はじめてのお留守番 前編
土曜日の昼下がり、夏真っ盛りである八月。外は変わらず強い日差しが大地を照り付けていた。
綺麗に磨かれたガラス窓に映る、自身の姿を見つめながら俺は首をかしげた。
「んー、やっぱまだ違和感があるな……」
ワイシャツに黒のエプロン、そして黒のスカート。
これまで生きてきて、制服以外でほとんど履いたことのないスカート。
違和感は、中々消えそうにない。
きっとこんな機会でもなければ、永遠に履くことはなかった気がする。
「似合っていると思いますよ。沢崎さん、足長いですし」
俺の独り言に返事をしてくれたのは、この店の店長代理である香笛 春風。
現在、彼女はキッチンにある冷蔵庫の中身を調べている真っ最中。俺がガラスの前で身なりを整えていることは知らない。
ここは、沼津駅から少し離れたところに位置する小さな喫茶店、ミニドリップ。
どうやら本物の店長は店をしばらく空けているらしいけど、詳細は知らない。
ま、深く聞くのは野暮ってもんだろう。
それにしても家計を支えたくてバイトを探し、何度も面接で落とされた俺が最終的にこんな雰囲気の良い喫茶店で働かせてもらえるなんて、本当に運が良い。
まあ、バイト初日に客をぶっ飛ばして危うくクビになりかけたんだけど。
「……牛乳がない」
キッチンの方で何やらぶつぶつ言っている店長。どうやら牛乳を切らしたようだ。
「それなら、俺が買ってきましょうか? テキトーに、その辺にあるスーパーまでひとっ走り……」
「いえ、他にも買いたいものがあるので私が行ってきます」
淡々とそう答え、エプロンを脱ぎ外出の準備を始める店長。
「え? でもそうなると店には俺しか……」
まだ働き始めて一週間か二週間ほど、流石に新人を一人店に置くなんて真似は……。
「大丈夫ですよ、普段この時間はお客さん来ませんし」
「俺、コーヒー淹れたことないんだけど……」
「この前、一緒に忙しい時を乗り越えたじゃないですか。コーヒーなんて見よう見まねで淹れられますよ」
何も心配はいらない、と言わんばかりにキョトンとする店長。忙しい時というのは、恐らく不良喫茶と化した日のことを言っているのだろう。
「出来るかー! そこまで器用じゃねーよ!」
この店長、まさか一週間働いたらもう新人と扱わないタイプか……?
「それに万が一だな、俺がレジの金を持ち逃げでもしたらどうするんだ!」
「本当にやる人は、そんなこと言わず黙って持っていきます。それに、大した額もないので強盗の心配もいりません。あ、でも武藤さん貯金の方には結構なお金が貯まっていたような……」
「……ん? 武藤さん貯金?」
聞きなれない言葉に俺は思わず問いかける。何だそれ、お年玉でも貯めているのか?
「コーヒー代などとは別に、武藤さんからむしり取ったお金を実は貯めていまして」
「むしり取ったって……おいおい、穏やかな話じゃないな? まさか、客から金をふんだくっているのか?」
恐ろしい話だ、こんな無害そうに見える少女が詐欺を働いていたとは。
「騙し取っているわけではありません。最近だとカラオケをした時の利用料とか、私が伊田さんへ連絡する際に積まれた一万円ですね。あれ、お店の利益として換算していませんので」
「つまり……店長がネコババを……」
「違います。武藤さんに違う形で還元するんですよ。以前、真っ直ぐ返そうとしたら断られて、頑なに譲ろうとしなかったので。仕方なくこの方法を取ることにしたんです」
どうやら俺の勘違いだったようだ。それにしても、謙虚というか何というか……。
「別にそれは素直に貰って良いと思うけどなー。それで欲しい物とか買っちゃえばいいのに」
俺たちぐらいの歳なら、欲しいものがいくらだってあるだろう。
「特に欲しい物とかありませんし。そうでなくても、武藤さんには色々と感謝してますので……」
俺に目線を合わせようとはせず、明後日の方向を見ながら呟く店長。もしかして、照れているのか?
「……そういうことなので、お店は沢崎さんに任せました。安心してください、十分もすれば戻ってきますから」
そう言って、そそくさと店から出ていく店長。
「あっ! おい……!」
空を切る右手。店内には扉に付けられたベルの音だけが響いていた。
「はぁ……こうなったら、腹をくくるか」
深呼吸してから頬を叩き、気を引き締める。
とはいえ、今日自体まだ数人しか客は来ていない。流石にそんな都合よく十分の間に客が来るとも思えない。
「まあ、とりあえず掃除でもするか」
モップを取り出して、早速掃除を始める。
今日もまた……平和に一日が終わると信じて。
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