第35話 間違ってはいない

 洞窟から明るい日差しの下に戻ってくると、無意識にこわばっていた肩からホッと力が抜けた。ここに入るのは一回に一組だけってルールがあるから誰か待ってるかもと思ったけれど、今は他にお客様はいないらしい。


 さあ、このまま昼食を食べに行こうと提案しようとしてユーゴを振り返り、顔を見た瞬間ギョッとする。彼の唇にうっすら口紅がついていたのだ。――つまり、私のつけていたものが!


(いやぁぁぁぁ!)


「ご、ごめんなさい。ユーゴ」


 あわててバッグから自分のハンカチを取り出す。彼のは私が涙を拭うのに使ってしまったから、新しいものを買って返そうと思っていたのよね。さっきも借りずに自分のものを使えばよかったと思うけど、後の祭りだ。


「なにを」


 突然口元に手をのばされて驚いたユーゴが赤くなるけれど、多分私の方が真っ赤だと思う。


 今の今まで我慢していたのに!

 なんでもない顔を続けて平気なふりしてたのに!

 私たちがさっき何をしたのかを、ありありと意識してしまった。


「あの、口紅が、ね……」


 もごもごと言い訳するように呟いて、急いで彼の唇を拭う。メイクをした状態でキスをするなんて初めてで。しかも相手はユーゴで。

 あああ、もう、何をどう考えたらいいのかもわからないわ。


「あ、いや、うん……」


 やっぱりもごもご何か言うユーゴは、太陽の下で見れば驚く程の美男子で。でも今は、ユーゴはユーゴにしか見えなくて。なのに、このがっちりした腕の間に挟まれて口づけをされただなんて、誰か嘘だと言ってほしい。


(ああっ! 心臓が破裂しそう!)


「もう。ルールなんて無視してよかったのよ?」


 汚れたハンカチを手の中でもみくちゃにしながら俯いてぼやくと、ユーゴが片腕をあげるのが目の端に映る。どうやら頭を掻くか何かしているようだ。


「あのさ、ロクサーヌ。そのルールって、なに?」

「え、と、だから、その……デートの時はキスをするもの……なんでしょう? 私相手に、律儀にしなくてよかったのにって言ってるのよ」


 後半はもう蚊の鳴くような声になってしまった為、ユーゴが声をよく聞こうと身を寄せてきた。おかげできちんと聞こえたらしい彼が、なぜか重たい息を吐く。


(そりゃそうだって思ってるのよね)


「君はこの先、他の誰ともデートはしない方がいいと思うな」

「うっ。もうしないもの。さっきそう決めたし」


 余計なお世話よ。言われなくてもそのつもり。


「いや、そうじゃなくて。――んー、誰にそう吹き込まれたのかを考えると腹が立つけど」


(吹き込まれた? というか腹立つって何?)


「俺が知る限り、デートにそんなルールはない」

「えっ? 噓でしょ?」

「そういう恋人もいるかもしれないけど――、いや、まあ、それでもいいのか。うん、それがルールだったな」

「どっちなの?」


 なぜか思い直したように頷くユーゴが謎過ぎる。

 もしやフッルム特有のルールだったとか、地方的なあれだったのかしら。覚えてなくてもこっちの習慣をするために、無意識に体が従ったみたいな?


(王子様ってすごいわね)


 感心するような呆れるような。

 そんな私の前でユーゴは少し悩むように空を見あげ、チラッと私を横目で見た。


「嫌だった?」


 さっきからかってしまったせいか、そんなことを聞くのでプイッとそっぽを向く。


「そんなことを女の子に聞くなんてマナー違反よ」


(嫌だったらユーゴなんて、思い切り突き飛ばしてるって分かってるくせに)


 案の定ユーゴがクスッと笑うのが聞こえ、ますます全身がカッと熱くなってしまう。ほんと、王子様って質が悪いわ。


 今後ユーゴは、お妃候補とか婚約者、もしくは恋人たちとたくさんデートをするのでしょう。

 おとといの態度からは大分成長しているし、今日みたいな感じなら、どんなご令嬢が相手でもきっと大丈夫よ。ね?


 どこかの綺麗な女の子に彼が同じことをすることを考えると、なぜか胸の奥がキリキリと痛んだけど、私は丸っとそれを無視した。


「ロクサーヌがデートするのは俺。以上、決まり」


 なぜか万事解決みたいな言い方をユーゴがする。


「ええ、そうね」


 ユーゴはもうすぐ国に帰るのだし、私はこれが最後のデートだと決めたんだもの。間違ってはいない。

 だから素直に頷いたのに、一瞬目を見開いたユーゴが嬉しそうに笑うから、私はまた早くなった鼓動を鎮めるために、こっそりと深呼吸をする羽目になった。


   ◆


 昼食は美術館近くの軽食屋へ行くことにした。もちろんエンゾーさんお勧めのお店だ。王子様には庶民すぎるお店かもしれないけれど、今はただの同級生だし、彼も賛成したから問題なし。

 名物の煮込み料理を食べて、そのあとは屋台をめぐってコーヒーや甘いものを楽しむ。

 その後馬を返しに行ってから街中に戻る。目的もなく色々なお店を冷やかして歩き、約束のアイスも買って、中央階段で一緒に食べる。

 そんな、安価で地元民っぽい午後の過ごし方を二人で楽しんだ。


「このあとはドレスショップでも行く? もしくは宝飾店とか」


 冗談とも本気ともつかない顔でユーゴが聞くから、私は手を腰にあて、あきれ顔になってしまった。

 シビラ様には、ドレスでもアクセサリーでもねだればいいと言われたけれど、婚約者でもないただの同級生相手にそんなことできるわけないじゃない。婚約者相手でもねだったことなんてないのに。


「行きません。まだお詫びって考えてるなら、もう十分してもらったわ」


 もともと迷惑だなんて思ってなかったんだし、むしろ今日は私の方が迷惑かけてるくらいだもの。


「いや、怒らせるつもりはなかったんだ。綺麗なものを見たら楽しいんじゃないかって程度の意味で」

「あ、そうなんだ」


 女の子の好みそうなものを考慮してくれたってことよね。


(えらいわ、なんて言ったら怒られちゃうわね)


 でもせっかくだから周りを見回し、雑貨を置いている屋台にユーゴを誘った。

 広い台には様々なものが置いてあり、何に使うか分からないようなガラクタみたいなものから、手作りらしい工芸品まで様々なものがあって、小さな子供がおもちゃ箱をひっくり返したみたいな感じだった。


「あ、これ素敵」


 目に留まったものに私が手を伸ばすと、偶然ユーゴも同じものに目をとめたらしく、二人の手が軽くぶつかった。

 それは古いコインと葉っぱの形をしたチャームのついた護符で、ペンダントやベルトにつけるストラップとして身に着けるアミュレットだ。

 どちらかといえばアクセサリー感覚の、いわばただの工芸品で、お土産として人気があるもの。だからこれ自体に特別な力があるわけじゃない。


 それでも同時に同じものに目を付けたのがおかしくて、二人で噴き出してしまった。


「なあロクサーヌ。せっかくだし、同じものを二つ買おうか」

「いいわね。じゃあ、ユーゴの分は私に買わせてね」

「いや。あー、うん。そうだな。俺は君の分を買おう」


 お茶一杯分のささやかなお土産を買い、二人で交換する。

 いい記念品だなんて笑っていると、ふいに後ろから声をかけられた。


「ロキシー!」

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