矛盾、はじめました

まちかどロンリネス

矛盾、はじめました

七月の西日はその輝きだけを残し、季節は遠い響きを残して消え去っていく。太陽は未だやや高く、いくらか白い眩しさを放つものの、静寂が涼しさを仄めかす夕暮れ。今私が歩いている広葉樹のトンネルは高層ビルと繁忙な街路のはずれにある。ひさしに丁度良い、高い幹と放射状に広がる枝に生い茂る葉が近くで連なる様をみると、緑の天蓋のように迫力がある。等間隔に配置されることで木々が織り成すトンネルとなっているのだ。それらの隙間、木々の間や葉と枝の空白、から溢れる光は、遥か上空での騒々しさが嘘のようにおぼろげだ。隙間を柔らかく降り注ぐ天女の羽衣のような光は、地面に輝かしい層として映り込む。暖かな煌めきは肌に触れる瞬間、期待と不安をひとつに溶かし、心の奥底を優しく撫でてゆく。遮られた場所では影が現れて、コンクリートの地面に繊細な縞模様が広がる。層々しく光と影が緻密に連なる様はさながら自然が編み込むミルフィーユのようであった。ふと背中を押すように優しい風が、広葉樹のトンネルを爽やかに通り抜ける。木々の葉が風になびき、不思議と涼しさが感じられる。ここを出て右手に曲がれば1つのスパゲティ屋さんがある。イタリアンでもなければスパゲッティでもない。そこはビル街の一角にあるこぢんまりとした、可愛らしいお店だからだ。その外観は、深いエメラルド色の外壁と、風に揺れる小さな赤色の旗が特徴的だ。窓際には可憐な花々が咲き誇り、店名の上には新品同様の看板が掲げられている。「パスタ・デ・ソリチュード」という文字が、美しく書かれ、その白い繊細な文字が店の雰囲気と調和していた。ドアの横にブラックボードが立てかけられてメニューがいくつか載っている。一番下にはジェノベーゼ、はじめましたと書いてある。ジェノベーゼ、その名前だけで、なんだか美味しそうだと思う。下にある写真を見ると新緑色のソースが使われるパスタと分かった。新鮮なバジルの葉が粗く刻まれ、さらに鮮やかな緑の彩りを添えている。トマトの赤と、オリーブオイルのきらめきが、その上に輝いている。ああ、今日は何を食べようかな。太陽の光を受けてキラキラと輝くガラス張りのドアに手をかける。

店に入る前は楽しみになのに、いざ直前、不安で胸がいっぱいなことにいつも気づく。硬くなる体を一息待って押し切れば、カランカランと素朴な銀白色のドアベルが鳴る。入るとエアコンのひんやりとした心地よさに触れ、道中に体を伝った汗に気づいた。それから陽光に満ちたオリーブの葉と食欲をそそるトマトソースの匂いが鼻をくすぐった。店内は温かな照明と柔らかな音楽に包まれている。小さなテーブルと椅子が配置され、壁には絵画や写真が飾られ、イタリアの田園風景や料理の美味しそうな写真が飾ってあり、それらを少し見るふりをする。少し入口で待ってみたけど駄目だった。最上修一さん、店長に挨拶をしてほしかったけど。最上さんは料理をしているときは夢中でお客さんに気づかないからだ。いらっしゃいませ、聞きたかったな。なんの変哲もない挨拶だけど聞けないとやっぱり寂しい。丸テーブルを3つ挟んだ向かいのキッチンに目をやると最上さんは農家のように健康的に焼けた肌にたくましい腕を使ってパスタを作っている。香りからしてミートスパゲティだろうか。もう少しお客さんがいない早い時間に来ればよかったと後悔しながら、軽く会釈をして窓際の席に着いた。誰に見られているわけでもないけど緊張を悟られないように澄ました顔で。時刻は17時30分。お客さんは私の他に一人しか来ていなくて嬉しいような、それでもお客さんが帰ってしまえば最上さんと2人きりになるのは気恥ずかしいようなそんな心地であった。しばらくして、料理をもう一人の客さんに出した最上さんは微笑みながら、メニューを持ってきてくれた。気づかなくてごめんね。いらっしゃいませ。低くて安心するような声だ。いえ、と消え入りそうな声で、軽く頭を縦にかぶり受け取る。私は彼の手から受け取ったメニューを見つめてから少し微笑み返した。待たせるのは悪い気がして結局いつものミートソーススパゲティを注文することにした。いのかちゃんはいつもこれだ。ミートソース好きなんだね、と最上さんは笑った。窓の外の温かな光がその笑顔を引き立てていた。はい、と私はかろうじて、はにかんだ返事をした。カランカラン、ちょうど新しくお客さんが来店してきた時に、最上さんは美味しそうなミートソーススパゲティを運んできた。新鮮なバジルの葉とトマトの赤が白い丸皿の上で際立っている。お待たせしました、どうぞ召し上がってくださいとテーブルの上に置き、それからすぐにお客さんの方へ向かっていった。いただきます。ミートソースをフォークでくるくると巻いて、口へ運ぶ。挽いた肉のうまみと酸味が絶妙なバランスを保っていて、口の中で広がる。トマトの濃さは控えめだが、だからこそいろいろな野菜やひき肉から溶け出した旨味がしっかりと味わえる。

恋をすると、心はまるでアルデンテのパスタのように、ほどよい弾力と滑らかさが交錯する。高揚感は、トマトソースのように甘く、ほんのり酸味のある味わいで、心を満たし、幸福感に包まれる。しかし、不安はチーズのように深みのある感情で、心の中で絡みつくように感じられ、思考をいたずらにくすぐる。ごちそうさまでした。おいしかった。ペーパーナプキンで口元をゆっくりぬぐい、視線を動かしこっそりとキッチンを見ると、最上さんは皿を一つ一つ丁寧に洗っている。真剣な表情に見惚れてしまう。誠実な人、かな。ナプキンで微笑みを押し殺し、やっぱりそうかこの感情はと思う。

私の名前は星いのか。郊外の大学に通う19歳。夕方、陽は既に大きく傾き、東の雲は蒼暗く、西の空は緩い太陽の光を帯びて淡い橙と薄紅の色合いで染まっていきます。涼しさすら感じられる不思議な初夏の暮れ。私も自分の相反した感情に気づくことになる。


星いのか、19歳。矛盾、はじめました。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

矛盾、はじめました まちかどロンリネス @hoshiinoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ