屈折する平行線

 保健室のベッドにそっと横たえられた頃には、キョウコの意識は回復しつつあった。

 これまでにも立ちくらみや熱中症で、人が気絶して倒れるのを目にした経験は何度かある。けれど朝の教室で意識を失ったキョウコの姿はそういう人たちと違った。


 必死に追いかけようとしたんじゃないかって思った。単にショックで意識を失ったのではなく、キョウコはレイナを追いかけようと、あっち側に行こうとしたんじゃないかって。私一人を残して。


「どうして涙が出てこないんだろう」


 閉じられたカーテンの内側、ベッドの傍らにある丸椅子に腰を下ろして呟いた。

 保健室までキョウコを背負ってきた男子生徒も付き添いの担任教師も教室へと帰り、養護教諭はキョウコの様態を確認後、保健室内での事務仕事に戻った。

 正確には帰ってもらったし、戻ってもらった。二人にしてください、と言った私を見やる彼らの顔には心配と同情があった。

 でも、そんなのはどうでもいい。


 私は自分の目元に触れる。パチパチと瞬きをしてみる。やはり涙は出てこない。


「なんでだと思う?」


 だらんと放り出されているキョウコの腕を軽く掴んで小声で尋ねた。それからぐっと力を込めてみたが、彼女の瞳に私は映っていないばかりか、触れられている感覚自体が希薄なようだった。虚ろな目。彼女もまた涙を流してはいない。私以上に、レイナの死を現実として認識できていないのだ。


 少し悔しかった。

 キョウコにとってレイナは魂の一部であるのに、私にとってはそこまでの特別ではなかったんだと思えたから。

 私の意識はずっとこのどうしようもない身体に留まったままだ。向こう側に行ってしまったレイナに会えずにいる。もしかして気絶したときにキョウコはレイナに会えたのだろうか?

 不慮の交通事故で亡くなった少女を不憫に思った神様が最後のお別れを特別な形で実現してくれたのだろうか。私抜きで。そうだったら、ずるい。二人揃って薄情者だ。


 ついつい私の指の爪はキョウコの腕に食い込む。慌てて離すと、痛ましく痕が残っていた。キョウコに謝る気にも、何か言ってよとなじる気にもなれない。

 乾いている目を、生気を感じられないその顔を眺めるだけ。


 不意に、寒さを覚えて身震いした。


「寒い」


 口に出すと寒気は強まった。

 足元から凍りついていく気すらしてくる。外側からだけではなく、内側からも冷たいものがこみ上げるのを感じる。

 しかたなしに私はその一人用のベッド、キョウコのいるそこへと入った。キョウコは温かい。それがなんだか不思議だった。


 この子は生きている。

 置き去りにされたのは私だけではなくこの子もそうなんだ。


「……いっしょにレイナのところに行く?」


 私はキョウコの耳元、ほとんど口づけでもするような距離でそう囁いてみた。


 それでもキョウコは何も反応してくれなかった。肯定も否定もなく、賛成も反対もなく。私は体の向きを変え、キョウコと背中合わせになる。そして悪い夢ならどうか覚めてとありふれた願いを胸に瞼を閉じる。


 闇の中で愛しい彼女との日々、三人での毎日を思い出しては振り払い、眠りを渇望した。果てのない、どこまでも深い眠りを。




 目が覚めると時間は夕方を過ぎていた。

 失われた人も時間も戻らない、そんな現実。私は寝ている間に体の向きを変えられていた。


 キョウコが私の胸元に顔面を押し付けて泣き続けている。

 そうだとわかるのに数秒かかった。六月に入って衣替えをした夏用制服が雨に降られたようにぐしょぬれだ。ぼんやりとただ、キョウコのすすり泣きを受け止めていた私はやがて空腹を感じた。キョウコはどうだろう。こんなに涙を流したのだから、何か代わりに流し込んであげないといけないはずだ。あの不味い紅茶でもいい。


 いいや、どうせならあのショッピングモールのあのお店のあのドリンクがいいな。この前に三人で行った時、たしか季節限定メニューの告知がされていたっけ。

 ぜったい飲みに来ようねって約束した。

 ぜったいだって。三人で、ってわざわざ言わなくても三人ともがそれをわかっていた。なのに今は、あの時「三人で」と言っておけばよかったと後悔している。

 こんなお別れを迎えるなら、微かにでも兆しがあったのなら、毎日祈っていただろうに。私は何も祈らずに過ごしていたのだ。


「罰が当たったんだ」


 絞り出されたキョウコの涙声に私は一瞬、自分の罪を見抜かれたのかと驚いた。幸福な毎日を永遠に続くと錯覚していたから、罰がもたらされたのだと。


 でもそうではなかった。

 キョウコは続ける。悲痛な声で。


「私ね……レイナに告白しようと決めていたの。次の月曜日に」

「その日は、キョウコの誕生日だよね」

「そう。ハルミには前もって言うつもりだった。抜けがけ禁止って言い出したのは私だから。ねぇ、本当だよ。言うつもりだったの。信じて」

「どうして告白が罪になるの」


 情欲に突き動かされて力づくであの子の身体をどうこうしようとしたなら、それは罰せられるべき罪だ。

 けれどキョウコの恋心、それを伝えることが罪だとは思えない。思いたくない。


「レイナはきっと天使だったんだ。天使を穢すようなことしちゃダメなんだ。ぜんぶ、私が悪いんだよ。ねぇ、そうなんでしょ」

「人間だよ。キョウコは悪くない」


 簡潔に私は応じる。

 人間だからあっさりと亡くなった。ぺしゃんこになってしまった。大型トラックだか、ダンプカーだかを運転していたのがキョウコでないのは明白だ。キョウコがハンドルを切ったわけじゃない、アクセルを踏んだわけじゃない。何も悪くない。


 そんなの当たり前だ。


「こんなことになるなら、もっと早くに伝えておくんだった」


 そう言って、今度は告白しなかったのを悔やむキョウコはベッドの上で身体を丸めた。そしてぼそぼそと呟き続ける。


「あの手にもう一度触れたい。あの髪に、頰に、全身に触れたい。レイナからも触れてほしい。レイナを感じたい」


 叶うことのない望みを繰り返すキョウコはどんどん小さくなる。丸まった身体は胎児の姿を思わせた。


「声が聞きたい……」


 あの子の声は何かに残っていなかったか。私は考えてみる。動画や留守番電話、そういったもので今でもレイナの声が聞けはしないかと。あったかもしれない。

 でもスマホは教室のバッグの中に置きっ放しだ。私は体を起こして、ベッドに腰掛け、丸まったキョウコを見下ろした。


 この子を今ここで一人にしていいんだろうか。レイナだったら……そうはしないはずだ。レイナを悲しませることはしたくない。レイナはきっと見てくれている。レイナが望むことをしよう。私がしっかりしないといけないんだ。


 日がすっかり落ちてしばらくしてから、それぞれの家族が迎えに来てくれた。通夜や葬式への参列云々の話をされたがよく覚えていない。

 別れ際、私はキョウコに囁く。


「勝手に一人でいかないでね」


 キョウコはやや間を置いてから、こくりとうなずいてくれた。





 すっかり夏を迎えても私とキョウコはこちら側、レイナのいない世界に留まり続けていた。色褪せた現実の端っこで私たちは月曜と木曜の放課後になると、あのカフェの三人掛けテーブルに二人で座り、三人分のフルーツサンドと紅茶を注文して、ろくに会話もせずに午後六時になると帰るを繰り返していた。


 しかし夏休みに入る直前、ふらりと店内に現れた別の高校の男子生徒二人組に、下心ありきで声をかけられた際、キョウコが錯乱して騒ぎとなった。結果として私たちは皆、出入り禁止を言い渡された。


 幸い、保護者や学校への報告はなかった。流血沙汰になる一歩手前だったので寛大な処置だと言える。その男子生徒たちからすれば「私たち三人の居場所に近づかないで」というキョウコの怒りのこもった警告も「その席に触れるなっ!」という叫びも納得がいかないものだったに違いない。


 私はというと、この事態をレイナからの戒めだと受け取った。いつまでも三人の聖域を守ろうとするのではなく私たち二人で前に進まなければならないのだと。

 レイナだったらそう言ってくれる。

 レイナは私たちが悲しみに縛られるのを喜ばない。

 レイナはきっと私たちが仲良しであり続け、健康に生きるのを願うはずだ。

 

 そうだよね?


 レイナがいなくなってからというもの、キョウコは学校内でも些細なことで頻繁に癇癪を起こしていて、周囲のクラスメイトや教師連中から疎まれている。

 とはいえ親友の死という揺るぎない事実がある以上、彼らも下手にキョウコを責めはせずにいるのだった。そんなわけで、大抵の場合、いつもそばにいる私が世話役扱いされている。


「もうやめてよ」


 夏休みが入ってすぐ、補習が終わった後の帰り道。キョウコは私を睨んでそう言った。


 今度は何で怒っているのだろう。私が聞いてあげないと。レイナを悲しませてはいけないから、と私は努めて笑顔を作って「何の話?」と訊ねた。


「私の面倒を見たって、どんなに仲良くしたって、レイナが褒めてくれるわけじゃないんだよ。もう二度と会えないんだよ? わかっているでしょ」

「なんでそんなこと言うの。私はただ……私たちが独りになって、暗い気持ちで生きるのをレイナは望んでいないだろうからって」

「その言い方が嫌なの。たまらなく嫌なの。レイナがどう思うとか、今の私たちを見守ってくれているとか、そういうのやめにして」

「どうして?」


 わけがわからなかった。

 キョウコだってレイナを今も強く想っているはずなのに、なぜそんなことを口にするのかがまったく腑に落ちない。


「どうしてって……」


 キョウコは睨むのをやめ、なぜか狼狽えた表情をしていた。


「そんなことより、もうすぐレイナの誕生日だよ。受験生だった去年は塾の夏期講習とかぶってほとんど一日中つぶれちゃったよね。だから今年はちゃんとお祝いしよう」

「ハルミ……それ、本気で言っているの?」

「うん。ひょっとして何か用事を入れた? まさか、そんなわけないよね」

「ねぇ、よく聞いて」


 炎天下を抜け、ちょうど駅構内に入ったタイミングだった。他に誰もいない。がらんとした小さな駅。


「私ね、とりあえず夏休み中は補習以外でハルミと会いたくない。独りになりたいの。そう、独りの時間が必要なの。二人の時間じゃなくて、ましてや三人の時間でもなく」

「それってどうしても?」

「どうしても。ハルミにも必要だと思う。独りで考える時間が」

「いらない。独りには……なりたくない」


 キョウコは顔をしかめ、大きな溜息をついた。それから駅の外、ずっと遠くの陽炎を見やって言う。


「ねぇ、レイナが死んでから一度も思ったことない?」

「何を」

「どうせ一人が死ぬんだったら、レイナじゃなくて……って。そうしたら残された二人、自分とレイナで心の傷を癒し合って、誰にも邪魔さずに愛し合っていけたのかなって。そう思ったことって一度もない?」

「ないよ」

「だと思った。ハルミはないだろうなって」


 キョウコが私を見た。泣きそうな顔。

 それでいて燃え盛る炎のような激情の予感がある。


「――でも、私は思ったよ。ハルミが死んでくれていたら、私とレイナは今頃は恋人同士になれていたのかもって。それも特別な恋人同士になれていたのかもしれないって」


 言葉が出てこなかった。

 少なくとも、キョウコの今の発言をレイナが聞いたら悲しむのは明らかだった。そのことで彼女を責めたくなった。


 けれどそれがうまくできなかった。


「憎いんだよ」

 

 口を閉ざしっぱなしの私にキョウコは吐き捨てるように言う。


「私はハルミを憎んでいる。レイナじゃなくてあんたが死ねばよかったのに。ほら、あんたも何とか言いなさいよ。言ってよ、早く、ねぇ!」

「そんなのレイナが悲し――――」

「あの子はもういないの! いいかげんにして!」


 大声で叫んだキョウコが私を両手で突き飛ばし、私は後方に倒れる。幸い、尻餅をついただけで頭を打つことはなく、床に危ないものも落ちていなかった。


「ハルミ……あんたは結局、私の世話をすることで誤魔化しているんだよ」


  キョウコが一筋の涙を流す。それが頰を伝う様を私はただ見上げていた。


「私に優しくしていれば、レイナを感じられるから。三人でいた日々をなんとか繋ぎ留めていられるから。でもね、私はもう耐えられない。今でも死んだレイナを中心に生きているあんたがそばにいるのはつらすぎる」


 電車が来る。キョウコを拐うために来たようなタイミングだ。離れていく彼女を止められない。やがて駅構内に独りきりになった私が考えていたのは、こんな時レイナだったらどうするだろう?ということだった。

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