ヒドゥンゴールド

ムラサキハルカ

黄金の春

 桜の木の下。ピクニックシートに転がり、暖かな枕に頭を寝かせ薄桃色の花弁を見上げながら、邦彦はぼんやり夢気分だった。直後に女の穏やかな顔が景色を遮った。

「邦彦君」

「……そういや、そうだったな」

 つい最近までの生活を思えばリアリティがなさ過ぎる見つめ合いに、幸せ……というよりも、当惑をおぼえる。女は赤いカラーコンタクトレンズ越しにキョトンとした目を向けてくる。

「どうしたの?」

 女の問いに、なんでもない、と答えてから、膝枕元に置いてあった桃チューハイをこぼさないように注意しながら傾ける。

「あたしももらっていい?」

 むせこまないよう喉から流しこんだあと、無言で缶を掲げる。受けとった女はけっこうな量を豪快に飲んでから、勢いよく息を吐き出す。

「このために生きてる気がするね」

 甘さ控えめだったら、尚いいね。満足げにそう告げる。

「ダメ学生……」

「なんか、言った?」

「いや、なんでも」

 無言の圧力に一瞬で屈したあと、後頭部の柔らかくも固い温かさに身を任せる。

相も変わらず空は、見下ろしてくる女の顔に塞がれ見えない。今日の快晴を思えば、ほんの少し残念だったが、これはこれで悪くなかった。

 それにしてもだ。

「そんなにじっと見られると恥ずいんだけど」

 視線を逸らす女の反応に、今更そんなことを恥ずかしがるような間柄でもないだろうに、という気持ちと、これはこれで新鮮である気もしている。そして、邦彦の中で、この女はあの秋から今の今まで、どこか知らない女のままであるということも。

「だから、見ないでってば」

「なら、寝るか」

 目を瞑る。まどろみ。途端に浮き上がってくる僅かばかりの不安。

 少し前まで、人の目ばかり気にしていた。

 高校生の修学旅行。あの悪夢のような事件が起こってから、邦彦は今まで気にしていなかった他者の本心を窺い怯えるようになった。表では皆、事件に巻き込まれた邦彦を含めた被害者たちに同情する態度をとる。しかしながらその裏、一皮剝いてしまえば、俺のことを馬鹿にしているんじゃないか。そんな猜疑の種が生まれてからというもの、邦彦は人を信じられなくなった。レギュラーだった野球部からも退部し、可能なかぎり家に籠る。世間の目を気にした邦彦の心情を汲みとってか、親が転校を決断してくれたおかげで、多少心理的には楽になったが、家にばかりいるのには変わりがなかった。

 卒業後は大学に行くほどの頭もやる気もなかったので、外に出るのは嫌だったものの渋々工事や引っ越しのバイトに身を投げた。必要最低限の他者とのコミュニケーションをとり、仕事だけを黙々とこなs毎日を送っていた。

 そんなある休日、掃除をするから出て行ってと母親に言われた。俺がするからいい、と断ろうとした邦彦に、母親は、たまには気分転換してきなさい、というや否や、シッシッと追い払うように手を動かした。その際、どことなく疲れ気味の顔を母と、その後ろでテレビの囲碁講座を見ていた父親に見出し、わかった、と玄関へと向かった。

 どこにいても、迷惑をかけてしまう。居場所のなさを感じつつ、邦彦は街へと繰り出した。とはいっても、あてはない。かつてであれば、部活のない日に、部の仲間やクラスメートたちとカラオケやらボーリング、ゲーセンに繰りだしていたが、事件以降しばらくしてから転校したことや、生まれた他者への猜疑心によって、多くいた友人たちとも疎遠になっていた。

 どうしたものか、と時間を潰すように延々と歩く。本来であれば、明日の仕事に備えてゴロゴロしておきたいところだったが、その選択が迷惑に繋がると知ってしまった以上、せめて日が高いうちくらいは家にいない方がいい。わかってはいても、やりたいこともなければ目的もない邦彦は適当に歩き続け、夕方頃、街の片隅にひっそりとある大学の前でふと足を止めた。

 休日であるにもかかわらず、それなりに人はいるらしく、あちこちから談笑が聞こえてくる。外からでも見える大きな立看板には、赤い文字ででかでかと『大学祭』と書かれていて、腑に落ちた。たしかにそういう時期かもしれないと思うと同時に、もしかしたらこんな未来があったかもしれない、と邦彦はたそがれた。

 ふと、立て看板から少し離れたところにあるベンチに目が引き寄せられた。紺のジージャンと同じ色のデニムらしきものを着ている短い髪の人影がうつむきがちに座っている。遠目からではあるが、おそらく女だろう、と邦彦は直観的に思う。

 なぜ、気になるのだろう。頭の中での引っかかりの答え合わせをしてみれば、それは何かしらの見覚えによるものだと理解できた。どこで見たのだろう。気が付けば、門の脇に書いてある、関係者以外立ち入り禁止の文面も無視して、学内へと踏み込み、ベンチまで近付いていた。

 足音に気付いたのだろう。ベンチに座った人物――やっぱり女だった――がどこか暗そうな顔を上げて、大きな赤い目を瞬かせた。あまり、特徴がない顔だというのが第一印象だった。目の色からすれば異国の血が混じっているのかとも思ったが、かつて親交があったクラスメートの女が同じような目をしていたことから、カラーコンタクトだと瞬時に判断した。そして、やっぱりどことなく、見覚えがあった。

 数秒、流れ込んでくる情報から、考え、感じたことをまとめていく。そして、

 お前、新田理沙か?

 そう問いかけると同時に、女は顔を青ざめさせて、

「理沙」

「なに?」

 目を開ければ、優しい笑顔がある。つい、一瞬前まで頭に浮かべていた表情とは正反対だ。再会して半年と少し。随分と、変わった。

「呼んだだけだ」

「なにそれ」

 チューハイを変な角度で邦彦の口に突っ込もうとする理沙を両腕で静止しようとする。その際、ベージュのセーター越しに伝わってくる体温に、どことなくほっとした。

「もうそろそろ、重いんだけど」

「なにが」

「邦彦君の頭」

「悪い」

 身を起そうとする頭部を、慌ててビール缶を置いた理沙に抑えられ、自然とのけ反る。

「ごめん、冗談。本気にするとは思ってなくて」

「無理しなくてもいいんだぞ」

「無理じゃない」

 強く断言した理沙は、ガシガシと邦彦の髪を搔き回してから、

「あたしが……こうしていたいの」

 言ってから、顔を逸らす。陰になってよく見えなかったが、耳がほんのりと赤くなっている気がした。途端に、邦彦はわずかばかりこわばっていた体から力を抜く。

「だったら、もう少しだけこうしてていいか?」

「うん……お願い」

 いつの間にか、ほっそりとした手は邦彦の髪を撫ではじめている。素肌の体温を感じながら、穏やかな顔を見上げた。できれば、ずっとこの安堵したような表情を見ていられればいいな。そうやって、ひらひらと落ちる花弁を背景にした理沙をいつまで見ていた。

 

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