第38話 ユーゴが怒るようなことではない

 ユーゴに引っ張り出された私は、目の前の光景が予想外過ぎて大きく瞬きをした。

 てっきり伯爵夫妻が部屋でくつろいでいると思っていたのに、リビングであるはずのそこは、今や臨時の執務室と言った雰囲気だったのだ。


 柔らかな色合いの大きなテーブルには書類らしきものが広がり、伯爵が書類をめくる横には、何か報告をしていたらしい細身の男性が立っている。他にも人がいるらしい気配があり、何やら慌ただしい。メイドらしき女性がシビラ様についてなかったら、ホテルのスイートではなく、職場を訪問したのかと思うくらいだ。


(お忍び旅行のはずなのに、何かあったのかしら?)


 ユーゴも意外に思ったらしい。くるっと部屋を見回して不思議そうな顔をした。

 彼がこっそり教えてくれたところによると、細身の男性は伯爵家の人間だけど、一緒に来たわけではないとのこと。やっぱりそうよね?


「ブルーノが仕事を持って追いかけてきましたか、叔父上」


 からかうような口調ながらも、私の前でユーゴがはっきりと伯爵を叔父呼びした。そのことで、素の姿だった伯爵夫妻は状況を察したらしい。二人は平然としたまま、ユーゴに先を促すような視線を向けた。


「ロクサーヌ。これがお忍び旅行ということで、俺たちが偽名を使っていたのは知っていると思う。見ての通り彼らは俺の両親ではなく、叔父と叔母なんだ。変装が上手だろう?」


 自慢げなユーゴが十歳以上若返って見える伯爵夫妻を手で示すと、二人がいたずらっぽい笑顔を見せる。


「叔父がフォルカーで、叔母がシルヴィア。俺の偽名は叔父の名前だったんだよ」


 慣れない名前だと叔母がうっかり間違えるからだと説明してくれたけれど、馬車でも何度か間違えていたことは聞かなかったことにして、少し強張ったままにっこりと笑った。

 本物のフォルカー様が、共犯者めいた顔で茶目っ気交じりに笑いかけてくれたけれど、残念ながら緊張は全然ほぐれない。


(ぜったい、どうして私がここにいるんだろうって思ってますよね? 私もそう思うもの!)


 でも私を連れてきた当のユーゴは気にすることもなく、夕食は私の家に招かれたと話した。うん、誤解を招く言い方だと思うわ。


「デート初日で家族に紹介か。展開が早いな、お前」

「事情があるのですよ。ちなみに普段と違い過ぎて気づくのが遅れましたが、実は彼女は俺の同級生で、本名はロクサーヌ。招いてくれたのは彼女の弟です。盛装で来てくれと」


 そう言っていたずらっぽく笑ったユーゴは、やはり同じようにいたずらっぽい顔をしたシルヴィア様のほうへ顔を向けた。


「叔母上。彼女の支度をお願いしてもいいですか?」

「えっ、私はこのままでいいわよ」


 予想外のことに慌てるも、ユーゴは眉を寄せて首を振った。


「だめだね。俺が、君を不細工呼ばわりした女に一泡吹かせたいんだよ」


 よっぽどうちに来た時のサロメが不愉快だったのね。でも不細工呼ばわりなんて日常茶飯事だったし、ユーゴが怒るようなことではない。――そう言おうとしたのに、部屋の中の時間が一瞬止まった雰囲気になって戸惑った。


「だれが、不細工、ですって? ねえ、クララ。ここにはそんな人は、一人も見当たらないわよね?」

「はい、奥様」


 へっ? シルヴィア様が怒ってる?

 今朝みたいな可愛いプンスコじゃなくて、笑顔なのに後ろに何か見えそうなほど怒ってるみたいなんだけど。え、なぜ?


「ええ、叔母上。同意します。なのに彼女の兄の妻が、ロクサーヌを日常的に侮辱してたそうなんですよ。先日この耳で、聞くに堪えない侮蔑の言葉を聞いたので間違いないです」


「ユーゴが直接聞いた? —―ということは、あなたが休みになってすぐ家に行ったのはロキシーさん、いえ、ロクサーヌさんのところだったのね?」


「はい。彼女、例のひどい婚約破棄をされたでしてね。よかったらオーディアに来ないかと誘いに行ったのですよ」


「あら? そうだったの。それはいいわね」


 えっと、ユーゴの説明はあってたわよね。

 恋をしている相手は私ではないって、誤解は解けてるわよね?

 シルヴィア様の視線が生ぬるいけど、勘違いしてませんよね?

 というか、あの婚約破棄の話を家族にしていたのね。恥ずかしい。


 地面に埋まりたいような気持ちで、口をはさめずオロオロしていると、シルヴィア様が大輪の薔薇のように美しく微笑んだ。


「いいわ。任せて」

「いえ、そんな結構です」

「遠慮は無用よ。腕が鳴るわ! パーティーね!」

「ただの夕食ですし」


 セビーが、人数が増えてもいいようバイキング形式にするって言ってたから、なおさらだ。ユーゴ、お姫様に何やらせようとしてるのよぉ。


「あ、叔母上。ロクサーヌのヘアメイクを生かす形でお願いします。それは彼女の弟が手掛けたので」


「まあ素敵。才能ある弟さんね」


「はい!」


(そうなんです。可愛くて才能にあふれた弟なんです)


 セビーが褒められて、思わず満面の笑みになってしまう。


 その時だ。すぐ手前の部屋から見知った顔が現れた。


「あれ、君。どうしてここに?」


 少し驚いたような顔で私を見たのはオリス。

 それほど顔立ちが整っているわけではないけれど、快活な表情と言動で雰囲気がかっこよく、女子からはすごく人気がある男の子の一人。一年生の時から付き合っているナディヤという恋人がいて、二人の仲睦まじさも評判だ。


 いつもユーゴと一緒にいた男子だけど、ユーゴも驚いた顔をしているから、どうしてここにはお互い様っぽい。


 そのオリスがユーゴの姿を見てから私に、さりげなく「普段通り接しても大丈夫?」と口の動きだけで尋ねる。彼のとっさの判断に感謝しつつ私が小さく頷くと、オリスは人懐こい笑みを浮かべた。


「もしかしてガイドのロキシーって君だったのかい、ロクサーヌ」


 一目で私がロクサーヌだと気づいたことにユーゴが目を丸くするけれど、オリスは気にする様子もなく伯爵に笑いかけた。


「フォルカー様、例の彼女ですよ」


 その一言ですべてが通じたらしい伯爵が、ニヤリと笑う。

 これは婚約破棄以外にも何か噂をされていたということ?

 え、まさか。ユーゴを叱ることもあったとか、そんな話?


「そうか。君がユーゴが一度も成績を抜けなかった子、だね?」


(ああ、そんな話をするんだ)


 ちょっと新鮮に思いつつ黙って微笑むと、ユーゴが不機嫌そうに口を開いた。


「オリス。なんでロクサーヌだってわかったんだ? 前にも彼女に会ってたのか?」


「えっ? わかるでしょ、普通。可愛い子がさらに可愛くなってるんだし。いいね、その髪型。綺麗な目が引き立っててすごく似合ってる。ナディヤも今の君を見たら喜ぶと思うな」


 さらっと可愛いと言われたことに苦笑しつつ、オリスに「ありがとう」と頷いた。オリスの可愛いは、ナディヤ以外は犬猫や赤ちゃんを見たときのそれと同じような、ある種の挨拶みたいなものだ。私が言われたのは初めてだけど、周りの子は漏れなく言われていたもの。


(でも前にも、ナディヤと二人で私の目を褒めてくれたのよね)


 重い前髪で隠さない方がいいと言ってくれていたのもナディヤだったし、社交辞令ではなく本当に気にかけてくれていたのかもしれない。

 そう思うと見知った顔を見たこともあってか、緊張が少しとけた。


「あのさ、ロクサーヌ。なんでユーゴが拗ねてるの?」


 不思議そうなオリスに、ますますユーゴの機嫌が悪くなるので笑いがこみ上げてくる。


「たぶん、オリスが一目で私だと気づいて悔しいんじゃないかしら。この姿で一昨日から会ってるんだけど、私だってことに気づいたのは今朝らしいの」

「ああ、それで」


「わかるわけないだろ。学園にいる時と全然違うし」


 しかもユーゴがもごもごと、「さらに可愛くなったのは認めるけど」などと付け足すので、お世辞合戦はいらないわぁと、ますます落ち着いてしまった。

 次いで呆れたようにオリスがくるっと目をまわす。


「むしろ、ロクサーヌの方がユーゴに驚いたと思うけどね。だろ?」


 いたずらっぽいオリスのウィンクににっこりと笑い返し、「本当に」と頷く。たぶん彼は、最初からユーゴだと見破っていたことに気づいてるんだろうな。


「そうなのよ。あまりにも美男子過ぎて、普段のユーゴが恋しかったわ」


 頬に手を当ててしみじみとそんなことを言ってのけると、オリスも伯爵も面白そうに笑ってくれたんだけど、ユーゴは複雑そうな目で思い切り顔をしかめ、何やら考え込んでいたシルヴィア様がぱっと顔を輝かせた。


(甥が褒められて嬉しいんですね。すごくわかります)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る