第1章 修行に明け暮れた幼年期

第1話 転生先の日本?にて

 次に目を開くと、そこにあったのは、木製の天井と思しき風景だった。何故思しき、などと曖昧な表現をしたかと言えば、視界がぼやけていてはっきりと見えていないからである。視界に入っているのが木製の天井だと判断したのは、これまでの経験を元にした勘でしかない。


 それでも確かなことが一つある。この懐かしいにおい。そう、真新しいたたみのにおいだ。赤ん坊の嗅覚は、大人よりも上と言われている。視覚が発達していない分、音やにおいに敏感なのだとか。俺にとってはかなり古い情報になるが、このにおいが畳のもので間違いないなら、少なくとも地球への転生には成功したのだろう。


 俺の周りを囲んでいる柵のような物は、恐らくベビーベッドの囲い。首が据わっておらず、自由に首を動かせないので、まともに周囲を確認することは出来ないものの、雰囲気から察するに、たぶん日本家屋の一室と思われる。


「……あぅ」


 やはりまだ言葉は喋れないか。それもそうだろう。この身体はまだ未発達。意味のある単語を喋れるようになるのに、1年くらいはかかる。2語となれば、その倍。普通に会話が出来るようになるには、数年が必要だ。


 さて、こうして赤ん坊に転生するのも最早慣れたもの。今は周囲に人はいないようだが、この状態の赤子を長く放置する親はいないはず。そのうち、今回の俺の母親辺りが、ひょっこりと顔を出すだろう。


 こうして一人でいる間に、今の能力でも把握しておくか。そう思った俺は、出来る範囲で身体を動かしてみる。思っていたよりも身体は動かない。まだ筋力が足りないのだ。


 今までは女神の加護によって、身体能力が高い状態で生まれてくるのが基本だったので、こうして赤ん坊らしい能力しかないのは珍しい。どうやらオルフェリーゼは、約束通り、ちゃんと一般人並の能力しか与えなかったようだ。


 おかしな能力が備わっているという感覚もない。どう考えても一般人。これぞ俺が求めていた隠居ライフである。


 と、誰か人が近づいてくる気配。足音の感じからして女性だ。たぶん今回の転生における俺の母親だろう。


 部屋の引き戸を開けて入って来た人物は、そのまま俺のいるベビーベッドの前までやって来た。


「あ、朝陽あさひ。起きたのね。そろそろおっぱいの時間かしら」


 どうやら朝陽と言うのが、今回の俺の名前らしい。下手に返事をして怪しまれても困るので、俺は身体をもぞもぞと動かすに留める。


 女性に抱き上げられてようやく、彼女の顔が視認出来た。肩にかかるくらいの髪をうなじ辺りで結い上げた、美しい女性だ。今着ているのは洋服だが、和装もさぞ似合うに違いない。


 女性が授乳のために服を巻くり上げるが、性的に興奮するかと問われれば、答えはノー。身体の方に感覚が引っ張られているのか、これまで母親に欲情したことはない。近づけられた乳首に身体の方が条件反射で吸い付き、母乳を口にする。


 味は、割りと美味い。赤ん坊の舌は甘味とうま味を感じる部分が最初に育つので、積極的に受け入れるのだとか。肉体は本能的に、それが成長に必要な栄養素だということがわかっているのだろう。酸味や苦味といった他の味覚を受け入れられるようになるのは、まだ当分先の話だが、早く日本食を味わえるようになりたいものだ。


 しかし、我が子の成長を喜ぶ母親の姿というのは、いつ見ても微笑ましいものである。思わず笑みをこぼした俺の様子を見て、彼女は更に笑顔になった。


 だが、その笑顔もすぐに曇ってしまう。


「この子は無事に育ってくれるかしら……」


 ふと彼女の口から漏れた不穏な言葉。そう言えば、生まれたばかりの俺に、彼女がかけた一言が気になる。


 妖。彼女は確かにそう言った。それが俺が想像した通りのものなら、この日本らしき世界には、人に危害を加える人外が存在することになる。妖というのがどの程度の危険度なのかは未知数だが、どうやら平穏な日本への転生には失敗したらしい。


 途中で沈んだ顔になっていることに気付いたのか、彼女は取り繕うように笑顔を浮かべる。


「さぁ、お腹もいっぱいになったし、オムツ替えてお寝んねしよっか」


 慣れた手つきで俺のオムツを替え、再びベッドに寝かせる彼女。優しく赤子を見守る母の姿は、どの世界でもあまり変わらないものだ。かつての転生先では、稀に俺に秘められたチート能力の片鱗を感じて気味悪がり、親に捨てられることもあったが、少なくとも今回の転生ではそうはならないだろう。


 本当は眠くなどないのだが、起きていたところでやることがない。もっと身体が成長し、自分で出来ることが増えるまでは、こうしてひたすらに睡眠と覚醒を繰り返す他ないのだ。


 そろそろ眠りに落ちようかという矢先、不意に感じた妙な気配に、俺の意識は急激に覚醒した。


 何か嫌なものが近付いて来る。そう思ったのは俺だけではないらしい。母親もまた、気配を感じているようで身構えている。


「そんな!? ここは八神やつがみ家の結界で守られているのに!?」


 大昔の日本ならいざ知らず。2020年代の日本において、結界などという単語を口にする機会など、そうはない。そんなものがあるということは、そうまでして守る必要があるということだ。


 何か策を講じたいところだが、生憎、今の俺は何の特殊能力も持たない赤ん坊。母親の方も、特別に戦うすべを持っているようには見えない。


 このままでは絶体絶命だ。何か、今の俺に出来ることはないか。俺は懸命に過去の知識を漁る。ここが俺の知る現代日本でないとしたら、もしかしたら何らかの超常的な力が、この世界には存在しているかも知れない。


 その力にコンタクトを取ることが出来れば、この窮地を逃れる術もあるはず。とにかく、この場ですぐに使えて、敵性存在と思しき接近者を無力化出来る能力はないか。


 その時、俺の脳裏に、かつての転生先で得た一つの技が閃いた。

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