現代編③

 ウィルの部屋を出た後、エヴァは湯浴みをするため浴場に向かう。ホムンクルスの体は汗をかかないが、何日も移動してきたせいで髪や体にホコリがついていた。気持ち的にもさっぱりと気分転換をしたかったので、弾むように歩いていた。


 鼻歌を歌いながら着ている服を脱ぐ。すでに執事がエヴァの着替えを脱衣所に用意してくれている。

 貴族なら湯浴みは使用人に任せるのが一般的だったが、養母の教育方針で着替えや風呂などの身の回りのことは自分で出来るように教えられていた。出来ないまま、万が一貴族でなくなってしまったとき大変だからと口癖のように言っていたのを思い出す。


 養母のおかげでノグレー院に入学してからエヴァは困らなかった。

 院では優秀な人材であれば出自を問わず、門を開く。入った研究生の卵達は寮で生活をするのだが、自分のことは自分でするのが当たり前だった。貴族の子息令嬢も例外ではない。

 中には、エヴァのように貴族の令嬢だが身の回りのことが出来ないストレスで、学業や研究どころでなくなり、退学した者もいたくらいである。彼らを見るたび、養母には深く感謝したものだ。


 そんなことを思い出しながらエヴァは、懐かしい浴場へと足を踏み入れる。広い湯船には、獅子の彫刻が飾られていた。エヴァは手桶を取り、湯船から湯をすくい体にかけ流した。ゆっくり足先を湯に入れる。


(あぁ、ホムンクルスの体では温かさは感じないのね)


 湯が体をじんわりと温めてくれるあの感覚が好きだった。しかし、何も伝わらない。

 残念だと思う。途端に湯がただの液体に変わった。


 エヴァが研究していたホムンクルスは、人形のような状態だった。言葉も発しない、意思すら持たない。痛覚、味覚などの感覚器官はないので感じることも考えることもない。

 しかし、今の体はエヴァの技術よりも遥かに高い技術が使われている。感覚はあるのだと先入観で思い込んでいたが、さすがにそこまでには至らなかったらしい。

 やはり感覚器官を体内に入れたまま、製造するのは難しいのかと研究者らしくエヴァは考え込む。


 自分が思考の海に沈んでいたせいで目の前の光景に気付くのに時間がかかってしまった。


「エ、エヴァ!?」


 前からフィンの叫び声が聞こえる。慌てて思考の海から現実に意識を引き戻す。

 エヴァの視界に入ってきたのは、全裸のフィンだった。下半身は湯につかっていたのでデリケートゾーンは見えないのが不幸中の幸いである。上半身はもちろん裸だ。

 普段、服を着ているため想像出来ないが、意外に筋肉質である。太い腕は男性特有のたくましさが感じられる。しかし、エヴァの意識を引き留めたのは彼の右腕に走るおぞましい火傷の痕だった。


 彼の本来の皮膚の色とは違う赤黒い皮膚。ヘビが彼の体を這うような模様になっている。

 どうして、と聞きたかったが衝撃で言葉が紡げなかった。


 フィンはエヴァの視線に気付いたのか、右腕を隠すように立つ。


「ごめん、エヴァもいるとは思わなかった。私は出るからゆっくりつかって」

「あ、私は湯浴みは要らないからフィンがつかって。私、出るね」


 制止するようにフィンはエヴァを見ないように手を出した。


「いいんだ、私も十分つかったから」


 エヴァは黙って視線を外す。湯が浴槽に当たる音が響き、扉の開閉音が響く。

 彼女は目をつむる。ちゃぷちゃぷと音がした。


「フィン……貴方に何があったの?」


 エヴァの声は誰にも拾われることはなかった。


 ✢


 湯浴みから上がり、用意してもらった夜着に着替えて、エヴァは自身の部屋に向かう。部屋に入ると、新しい服と靴の一式が用意されている。ウィルの気遣いに、エヴァは嬉しくなった。


 寝台に体を沈める。久しぶりの感覚。懐かしい匂いを嗅ぎながらエヴァは天井を見る。

 ユーダットの屋敷は古い。エヴァの部屋の天井にもシミが出来ていた。子どもの頃、なかなか眠りにつけなかった時、天井のシミが何の動物に見えるか考えていた。そうすると、知らぬ間に眠りに落ちていて、気がつけば朝を迎えている。


 エヴァもシミを探した。犬、羊、馬、牛。あらかた探し終える。子どもの頃と違うのは、眠りに落ちないこと。

 ホムンクルスに睡眠は必要ない。だが、エヴァはまぶたを閉じて意識を手放した。子どもの頃、そうしていたように。


 ✢


 翌朝、エヴァは取らなかったが、フィンが朝食を終えてから、ノグレー院へと向かう。

 出立の日、正面玄関まで見送りに来てくれたウィルと執事に別れの挨拶をする。


「フィン、念のため、センシイブリズの屋敷には護衛を手配しておいた。何かあったらすぐに連絡しよう」

「ありがとうございます」


 ウィルはフィンと握手を交わしてからエヴァに向き直る。


「エヴァ、危ないことは絶対にするなよ。今度こそ約束を守れよ」

「はい、兄上」


 兄妹は二年ぶりに抱擁する。これが最期の別れにならないことを祈りながら。

 人生は何が起きるか分からない。それはエヴァが身をもって感じていたことだ。

 だからこそ、会えるうちに伝えたいことは伝えておく方がいい。エヴァは体を離し、ウィルに向かって言う。


「私も本当は兄上が大好きです。自慢の兄です」

「エヴァ……」


 再び抱き締めようとしたウィルの手を阻止してエヴァは言う。


「妹離れはしてくださいね」

「そんなぁ!」


 エヴァはくすりと笑った。フィンもウィルも笑いあった。

 二人はウィルと別れ、帝都にあるノグレー院へと向かう。

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