第9話 「ここじゃない……別世界を見てみたいの」

 そうだわ。今夜は温かい野菜スープを食べたいと、料理長にお願いをしましょう。それとも、眠る前に温かなハーブティーを飲むのがいいかしら。この冷えた気持ちを温めてくれるものは、何かしら。

 もう、彼らの話を聞く気なんて、私にはなかった。

 

「オーランド卿。私はそなたとこれからも良い関係を築きたいと思っている」

「侯爵様! 勿論です。オーランド伯爵家は、今後もウォード家の盾となりましょう!」

 

 顔を上げた伯爵様はお父様の目を見て、はっきりと告げた。

 

「これは、ご子息フェリクス・オーランドの一方的な婚約破棄で、相違はないな?」

「はい。リリーステラ様のお心を傷つけたことをお詫びいたします。何卒、寛大なお許しを賜りたく存じます」

「それでは、ご子息は貴族籍を抜けてもらおう。その上、相応の慰謝料を納めてもらうで、問題はないな」

「……分かりました」


 一瞬息を飲んだ伯爵様は、深く頭を下げて承諾した。

 つまり、お父様はオーランド家と今後も付き合いを続けたいが、フェリクス様の顔は二度と見たくないということでしょう。

 

「え? 待って下さい。貴族籍を抜けるって……」

「どうしてそんなに、酷いことを言われるの!?」

 

 当の本人とダイアナは納得できないみたい。

 ダイアナは、フェリクス様との関係が認められたら、伯爵夫人になれると思ってたのでしょうね。


「これは合意の元の婚約解消ではなく、フェリクス一方的な婚約破棄だ。我がウォード家に泥を塗った責任を取るのは、当然であろう」

「しかし、貴族籍を抜けたら、私は……」

「真実の愛を貫くと言ったではないか。二人仲良く生きればよかろう」

「え……?」

「私はお前達の仲を認めると言ったのだ。平民となっても、愛は貫けるであろう?」


 フェリクス様は、私に縋るような眼を向けてきた。


、ダイアナ……どうぞ、お幸せに」


 私がお父様の決定に背くはずもないのに。あなたは何を求めたのかしらね。

 もう、二度と関わることもないだろう二人に、おめでとうと、さようならの気持ちを込めて、私はにこりと微笑んだ。


 *


 全てが片付いたその日の夜、私はお気に入りの冒険譚の頁をめくりながら、ハーブティーを飲んでいた。

 ほんのり甘くてスパイシーな今夜のハーブティーは、未踏遺跡ダンジョンで主人公を惑わせる敵の魅惑の香りを彷彿とさせるわ。それを振り払うのは、仲間の風の魔法で──口角を上げて楽しんでいると、開けていた窓から夜風が入り込んだ。


 ふと顔を上げると、アルフレッドが窓を閉めていた。


「アルフレッドは、未踏遺跡に行ったことがあるの?」

「何度かはあります」

「……クラレンス家の養子となったら、未踏遺跡へ調査に行くこともあるのかしら?」

「そうですね。領地を知るための視察で行くこともあると思います」

「そうなのね……ちょっと、羨ましいわ」

 

 本を閉じてテーブルに置き、温かなカップを両手で包むようにして持ち上げた。

 少し冷えていた指がジン割と温かくなり、それを喉に流し込めば胸の内がほっこりと和らぐ。


「羨ましい、ですか?」

「だって、冒険が待っているんでしょ?」


 指で本のタイトルをなぞり、別世界へと思いを馳せていると、アルフレッドの指がそっと重ねられた。


「お嬢様は、今、お心がとても傷ついていおられます」

「そうね」

「現実逃避をしたいお気持ちは分かりますが、現実は、物語のようにはいきません」

「……分かっているわ。それでも、ここじゃない場所に行けるアルフレッドが、羨ましいの」


 フェリクスとダイアナは、二度と私の前に姿を現さないだろう。

 変わるのはそれだけのことで、私は学園を卒業後、新たな婚約者が決まるまでは、ウォード家で家業を教わりながら過ごすことになる。ほとんどが、今までと変わらない生活だろう。

 時にはお茶会を開いて招待され、時には社交界で笑顔を振りまく。


「侯爵家の娘として、恥じることのないように生きていくつもりよ。でも……」

 

 アルフレッドを見上げると、視界がぼやけた。


「ここじゃない……別世界を見てみたいの」


 冒険譚のように、背中を預けられる人と出会い、恋物語のように心を揺さぶる日々は、ここにはない。

 それが、クラレンス辺境伯領にあるのかは分からないけど、でも──


「アルフレッド、あなたなら、私に新しい世界を見せてくれる。そんな気がするわ」


 私を、クラレンス辺境伯領に連れて行って。

 そのお願いが、アルフレッドとの結婚を意味するとまで、私はこの時、考えていなかった。

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