11

 凛花が夕飯の後片付けをしている間、僕は息子と風呂に入ることになった。「それくらいできるよね?」と顔を拭くためのガーゼを渡された僕は、遊び足りないとばかりに暴れる息子をなんとか抱きかかえ、脱衣所に向かう。

 まずは息子をそっと床に置き、先に自分の服を全て脱いだ。それから、逃げ出そうとしたり、洗面台の下にある扉を開けようとしたりする息子をむんずと近寄せ、スタイをとる。トレーナーをたくし上げて左腕を裾から抜き出し、頭を抑えながら上を脱がせ、右腕も抜き出す。ズボンを下ろす。肌着を取り去り、パンツタイプのおむつの両脇を破いて丸めた後、二人で風呂場に入った。

 タイルの上には青い顔付き機関車のマットが敷いてある。凛花が用意していたのだろう。浴槽の近くに息子を置くと、勝手につかまり立ちをした。その隙に壁にかけてあるオレンジ色のシャンプーハットを取って頭に被せ、シャワーでさっと濡らす。シャンプー兼ボディソープの入ったピンク色の容器を、ごしゅ、と一回、長めに押し、白い泡を右の掌に乗せる。それを息子の頭につけて、こするように髪を洗う。髪は薄く、ほとんど地肌を撫でているような感覚だった。ぐげっ、と息子が笑う。顔は見えないが、おそらく、頬に大きな笑窪を作っているだろう。何が楽しいのか、ぐげ、ぐげっ、ぐげげげ、と笑っている。

 僕は再びシャワーを出して、息子の髪についた泡を流してやる。すると、途中でシャンプーハットが邪魔になったのか、息子はそれをとって浴槽に放り投げた。咄嗟のことに反応できず、無防備になった息子の頭をシャワーのお湯が襲う。

「あ」

 顔をガーゼで拭いてやろうと屈むと、息子と目が合った。泣いてはいなかったが、赤くなった目をゴシゴシとこすり、僕を睨みつけている。どうしてくれるんだ。お前のせいで、目が痛いじゃないか。そんな声が脳内で、それも父の声で再生される。もし、父と今でも交流があり、僕の子育ての様子を見ていたら、きっと馬鹿にされるのだろうな、と思った。

 そういえば、と僕は不意に昔の記憶を思い出す。たしかあれは小学一年生か、もしくはまだ幼稚園に通っていた頃かもしれない。その頃の僕はまだ一人で風呂に入れず、母と一緒に入ることが多かった。それが何の気まぐれか、ある日突然父が「一緒に風呂に入ってやる」と言い出したのだ。僕は当然嫌だったが逆らうこともできず、母にいたっては父が進んで子どもの面倒を見ると言い出したのが嬉しかったのか、「是非お願いします」といつも以上に柔らかい表情を浮かべていた。

 風呂場に入ると、父は口角を吊り上げながら、「髪を洗ってみろ」といった。それは言外に、「お前にはできないよな」という侮蔑を孕んでいた。ああ、こいつは面倒を見る気などなく、僕をからかいたくて一緒に風呂に入ると言い出したのだ、と僕は気がついた。

 それまで、自分で髪を洗ったことはなく、全て母にやってもらっていたが、毎日のルーティンだし、さすがに手順は覚えていた。僕は頭の中で、母に洗ってもらっている時の映像を再生させる。まずはシャンプーハットをつけ、シャンプーを手に取り、髪につける。適当にゴシゴシとこすったら、シャワーの栓をひねり、お湯を出して洗い流す。よし、できる。自信を持て。そう思って、シャンプーハットに手を伸ばした瞬間だった。

「それがないとできないの?」

 父の、ががが、という笑い声が僕を飲み込み、そこから先は手が動かなくなった。父はしばらく笑っていたが、やがて僕が何もしないことに気がつくと、髪にシャンプーをつけ、乱暴に洗い始めた。ゴツゴツとした手の感触に、僕の目から涙がこぼれる。ダメだ。泣いたりしたら、また馬鹿にされるぞ。そう思った直後、すぐに熱いシャワーが容赦なく浴びせられ、僕の涙はお湯に紛れて排水口に消えていった。

 シャワーの音が消え、用意していたタオルを手探りで探し当てて顔を拭くと、ようやく目を開くことができた。そんな僕の姿を見て、ががが、と父が笑った。

「懐かしいな」

 懐かしい? そんな言葉で振り返るような、良い記憶ではない。

「懐かしくなんか、ない」

 僕は反論した。そして直後、全身が硬直したように動きが止まった。

 今のは、誰だ。僕は、今、誰に反論したんだ。

 誰か、いるのか。慌てて立ち上がり、辺りを見回しても、狭い浴室内には僕と息子しかいない。凛花がいるのかと、すりガラス越しに脱衣場を見たが、人の気配はなかった。もしかして、幻聴だろうか。その考えを打ち消すように、再び声がした。

「懐かしいだろ。あんなに小さかったお前が、こんなに大きくなったんだから。まあ、こっちのほうは大きくならなかったみたいだけどな」

 いやにリアルな内容に、聞き覚えのある声。そして、その声は僕の下から聞こえてきた。まさか。僕はゆっくりと屈み込む。

「それにしてもさ」

 僕は息を呑んだ。息子の口が、動いていた。

「篤史。お前は髪も満足に洗えないのか?」

 平らな喉仏から、出るはずのない低音。この声は、子どもが出すものじゃない。間違いなく大人の、いや、あの男のものだ。

「本当に、何もできないな」

 目の前の生物はニヤリと笑った。切れ長の目はさらに細くなり、頬には笑窪が浮かんでいた。

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そして、父がくる 井崎弘大 @tesuri

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