第30話 ユーゴ視点④

 ロクサーヌと手をつなぎなおしただけ。


(なのになぜこんなに緊張するんだ)




 美術館裏手の森にある、もともと管理人室か何かであっただろう小さな建物の前で、俺は小さく首を傾げた。絶壁に張り付くような形で建っているそれは、多少手入れをされているようだが、古いだけでとりわけ珍しいものでもない。


「見せたいのってここ?」


 ロクサーヌを見ると、いたずらっぽい目で「いいえ、もう少し先よ」と笑った。


(余裕の表情だよなぁ。ドキドキしてくれたのは、俺がユーゴだって知らなかったせいか。こっちはずっとドキドキしっぱなしなのに)


 つい不貞腐れた気分になる。それでも彼女は大人の男が好みのようだから、ガキっぽい顔は面に出さないように気を付けなければ。


(あのムカつく元婚約者の野郎も十歳年上だったらしいし、トーマも叔父上と同い年だからな。トーマのことをはっきりと好きだって言ってたし、あんなとろけそうな表情を見せるなんて予想外だ)


 婚約者がいなくなったからって、彼女が恋をしていない保証なんてどこにもなかった。そのことに改めて気づき、胸の奥が引き絞られたように痛む。あまりにも苦しくて、自分の心に気づきたくなかった気もするくらいだ。


(こんな好きなのに、どうして気づかずにいられたんだろう)


 彼女の家に行ったのは、無意識にずっと側にいてほしかったからなのかもしれない。

 あの日のことを考えるとムカムカするが、さっき彼女の涙を見て、むしろ殺意がわいた。

 普段感情をあらわにしないロクサーヌの真っ青な顔に動揺したが、それがなぜかここにいた、あのサロメのせいだろうということはすぐに分かったからだ。


 いつも冷静な彼女の心もとなそうな姿と、微笑んでいるのにはらはらと流れる涙が、強烈に庇護欲を掻き立てた。誰よりも大事にしたい気持ちが沸き上がり、マントをしていないことが悔やまれた。騎士服だったら、マントで彼女をすっぽり包めたのに。君は守られているんだと、実感させてあげることが出来たんじゃないかって思うから。

 甘えてほしかったし、甘やかしたかった。


(しかし、泣いている彼女に正体をバラしてしまったのは、彼女を慰める相手が誰なのか分かってほしかったのだろうな。失敗した)


 自分で自分に嫉妬というのもおかしいけれど、彼女がもう少し意識してくれてからバラせばよかったなんて思ってしまう。

 今は手をつないでいるだけで、ちょっと前まであった甘さが皆無じゃないか。


(甘い空気があったように感じたのは、俺の気のせいだったかもしれないけど)


 美術館の管理人に、調子に乗って結婚なんて言ってしまったが、口にしてからそれが本音だということに気づいた俺は、相当自分の気持ちに鈍いのだろう。

 まつげを震わせる彼女が本気にしてないのはわかったけど、狂おしいほど分からせたいとも思った。


(うちは一途な家系だって聞いたことがあるけど、俺は関係なさそうだと思ってたんだけどなあ)



「あのさ、ロクサーヌ。言いたくなければ言わなくていいんだけど、あの女に何をされたんだ? さっきいたの、君の兄嫁だろ?」


 少しでも彼女の悲しみや痛みを取り除きたくて、少し悩みつつ思い切って尋ねてみる。しかし彼女は突然立ち止まると驚いたように目を丸くし、

「何で知ってるの?」

 と言った。心底不思議でたまらないと言った顔で、その素直な表情に不謹慎ながらホッとした。普段のユーゴに見せていた顔よりずっと愛らしく、二人の関係が以前とは少し違うと希望が持てる気がしたのだ。それに勇気を得て、あえて何でもない風に事実を打ち明けた。


「実は休みに入ってすぐ、君の家まで行ったんだ」

「えっ? どうして」


 少しだけロクサーヌの頬が赤くなる。連絡もなしで訪ねたことに、心底驚いているのだろう。悪かった。


「君がもしこの国に居づらいようなら、よかったらオーディアに来ないかって誘いに行ったんだ。これでもそれなりにコネがあるし、環境を変えれば気晴らしにでもなるんじゃないかって……思ったんだが」


 まあ、ユーゴらしくないって思ってるんだろうな。

 そんなに目を見開くと、目玉がこぼれるぞ。


 思わず苦笑が漏れると、彼女もハッとしたような顔をし、ほんの少し悲しみを含んだ顔でふんわりと微笑んだ。


「ありがとう。嬉しい」

「ロクサーヌ」


 嬉しいって言ってくれた? 聞き間違いではないよな。

 こくりと息を飲む。しかし彼女はうんうんと何かに納得したように頷いて、にっこりと笑った。


「ユーゴ、前にも言ってくれたでしょ。『あるはずだった将来が閉ざされたなら、違う扉を開けて全力で取り組めばいい』って。あれ、嬉しかったのよ。その先のことまで考えてくれたなんて、ちょっと感動だわ」


 思ったのと、何か違う。

 脱力して嬉しそうなロクサーヌを見ると、おととい時折見せていたような表情でこちらを見ていた。

 それは例えるなら、出来の悪い弟が成長したのを見るような生暖かい目線で、期待してたのとは全然違う。

 頭の奥でオリスの、「ないわ~、殿下」という呆れた声が聞こえた気がした。くそっ。


 しかし笑っていたロクサーヌの顔が曇り、小さく「ごめんね」と言った。


「義姉に……、サロメに不快な思いをさせられたのでしょう? ごめんね、ユーゴ」


 その顔があまりにも痛ましく、俺は慌てて首を振った。


「君が謝るようなことは何もなかったよ。大丈夫だ。兄君がいないってことで少し話しをしただけで」


 そう、ロクサーヌについて不快な話をされただけだ。

 さっきエズメの話を聞いた時、ロクサーヌの母親のことを思い出した。


(彼女は私生児なのか?)


 しかし、昨日ロキシーを叔父に紹介してくれたトーマの話を思い返せば、彼女は良家の出のはずだ。養女だから? それも違う気がする。

 とはいえ、彼女の出自が何であれ、俺の人生に彼女がいないことなど考えられなくなっているし、彼女の問題も憂いもすべて取り払ってやろうと決意している。


(ロクサーヌは、俺が守る)


 守りたい。守らせてほしい。

 しかし、今この想いを彼女に告げても笑い飛ばされてしまうだろう。

 以前、俺の婚約者だと思われてもロクサーヌなら笑い飛ばすだろうと思った自分を蹴飛ばしたい。


「ロクサーヌの口から、君の家族の話を聞きたいな」

 

 自分にとっての真実は、彼女の信じる真実だけだと思うから。


「ん、いいわよ。でもその前に、まずは目的地に着いたことをお知らせするわ」


 おどけた彼女が差した先には、一見何もないように見える、いつか二人で一晩過ごすことになった洞窟にそっくりな隧道トンネルらしきものの入り口があった。

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