隠された秋

 もうおしまいだ。大学のベンチで沢渡邦彦にみつかった時、理沙は真っ先にそう思った。

 あの最低最悪の事件で最後の犠牲者になった理沙にとって、自分を知る相手というのは恐怖そのものでしかない。それはあの出来事の実質的な最初の被害者である邦彦相手でも変わらない。むしろ、かつてのクラスメートであるということは、より自らのことを知っている相手であるのだから、いくら恐れても恐れたりない。

「やっぱり、新田だよな。雰囲気は変わってるけど」

 以前よりこころなしか髪を伸ばした邦彦は、どこか懐かし気に目を細めている。そこには悪意は感じとれなかったが、だからといって気を許せるかといえば話は別だ。

「新田? あたしは三浦ですよ。人違いじゃないですか?」

 数年前、両親の離婚が成立し、今の理沙は母の旧姓を名乗っている。今も傷が癒えぬ悲しい出来事だったが、今回ばかりは救われた、

「ごまかさないでもいい。俺馬鹿だけど、昔のクラスメートくらいはおぼえてるよ」

 ……わけではなかったらしい。どうやら、ごまかすとかそういうのを越えて、邦彦は理沙を本人だと確信しているらしかった。

 クラスでグループも違った他人のことななんてよくおぼえていられるね。昔から人の顔と名前が一致しにくく、半ば漢字や英語の暗記並みに頑張って暗記し、クラスが変わったらすぐに忘れる理沙からすれば、かつてのクラスメートの記憶力は驚異的だった。今日、理沙の中で邦彦の顔と名前が一致しているのは、ひとえにとても目立つ生徒だったからに他ならない。

「どうする気?」

「どうするって?」

 不思議そうに聞き返してくる邦彦。そこには一見して、親しみ以外の感情が窺えなかったが、理沙は自らの判断が欠片も信じられず、

「何か用があったからここに来たんでしょ?」

 相手の真意を探ろうとする。しかし、邦彦は戸惑うようにして、頭の後ろを掻いた。

「って、言われてもなぁ。新田をみつけたのも」

「三浦」

「いや、新田だろ」

「今は三浦。外で新田って呼ばないで」

 言いながら、周りを確認する。幸い、通りがかる学生や講師はこちらを気にしていないようだったが、万一バレたらと思うと、気が気ではない。誰でもとまでは言わないまでも、新田理沙の名はあの事件以降、知れ渡ってしまっている。

「わかった。とにかく、にっ……三浦をみつけたのも、散歩しててたまたま見覚えのあるやつがいたから、近付いたってだけでさ」

 嘘はないように見えた。ほっと息を吐いてから、立ち上り踵を返す。

「だったら、もういいよね」

 ろくに友だちもいないのに、日々盛り上がる、学祭の空気だけは感じたくなって休日の大学へと足を運んでいたが、こと今日にかぎっては失敗だった。まともに誰とも繋がれなくなった今、楽し気にしている連中を見ていると、惨めさが膨らんでしまうばかりで、毒でしかない。おまけに、会いたくない人間とも顔を合わせてしまったのだから、最悪だった。

「待てって」

 止められる。やっぱり、なにかしらの目的があるのかと振り向いて驚く。先程まで親しみとほのかな明るさに満ちていた邦彦の顔は、寂しげかつ縋るようなものに変わっていた。

「せっかくまた会ったんだからさ。どっかで、お茶でも」

「……あたしと沢渡君、そんなにかかわりなかったでしょ」

 邦彦側は毎朝元気に挨拶をして来たし、理沙も応じてはいた。しかし、前者に関してはクラスの誰に対してでもあったし、後者に関しても当時の理沙は邦彦をはじめとした運動部全体を鬱陶しく感じていたので、ぞんざいなものだった。ゆえに、再会したからといってわざわざ、お茶をする仲でもないだろう。

「それはそうかもしれないけどさ……」

 眉間に皺を寄せる邦彦は、なにかしらの言葉を絞りだそうとしていたが、なかなか出てこないらしかった。理沙としても、できれば帰らせて欲しいと思う一方、かつてのクラスメートの様子に徐々に後ろ髪を引かれはじめてもいる。

「こういうのは、大事にしたいなって」

「こういうの?」

「こういうの、としか言いようがないけど、とにかく、もうちょい、にっ……三浦と話をしたいっていうかさ」

 気まずそうにこちらをちらちらと上目遣いを向ける邦彦。

 こんな人だったっけ? 昔を思い出して、首を捻る。少なくとも、理沙の知っているこのかつてのクラスメートは、もっとはきはきしていて、自分以外の誰かの顔を窺うようなマネはしなかったおぼえがあった。

 一拍遅れて気が付く。あんなことがあったのなら、変わらざるを得ない、のだと。とりわけ、最初に晒しものになった邦彦ともなれば、思うところが色々とあるのだろう。もしかしたら、理沙と形の似た孤独を、邦彦も感じているのかもしれない、と。


 場所は大学から大分離れたところにある、あまり入ったことのない喫茶店を選んだ。かつていた土地からは既に離れており、知り合いも少なく、外見もかつてと大分変えているつもりではあったが、すぐそばにいる邦彦に一発で見抜かれたところからも過信はできないだろう。

 そんなわけで、お互いにコーヒーを一杯ずつ頼んで、なんとはなしに向かい合ったのだが、

「大学って、楽しいか?」

「そんなに。単位だけはちゃんととってるけど」

「……そっか」

 会話は弾まない。

 気を遣ってくれているのか、邦彦はしきりに話題を振ってくれているが、どうにも素っ気なくなってしまう。まともに母以外の人間と話すのが久々であったし、そもそも着いてきたとはいえ、気乗りしないのは変わらないのだ。

「俺の方は、毎日、工事現場で、代り映えのない毎日だよ。体力だけはあるからなんとかなってるけど、日々に潤いがないんだよな」

 さほど興味のない他人の近況報告。いまだに親の脛を齧り、バイトすらしていない理沙からすれば憧れを抱かなくはなかったが、たいして面白くもない話だった。

 やっぱり、来なければ良かった。そう思いつつも、コーヒーを一口。温くなったそれは、端的に言って不味い。

 ふと、向かいを見れば、しきりに何個も角砂糖を突っ込む大柄の男。そう言えば、一口飲んで顔を顰めていたな、とコーヒーが届いたばかりの何分か前のことを思い出す。クスリと、笑いが漏れた。

「そんなに入れたら、溶けないでしょ」

「そうだけどさ……よくこんな苦いもの飲めるな」

「あたしはこっちの方が好きだからね。むしろ、砂糖をがんがん入れる方が理解に苦しむっていうか」

 とはいえ、かつて理沙の周りにいた友人たちも、コーヒーを飲まないものと砂糖を入れまくる人間しかいなかったので、邦彦の行動自体は理解できたが。

「この甘いのがいいんだって」

「苦い方が好き」

「さてはピーマンとか好きだな」

「そういうそっちはニンジンが好きで、好き嫌いする子にマウントとってたりしたんじゃないの」

「そんなことしねぇよ。たしかにニンジンは好きだけどさ」

「やっぱり」

 予想通りすぎておかしくなってくる。こういう、キャラだよね、沢渡君。

 邦彦はなんで笑うんだよ、とむくれていたが、やがて、慈しむみたいな目でこちらを見てくる。

「なに、その目」

「いや、なんて言うか……」

 躊躇うような言い方。かつてだったら、すぐに吐き出していただろう辺りからすれば、大分、変わったのだろう、という気はする。

「新田ってそんな笑い方するんだなって」

 三浦だって、と言おうとして言えなかった。

「そんな笑い方って?」

「素直っていうか……昔はもうちょい、周りに合わせてる感じがあったから」

 あんたら陽キャのせいでしょ。思わず、そんなことが口に出そうになって引っこめる。いや、自分のせいだと。あの事件が起こる前から、人の顔ばっかり気にして、足並みを揃えるみたいに会話をし、少しでも自らの自尊心を満たそうと顔が良い彼氏と付き合った。今の地位から滑り落ちないことばかり気にしながら、息苦しい毎日を送った。だから、周りのみんなが自動的に地位を落としていくあの事件の際、全員の上に立てるかもしれないと思った。その結果が今だと思うと、惨めになる。

「泣くなって……」

「泣いてない!」

 叫んでから、理沙は二の腕で両目を拭う。たしかに濡れているが、これは汗なのだと。

「新田は、笑っててくれよ」

 悲痛な、祈るような声。かつて心から鬱陶しがっていた少年だった男のそれを、身勝手な願いだと感じる一方、今の理沙に笑ってほしい、とみとめてくれてることに胸を熱くもしている。

 やがて、目からの汗も枯れ果てたあと、

「だったら、沢渡君が面白いこと言ってくれないとなぁ」

 冗談めかしてそう口にした。邦彦は、目を瞬かせたあと、

「そういうのが一番、難しいんだよ」

 昔なら、自信があったんだけどな。悔し気に口にする沢渡に、目を細める

「大丈夫。あの頃の沢渡君が一番つまんなかったから」

「……まじかぁ」

 自信なくすなぁ。頭を抱える邦彦に腹をかかえておかしがりながら、窓の外に目を向ける。黄色くなった紅葉を目の端に焼きつけた。

 この楽しかった瞬間だけは、忘れたくないな、と思った。

 

 

 

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ヒドゥンゴールド ムラサキハルカ @harukamurasaki

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