第9話 私が私であるために 後編
すっかり日も落ち、ひぐらしの喧騒が聞こえ始める現在。私は沢崎さんたちと別れて一人住宅街を歩いていた。
あの後といえば、フェリーに乗ったりトンビに襲われたり、それを見た沢崎さんが捕まえようと躍起になったりと、色々な出来事があった。
本当に楽しかった時間。とても、今日初めて会ったとは思えないほどに。
「……こんな気持ち、いつ振りだろ」
思わず、そんな言葉が漏れる。
日々の苦しさに耐え、今を生きるのが辛いものでしかなかった私にとって、これはあまりにも久しい感情だった。
沢崎さんたちから勇気をもらえた気がする。ずっと言えなかったけど、これを機に今までのことをお母さんに相談してみよう。
帰路の途中、私はそんなことを心に決めていた。
******
――家に帰って早々、私の耳に飛んできたのは母からの罵声だった。
学校から連絡があり、今日私が学校に行っていなかったことを母は知っていたのだ。
すぐに弁明しようとしたものの、近隣の人から私が不良の人と遊んでいたのを耳にしていたらしく、そこを指摘されてしまい思わず言い淀む。
親に迷惑をかけるなという、母から口酸っぱく言われていた言葉を思い出す。
激昂した母に頬を叩かれ、私は玄関に倒れ込んだ。
怒りに満ちた母の眼差しが私を容赦なく見下ろす。これまでの行いなんて、母には関係ないのだ。
これまでがどうだったかなんて、きっと母にはどうでもいいのだろう。
今この瞬間が大事なのだ。だからこそ不良と化した娘に対して母は激怒している。弁明を聞いてすらもらえない自身の信用の低さに、私は自嘲の笑みが零れそうだった。
ヒステリックに叫ぶ母の姿が、段々と醜いモノに見えてくる。自分の目が拒絶しているのか、母ではない何かに見え始めているような錯覚さえ感じて。
――心の中で、何かが切れる音がした。
私は胸の奥からこみ上げる吐き気と、目の前の恐怖から逃げ出すように家を飛び出した。
ああ、現実はいつだって残酷だ。上手くいく人生なんてありはしない。私はそんな当たり前の事実を突きつけられているようだった。
どこで間違えたのか、何が悪かったのか、私はどうすれば良かったのか。
何もわからない、ただ……私を見下ろす母の目が怖かった。
背後から聞こえてくる母の甲高い叫びを無視して、私は全てから逃げるように……ひたすらに走り続けた。
******
日も沈みかけた夕暮れ、水平線に消えかかっている太陽。辺りはすっかり暗くなっている。
ひたすらに走り続けた私は、気づけば
息を切らしながら、思わず石階段に座り込む。鳴り止まない動悸の原因は、きっと疲労だけじゃない。
過呼吸気味になりながらも、私は必死に息を整える。
理由もなく空を仰ぐ。不思議と涙は出てこない。ただ心に巣食うのは言い得ぬ絶望だけ。
心が仄暗い深淵に堕ちていくようだった。濁った闇の先で、悪魔がこちらを嘲笑っているような感覚。
これからどうしようかなんて何も考えていなかった。気づけば身体は走り出していたのだ。多分、あの時私は本能で動いていた。
「…………」
視線を目の前に広がる海へ向ける。穏やかに波打つ様子、心地よいさざ波の音が耳に優しく響く。時間は、大地は、誰に対しても平等だ。だからこそ、今の私を受け入れてくれるような気がした。
少し離れた先で数人が花火をしていた。そこから一人、こちらに歩いてくる人影。
「……何してるの? こんなところで」
石階段の下、砂浜からこちらを見上げるように話しかけてくる知らない男性。
年齢は二十代だろうか、Tシャツと短パン、薄暗い状況でもわかる焼けた肌。
「…………」
無視を決め込む私に対し、こちらへ近づいてくる男性。
「ねえねえ、よかったら俺たちと遊ばない?」
薄暗い状況でこちらをきちんと把握していないのだろうか、もしくはそういう性癖なのか。相手は小学生だというのにナンパをしてくる男性。
行く宛もないし、いっそこの人についていくのも良いかもしれない。
たとえ、それで死ぬとしても……今の私には本望だ。
「悪いな、俺との先約があるんだ」
――不意に背後から聞こえてくる声。はっきりと耳に通る、低めの女性の声。
「ん? 誰あんた?」
「あ、あなたは……」
聞き覚えのある声に思わず振り返る。そこには、先程まで一緒にいた沢崎さんの姿。
「あ? こいつのダチだけど」
「……って、よく見たら女か。何だ、それなら君も一緒に遊ばない?」
「……おいおい、女なら何でも良いってか。しゃあねえな、じゃあ俺と遊んでもらおうか」
そう言って、気だるそうに躊躇いなく男性の腹部を蹴る。体勢を崩しかけた男性の目つきが豹変した。
「危ねえ! おい、何しやが――」
「遊んでくれるんだろ? おら! 早く遊ぼうぜ!」
間髪入れずに男性をもう一度蹴り、石階段から砂浜へ突き落とす。下が砂浜じゃなかったら、多分大怪我していただろう。
「な、何なんだこいつ!」
「うるせえな……今俺は虫の居所が悪いんだよ」
倒れ込む男性の胸ぐらを掴んで、そう威圧する沢崎さん。
「黙って選べ。今すぐ消えるか……死ぬまで殴られるか」
ドスの効いた沢崎さんの脅しに、男性はいそいそと無言で去っていく。
「……はぁ」
手を払いながら、深い溜息をつく沢崎さん。
「……何で、ここにいるってわかったんですか」
「悪い。実は陰で見てたんだ」
バツの悪そうな表情で、沢崎さんが白状する。
聞けば、沢崎さんたちは私を連れ回してしまった責任を感じていたらしく、何かあれば代わりに親に弁解し、助け舟を出そうと待機していたのだという。
「……そういうことだったんですね。それで、飛び出した私を追いかけてきたと」
「……ああ」
「笑えますよね。これまでちゃんと生きてきたはずなのに、たった一回の出来事でこうも信用をなくすなんて」
自らを嘲笑うかのように話を続ける。そうでもしないと、心の平穏が保てなかった。
「でも良いんです、おかげで決心出来ましたから。沢崎さんもありがとうございました。こんな私を気にかけてくれて」
「…………」
虚ろな目で流暢に話す私を、沢崎さんが黙って見つめる。
「何ですか、その目。私を憐れんでいるんですか? 確かに沢崎さんは友達がたくさんいますもんね。私のような独りの気持ちなんてわからないですよね! 私のことを友達だなんて言ってくれましたけど、どうせあれも同情ですもんね!」
沢崎さんから向けられる真っ直ぐな眼差しを見ていられなくて、私は声を荒げる。
「誰になんて言われようと、死んでやりますよ! ええ! たとえそれで喜ぶ人がいたとしても、どうだっていい! 私は死んで楽になるんだ!」
それは心の内から来る本心の叫びだった。悲しみ、悔しさ、怒り、あらゆる感情でごちゃまぜになった今の私の、どうしようもない感情の吐露。
「……わかった」
沢崎さんが、静かに呟く。そして、同時に石階段をのぼり私の手首を掴んだ。
「え?」
意味もわからぬまま沢崎さんに引っ張られ、砂浜へ降りる。
そのまま海へまっすぐ進む沢崎さんに、私は若干の恐怖を感じた。
「ちょ……ちょっと、何ですか!」
無理やり沢崎さんの腕を引き剥がそうとするも、びくともしない。
「死ぬんだろ?」
「そ、そうですよ!」
「だったら、俺も付き合ってやるよ」
「は……?」
真剣な表情で答える沢崎さんに、私はいよいよ理解が追いつかなくなる。
な、何を言っているんだこの人……!
「ちょっと! ちょっと待ってくださいよ! だからってなんで沢崎さんが!」
「俺は馬鹿だからさ、こういうやり方でしかダチと向き合えねえんだ」
私の叫びも意に介さず、まっすぐ海へと進む沢崎さん。
ぬかるんだ砂浜に足をとられ、転びそうになる。
それでも変わらず進み続け、気づけば膝下まで海に浸かって濡れていた。
濡れることすらいとわず、波を切って前進していく。
「待って! 待ってってば!」
襲いかかる波が顔にかかる。冷たい海水が一気に私の意識を醒まし、死という存在が脳裏によぎる。
私の声を聞いても止まることなく進み続ける沢崎さん。私は溺れそうになりながら必死に叫び続けた。
海水が口の中に入り、思わずむせかえる。それでも進んでいく沢崎さんに、私はようやく彼女が本気であることを理解した。
「がはっ! ちょっ……!」
溺れないよう必死に顔を出すも、波に襲われ呼吸が難しくなる。
足すらつかず、必死に息をしようと足掻くように暴れる。
ここで私は明確に、今までぼんやりとでしかなかった死の恐怖を感じた。
溺れそうになりながら、本能が死を恐怖し、あろうことか拒絶していた。
あそこまで心が追い込まれ、死を願っていたというのに。それでも今の私はみっともなく生を求めていた。
「嫌だっ……死にたく……ない……!」
波にのまれそうになりながら必死に叫んだ私の声を聞いて、沢崎さんがようやく止まって、すぐに私を抱きかかえる。
「……ったく、遅えってんだよ」
どこか満足した様子で、私を抱きかかえたまま引き返すのだった。
******
やがて、波打ち際にまで戻ってきた私は、嗚咽混じりに涙を流していた。
「ごほっ……! はっ……!」
「これでわかったか? 死ぬってことがどんなに辛く、怖いのか」
私の背中をさすりながら、沢崎さんが問いかける。
「本当はもっと早く引き返す予定だったんだけど、お前があんまりにも言わないから……正直焦ったぞ」
「……ご、ごめん……なさい」
「バカ、謝るなって。むしろ謝るのは俺だよ。流石に小学生相手に、荒療治過ぎた」
申し訳無さそうに謝罪する沢崎さんに、私は首を横に振った。
「俺もさ、昔……死にたいって思ったことがあったんだよ。それで、いざ本当に死のうとしてみたらめっちゃ怖くてさ。死ぬと決めて死ねない自分に、そもそも死にたくなった原因とか色んなことに段々イライラして。最終的に何で俺が死ななきゃいけないんだって思ってさ」
「沢崎さんにも……あったの……?」
「ああ。多分、他の奴らもそうだよ。皆言わないだけで、死にたいと思ったことや死のうとしたことなんて、一度や二度くらいあるんじゃねえかな」
「そう……なんだ」
「別に皆も辛いからお前も耐えろって言ってるわけじゃないぞ。お前の辛さはお前だけのものだ、お前にしかわからない辛さがそこにはある。ただ、その辛さに負けて終わってしまったら駄目だ」
「…………」
「負けるんじゃない。ずっと勝ち続けるんだ。誰のためでもなく、お前がお前であり続けるために。好き放題言ってくる奴らなんて、皆ぶっ飛ばしちまえばいい」
「皆、ぶっ飛ばせばいい……そっか、あはは……そうかも」
乱暴な沢崎さんの提案に、思わず笑みがこぼれる。
「何だよ、何がおかしい」
「いえ、ただ……なんだかとっても……スッキリしました」
「……そうか。なら良かったよ」
不思議といつの間にか、心に巣食っていた闇は消え去っていて。
この日……私は本当の意味で、彼女に救われたのだった。
******
――それから。
私は家に帰るなり飛んできた母の罵声に負けじと言い返し、これまでのことを好き放題に叫び散らかした。
呆気にとられて口があいたままの母。今でも思い出すだけで笑いそうになってしまう。その日を境に母の態度は大きく変わった。
夏休み前の最後の登校日に私は、教室に入るなりイジメの主犯格の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らした。やがて騒ぎになったことで先生に止められたり。
これまでされてきたことをその場で告白したら、多くのクラスメイトが私に同調してくれたり。
少しずつだけど、自身の取り巻く環境が変わりつつあった。
それは紛れもなく、彼女のお陰で。
「あ、いたいた! 沢崎さーん!」
緑に生い茂る銀杏並木の下、一人ベンチに座る沢崎さんへ私は元気よく手を振る。
「おう、どうだった? 学校は」
「早速イジメてきた奴をぶっ飛ばそうと思ったら、皆に止められたっす」
「お、おう?」
どこか訝しげな様子で反応する沢崎さん。
「いや、俺は良いと思うんだけどさ……お前、そんなキャラだったっけ」
「何言ってるんすか! 姉さんが私を変えてくれたんすよ! 男ならもっとしゃきっとしろって!」
「いや、お前女じゃん……
何故か呆れ顔の沢崎さんに、私は自信満々に答える。
「あの日、私は姉さんに教えてもらったっす! 力こそが正義って!」
「待て待て、そんなこと言った覚えはねえ!」
頭を抱えながら、必死に沢崎さんが抗議する。
「やっべえ……親御さんにあわせる顔がねえ……こんな、白井みたいになるなんて誰も思わねえって……」
「何をぶつぶつ言ってるんすか、姉さん!」
「その姉さん呼びもやめろ……白井たちじゃないんだから」
「良いじゃないですか! 私も姉さんの仲間に入りたいっす!」
「駄目だ。そもそもお前はまだ小学生なんだぞ。今から道を踏み外すことはねえ」
そう言ってベンチから立ち上がる沢崎さん。
「まあでも、良かったよ。ちょっと白井っぽくなったのはあれだけど」
「な、なんすかその台詞……まるでもう会えないみたいな」
「会えなくなるってわけじゃねえけどさ、あんま俺たちみたいな奴とつるんでたらクラスメイトに怖がられるし、親御さんも良い思いはしない。それはお前もわかってるだろ?」
「そ、それは……」
「まあそういうことだから、達者でな。
こちらに背を向け、沢崎さんが静かに歩き出す。そんな彼女の背中を見て、私は意を決して叫ぶ。
「沢崎さんは強い人が好きなんですよね!」
「ん? ああそうだけど?」
「私! もう絶対負けません! 誰にも負けない、強い私になります!」
「……ああ」
その言葉を聞いて満足したのか、沢崎さんは私に背を向けて再び歩き始める。
「強くなって、いつか沢崎さんに勝ってみせます!」
端から見れば無謀な宣言かもしれない、それでも私は彼女に伝えたかった。
「あっはは! 良いね! 期待して待ってるよ」
手をひらひらと振りながら、こちらを見ずに反応する。
遠くなっていく沢崎さんの姿に私は、目頭を熱くしながらも構わず叫び続ける。
「それで! もし私が沢崎さんに勝ったら! その時は!」
一度息を大きく吸い込んでから、私は思いの丈を彼女にぶつけた。
「私と! 結婚してください!」
一世一代の告白、顔を真っ赤にしながら伝えた心の底からの気持ち。
沢崎さんは、相変わらず背を向けたままこちらに手を振るだけ。
段々と小さくなっていく彼女の姿を、私は見えなくなるまで追い続けた。
そして沢崎さんの姿が見えなくなってから、私も反対方向に歩き始める。
私は心に誓う。これから先、どんなことがあっても負けないと。
勝ち続けなければいけないのだ、私が私であるために。
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