第??話 菫ーすみれー 前編

珈琲の美味しさがよく分からない。


サイフォンから滴り落ちる黒茶色の液体を眺めながら、私はぼんやりとそんなことを思う。


それでも、珈琲を入れる母の姿は好きだった。


腰まで伸びたポニーテールが揺れる、どうやら今日は機嫌が良い様子。


私は思わず、以前怒らせてしまった時のことを思い出す。


珈琲を勝手に飲み、あまりにも苦くて洗面台へ流したのが見つかった時だ。


あの日の母の目は……とても怖かった。できることなら、もう二度とお目にかかりたくない。


――入店を知らせるベルが店内に鳴り響き、見慣れた顔が視界に飛び込む。


誰が来たのかを理解して、私はすぐ母の機嫌の理由を察した。


……なるほど、だからか。


来て早々に私を抱きしめながら、母へ話しかける彼女。


大人な見た目とは裏腹に若々しさ溢れる様子の女性と、ため息混じりに応対する母。


私は知っている、こう見えて本当は今日を楽しみにしていたことを。


彼女のことは度々話題にあがる。きっと母にとっても大事な存在なのだろう。


かけがえのない人、そこに血の繋がりは関係ない。


――古びた掛け時計を見て、私は約束を思い出す。


私をぬいぐるみのように扱う彼女から離れ、何とか店から抜け出すことに成功する。


もう約束の時間だ。今日は一体どんなところに連れていってもらえるのか。


「あっ! 来た来た!」


階段をかけ降りて外に出ると、そこには可愛らしいフリルがあしらわれたワンピース姿を身に纏う、私の好きな怜さんが待っていた。


可愛い服を好きになった要因であり、私の憧れの人。


「約束の話だけど……本当にボクのお下がりで良いの? 新品の服が欲しいなら、ボクが店長に内緒で……」


お下がりを欲しがることに疑問を感じているのか、怜さんが顎に指を当てながら問いかける。


しかし私は、そんな提案に食い気味で抗議の意思を表した。


「ふーん……君も店長に似て変わった子だね。よし、それなら今すぐボクの家に行こう! とっておきの服をプレゼントしてあげるよ!」


どこかご機嫌な怜さんが、小さな私の手を取って走り出す。


嬉しそうな怜さんを見て、思わず私も笑顔になる。


――今日は、どんな服をくれるんだろう。私は、これから待ち受ける出来事に胸を膨らませていた。

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