にこれ、お母様が?」
喘ぐようにして尋ねた私に、お兄様が微笑んで頷いた。
(うそ。お兄様が笑った!)
私に笑顔を見せるなんて何年ぶりだろう。
もちろん兄が普段笑わないわけではない。真面目で物静かだけど、私以外の人には笑いかけるし、冗談だって言う。
でも私との間には見えない大きな壁があって、たとえ笑ったとしても私から目をそらしたり、すぐに失敗したみたいな顔で笑いをおさめるかのどちらかだった。なのに今は微笑んだまま、目もそらさず私を見ている。ちゃんと私を見ている。
「ああ、そうだ。みんな、おまえが生まれる前から準備していたものだよ。紅玉は誕生を祝うために。白金は成人の祝い用に。そして金のピアスは、アンヌマリー母様の母親。つまりおまえのお祖母様のものだそうだ」
兄の説明に息もできないまま、じっと箱の中を見つめ続ける。手を伸ばすと消えてしまうのではないかと怖かったのだ。ピアスも、そしてお兄様の笑顔も。
「嬉しくないかい?」
「まさか!」
少し顔を曇らせたお兄様に、私はあわててかぶりを振る。少しためらいつつも、隣にいるユーゴの優しい目に励まされ、私はおずおずと箱を手に伸ばした。
「まさか、そんなはずがありません。思いもかけない贈り物に、……胸がいっぱいなんです」
そっと箱を取り上げるとタチアナ母様が目元を拭ってるのが見え、これは現実なんだと改めて胸がいっぱいになる。でもそこでサロメが悩まし気にため息をつくのが聞こえ、胸の奥にひやりとした風が吹いた。
「ジャン。あなたってば、本当に優しいのね」
お兄様にしなだれかかるようにして、いかにも感心したというような目で兄を見上げるサロメに、当の兄は怪訝そうな顔をする。
「優しい? わたしがか?」
「ええ、もちろん」
私に視線を向けたサロメは、いつものように優しい姉の顔でにっこりと笑った。
「かわいい妹のために、こんなに素敵なものを用意したんですもの。ね?」
それは明らかに、『あなたがロクサーヌの母親の代わりにしたことだと分かってるわ』と言っていた。ロクサーヌの母親がそんなことをするわけないだろうと。
その隠しきれない毒をお兄様も感じたのか、珍しく不快そうに鼻にしわを寄せる。
「意味がよく分からないな。これは十八年前、ロクサーヌがまだ生まれる前に用意されたものだぞ」
「じゃあ、あなたのお父様が偉大なのね。素晴らしいわ」
今度は満面の笑み。
サロメはお父様を尊敬していると言っていたから、こちらは本心なのだろう。
私がまつげを伏せると、ユーゴが小さく「ロクサーヌ」と呼び、少しだけ身を寄せてくる。その熱が伝わる温度に思いもかけず慰められ、浮かび上がりかけた失望を飲み下して微笑んだ。
(誰が用意してくれたのだとしてもいいじゃない? この贈り物に私は、たしかに愛を感じたのだから)
いつもなら、このあたりでサロメが兄を連れて立ち去るか、私に何か用を言いつけて追い出すところだ。今日のサロメは珍しく淑女のふりがうまく出来ていないから、何かイライラしているのかもしれない。
そんなことを考えていると、パシッと小さな音がした。兄がサロメの手を振り払ったようだ。
「そうだな。父は偉大だった。母も」
そう言い切った兄に、サロメが戸惑った顔をする。そうすると彼女はいかにもか弱い女性に見えるのだけれど、兄はそんな彼女を冷たく一瞥した。
「ジャン、怒ってるの?」
「怒る? まさか。ただおまえの言っていることの意味が分からないだけだ。なぜロクサーヌの祝いの品に、おまえが不満そうなんだ?」
兄の言っていることはまさに私の感じたことそのもので。でもまさか兄が自分の妻にそんなことを言うなんて思ってもみなくて、正直ぽかんとした。
(今日のお兄様はどうしたの?)
言葉にできない違和感に、セビーも怪訝な顔をしている。
なぜかニーナが苦笑していて、タチアナ母様は小さく首をかしげている。ユーゴはと見ると、彼はじっと観察をするように兄たちを見ていた。
「不満だなんてそんなこと」
「いや。不満なんだろう? あのピアスはロクサーヌにはもったいない。むしろ私が欲しいわといったところか?」
「なっ」
「お兄様。言い過ぎですわ」
かつて見たこともない兄の静かな怒りに、私は思わず止めに入った。
サロメをかばいたくはないけれど、なんとなく嫌な予感がして私は小箱の蓋を閉じて手のひらで包み膝の上に置いた。
サロメが屈辱といった表情で私を睨む。
「ええ、思ってるわよ。悪い? あんな高価なもの、ロクサーヌの母親なんかが用意できるわけないじゃない」
家族や客の前にもかかわらず、意地の悪い笑みでそう言い切ったサロメに、タチアナ母様が「どういうこと?」と低い声で聞いた。
「タチアナ様はご存じですよね。ロクサーヌとジャンは血がつながっていないって」
「えっ?」
サロメの言葉に頭を強くゆすぶられたように、ぐらっとショックが駆け巡る。
(お兄様と私が他人?)
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