第9話 泉のほとり


 シャーロットは泉の縁に座り、靴を脱いで足先を水面につける。ひんやりとした感触が、初夏の爽やかな暑さに心地よかった。


『僕がこの土地の守護者に据えられて、もう1000年近くになる』


 彼女の横で足を折って、ユニコーンが話し始めた


『昔の僕は魔力の塊のような存在で、今の姿ではなかったよ。特に不便もしていなかった。

 けれどもある日、今の村がある場所に女たちがやって来たんだ。年齢はまちまちで、幼子もいれば少女もおり、成人から老婆までいた。男も子供や赤子ならいたよ』


 ユニコーンが鼻面を擦り寄せてくるので、シャーロットは仕方なく撫でてやる。

 彼は見た目こそ馬だが、馬車馬のように臭くもなければ汚れてもいない。


『彼女たちは夫や父親に虐げられたり、社会から爪弾きにされた者たちだった。女たちのリーダーは僕の気配に気づいて祈ってくれた』


 ――どうか私たちを護って下さい。私たちは全てから見放され、流れ流れてここにたどり着きました。もう他に行く場所がないのです。


 ユニコーンの角が淡く光ると、女の声が遠く響いた。

 当時の祈りを再現したのだ。


『そうして僕は守護者となった。女たちは母親や妻の立場の者もいたけど、乙女も多かった。彼女らは特に、年若い娘たちと息子たちの守護を祈った。

 だから僕は、乙女たちの守り手になった。年若い彼女ら、彼らが幸せな時間を過ごして、きちんと大人になれるよう、見守るのが僕の役目になったんだ』


「人間の祈りが、あなたを形作ったの?」


『そうだよ。実体を持たない魔力のかたまりは、実体を持つ人間の思いによく反応するんだ。それが善意でも悪意でもね。

 僕は彼女らを護ったよ。男たちが追いかけてきたら追い払い、疫病が生ずれば祓い、大地を豊かにして作物を支えた。

 でもだんだん、僕と彼女らには距離ができた。子供は育って若者となり、若者たちは恋をして、互いに結ばれる。純潔を失う。新しく生まれた子らは親たちの苦難を知らず、僕が護らなくても幸せに暮らしていた……』


 ユニコーンは息を吐いて、長いまつ毛を伏せる。


『護る必要がないのは、いいことだ。不幸がないのだからね。彼らが幸せに暮らしていくのが、僕の一番の喜びなんだよ。ただ、乙女の守護者という役目を背負ったこの身は、寂しかった。

 だからきみと友だちになりたかった。きれいな魔力を持つ乙女。けれども、心が悩みで曇っている。僕はきみを護ってあげたい』


「別に私は、悩んでなんか」


 いない、とは言えなかった。

 いつの間にか馴染んでしまったけど、シャーロットは王都に帰りたかったはずだ。彼女を追い落とした水の聖女に復讐をして、王宮の華やかな地位に返り咲きたかった。

 けれどもいつしか、その思いは薄れてしまった。水の聖女への怒りは多少残っているが、それだけだ。


 だから悩みはもうないのに。そう言いたかったが、言えなかった。


「あなたは何故、私が悩んでいると思うの?」


 シャーロットは思い切って聞いてみた。


『魔力が揺らいでいるもの。今が幸せと思っているなら、もっと穏やかなはずだよ。僕は悩みを取り除きたい。聞かせてくれるかい?』


「私、自分が何に悩んでいるか分からないの」


『じゃあ、今のきみの暮らしを聞かせて。悩みに触れれば魔力が揺らぐ。僕が見ていてあげる』


「そうね……」


 シャーロットは話し始める。

 まずは王都を追われた話。いわれのない嫌疑を掛けられて、悔しかったこと。

 ユニコーンは静かに聞いている。この件ではないようだ。


 次にシリト村に到着してから。

 領主の館がひどいボロ屋で、トイレも臭くて嫌だったこと。食事も粗末で、自分の身の回りの世話は自分でやらなければいけないこと。

 農民たちと一緒に農作業をやって、疲れ果てる毎日。服は簡素で、いつも泥だらけ。お風呂に入りたくても、タライの湯浴みがせいぜい。

 思いつくことを喋っていくが、ユニコーンの反応はない。


「あとは……エゼル様が塞いでばかりで、お体が心配なことかしら……」


『――それだ』


「え」


 シャーロットはユニコーンを見た。彼の目は泉と同じ、深い深い青。


『きみは夫を心配している。きみ自身はずいぶん立ち直ったのに、悲しみから抜け出せない彼に心を配っている。――シャーロットは優しい子だね』


「で、でも、私はあの方に何もしてあげていないわ。毎日一緒の部屋で寝ているけれど、気の利いた言葉も掛けてあげられない。だって、どうしていいか分からない……」


 言葉に出せば、彼女は合点がいった。

 エゼルに元気になって欲しかった。昔、子供だった頃のようにお互いに笑い合いながら暮らしていきたかった。

 親が決めた婚約者で、それほど深い仲ではなかったけれど。長い付き合いの人だ。悲しんでいる姿は心が痛む。


「優しくなんてないわ。私、エゼル様を見捨てるつもりでいたの。私だけでも王都に舞い戻って、王太子になった弟王子と結ばれて、王妃になるんだって考えていた。優しいわけがないわ!」


『今でもそうしたいと思ってる?』


「いいえ。田舎暮らしも案外、悪くないもの。まあせいぜい、雨漏りの水が頭に落ちるとイライラするくらいね。直しても直しても漏れてくるのよ、あの家」


『ふふっ。やっぱり優しいよ、きみは。――さて、夫婦の問題か。僕はどうやって手助けしたものかな』


「まずは私が何とかしてみるから、大丈夫よ。でも可笑しいわね。あなたは『乙女の守り手』なのに、私が夫と仲直りしたら、乙女じゃなくなるかもしれないわよ?」


 するとユニコーンは深い青の瞳を細めた。


『言っただろう。僕が一番に望むのは、きみの――きみたちの幸せだ。

 僕に祈ったあのひとも、人々の幸せを真摯に願っていたよ――』


 ユニコーンは少しの間、森の木々の間に見える空を眺める。泉の青とはまた違う、高く澄んだ空の色を。

 それからすっくと立ち上がって、森の出口を視線で指し示した。


『さあ、シャーロット。行っておいで。もしも助けが必要なら、僕を呼んでくれればいい』


「ありがとう。でも、上手くいく気がするわ」 


 根拠はなかった。でも直感が告げている。

 きっと大丈夫。エゼルときちんと向き合えば、彼の心は私を見てくれる。


 シャーロットも立ち上がって靴を履き、バスケットを抱えて走り出した。

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