過去編②

 あの日の出来事以降、エヴァはノグレー院受験のための教育に変えた。そして、十三歳の冬に受験し見事合格。十四歳になった春、入学したのだった。


 ノグレー院では、早くても十四歳から入学出来る。ほとんどが一発合格出来ないため、何年も受験するのが一般的であった。十八歳になるまでは、高等教育を受けながら、複数人でグループを作り、担当研究員の研究を手伝う。そして、十八歳目前になると今までの成績と担当研究員と教授の評価で、国の予算を使って研究するに相応しいと認められた者のみ、自分の研究を始めることが出来るのだ。


 エヴァは自分の夢の第一歩を進むことが出来た。合格の知らせを受けた養父母、兄はエヴァ以上に喜んだ。ウィルはすでに家督を継ぎ、若きヴェーデンスヴィル侯爵当主となっていた。


「あいつも立派な当主だし、エヴァもノグレー院に入ったし、我々は何も思い残すことはないよ。母さんと船で世界を旅して回ろうか」


 そう言っていた養父は、エヴァが入学して半年後、養母とともに船の事故で亡くなった。


 新しい環境と今まで以上に高難易度な教育に慣れなかったエヴァは、また大切な人を亡くしてしまった。急遽、休みを取り、故郷に戻って葬儀に参列するまでは、悲しみのあまり記憶がない。


「父上、母上、なんで……なんで!」


 普段、感情をあらわにしないエヴァが生まれてはじめて慟哭した瞬間だった。

 養父母の名前が新しく刻まれた墓標を抱きかかるようにして、泣きじゃくるエヴァを憔悴しきった兄が抱きしめる。墓標の下にあるはずの納骨箱には、養父母の遺骨は入っていない。船がバラバラになるほど激しい事故で遺体を回収することが出来なかったそうだ。


 ウィルは声を震わせて言う。


「お前は何があっても生きろ、俺を悲しませるな。兄との約束だぞ」


 エヴァが生涯で唯一、兄と交わした約束であった。


 ✢


 忌引休暇を過ごした後、エヴァは気持ちの整理がつかないまま、ノグレー院へと戻ってきた。学業と研究に勤しむ日々は、悲しみにくれる余裕さえ与えてくれないのが返って良かったのかもしれない。故人を想う時間があれば、きっとエヴァは立ち直れていなかっただろう。


 しかし、今まで通りに過ごすことも出来なかった。日中は忙しいため、夜にしっかりと休息を取る必要があるのだが、エヴァは休めなかった。眠れないのだ。眠れない夜はいつの間にか朝になり、一日が否応がなく始まってしまう。そのため、エヴァの成績は振るわず研究も進まなかった。


 このままではいけない、と頭で分かっていても体が順応してくれない。

 エヴァは仕方なく、眠れない日は寮を抜け出し、ノグレー院を見下ろすことが出来る丘まで行く。そして、亡き実母が教えてくれた異国の詩を口ずさむのが日課になっていた。

 彼が落ち込むエヴァを見つけたのは、突然のことである。


「寝ないと支障が出るぞ。ノグレー院は入るのは難関だが、落ちるのは容易だ。うかうかしているとあっという間に退学になる」


 詩を紡ぐエヴァに淡々とフィンは言った。彼女は振り返り、フィンを見やる。心配してここに来たのだろうか、無愛想で微塵も心配の二文字は感じられないが。どうしてここにいるのが分かったのか聞いてみると、フィンはノグレー院の方に視線を向けて答える。


「聞いたことがない歌が聞こえてくるのでずっと不思議に思っていたんだ。聞こえてくる方角からおそらくこのあたりにいるだろう、と思って来たら君がいたというわけさ」

「この詩は異国の言葉で『和歌』と呼ぶらしいの。実の両親が亡くなって親代わりに養父母が私を育ててくれた……彼らを偲ぶ時はいつも詠うわ」


 彼はエヴァの隣に座ると、一言「そうか」と相槌を打つ。そして、おもむろに鞄をあさり水筒を取り出す。持ち運び可能なティーカップに水筒の中身を注ぐ。月光に照らされた液体は薄い黄金色に見える。湯気とともに花の芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。


「これはリラックス効果のあるハーブをブレンドした紅茶なんだ。一口飲むと良い」


 そう言ってフィンはティーカップを手渡す。香りを嗅ぐだけでも気持ちが落ち着く。エヴァはお礼を言ってから、熱い茶をこくんと一口飲む。口の中に爽やかな香りと味が広がる。


「……貴方が寮の部屋に居て声が聞こえるってことは、私もしかして相当大きな声を出してたかしら」

「私は特別耳がいいんだ。夜中に詠っているということは眠れていないんだろうな、と思ってハーブティーを持ってきたんだ。今日は眠れると良いな」


 エヴァは笑った。フィンとは同級生なので座学の時間はずっと一緒だ。だが、交流を持ったことはなく、あくまでクラスメイトとして接してきた。彼はエヴァに興味がないものだと思っていたから、こうして気にかけてくれることが嬉しい。


 この夜からフィンは毎晩エヴァの部屋にハーブティーを届けてくれるようになった。毎回、違う茶葉をブレンドしたもので、フィンがエヴァの体調をとても気にしてくれることがよく分かる。紅茶を飲んで眠れることが増えたが、それでも眠れない時は、フィンも一緒に夜を過ごしてくれた。とりとめのない話をして、いつの間にか朝日が昇っていた時は、一人で朝を迎えるよりもずっと楽しかった。


 もちろん男女の関係になったことはないのだが、エヴァとフィンが仲良くなるのに時間はかからない。気がつけば、ただの同級生からかけがえのない仲間になっていた。

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