10

 帰宅してリビングの扉を開けると、凛花の悲鳴が聞こえてきた。

「大人しく食べてよお」

 足元に散らばる積木やブロック。ダイニングではベビー用テーブルがついた椅子に座る息子が、凛花が持つスプーンを奪い取り、離乳食の入った雲型の皿を笑いながらかき回していた。とろみのある人参や帆立の粒が飛び散り、息子の顔に付着する。凛花はまた悲鳴をあげ、それを見た息子は笑う。ががが、という笑い声は父そっくりで、僕は目を逸らした。

「あ、ちょっと」

 僕がいることに気がついた凛花は鋭い眼差しを向けてくる。僕はおもちゃを踏まないように、ところどころつま先立ちで歩きながら、二人のところに近づいていく。近くで見た凛花の顔は血色が悪く、目の下には隈ができていた。肌はカサカサで頬の肉は随分と垂れ下がっている。

「駄目だろ、言うこと聞かなきゃ」

 僕は水風船みたいにパンパンに張った息子の頬から、べちゃべちゃの米粒をむしり取る。すると、何が可笑しいのか、息子はまた笑った。口からは上下二本ずつ生えた歯が顔を覗かせている。将来はこの歯もヤニで黄ばんでくるのだろう、と僕は思った。

「ご飯あげてくれない? トイレ行ってくるから」

 凛花はそういうと、僕の返事をまたずに小走りでリビングを出ていった。

 僕は改めて、息子と向き合う。笑っている。テレビからは夕方のローカルニュースが流れていたが、その音声を打ち消すように、テーブルをバンバンと叩く。すると、手に持ったスプーンが床に落ちた。それを拾い上げると、餡の詰まった顔中丸だらけのキャラクターが僕を見て笑っている。

 僕はキャラクターの顔を潰すように、力を込めてスプーンを握りしめた。雲の形をした皿からどろどろの離乳食を掬い、息子の口に運ぶ。口を半開きにしたまま近づきスプーンをくわえようとした息子だったが、それは失敗に終わり、口の端に汚れを作った。

「ふ」

 僕は思わず吹き出した。父と同じ顔の生物が、夕食もまともに食べられない姿を見ると、不思議と気分が良い。

「何笑ってんの?」

 いつの間にか戻ってきていた凛花は、僕を睨みつけていた。

「いや、なんでもないよ」

「ちょっと。全然ご飯、減ってないじゃん」

 ちゃんとやってよね、と言って僕からスプーンを取ると、息子の隣に座る。そこで初めて、食卓には息子の食事しかないことに気がついた。

「凛花、ご飯食べた?」

「食べられるわけないでしょ」

 馬鹿なことを、とでも言いたげに凛花の目が吊り上がる。

「ごめん」

「今日はレトルトのミートソースだから。ソースは適当にあっためて、自分でパスタ茹でて勝手に食べてくれる?」

「あ、うん」

 凛花は再び息子と格闘を始め、僕には見向きもしなくなったので、僕は寝室に戻って部屋着に着替えてから、キッチンに立って自分の夕食の準備を始めた。鍋に入れた水が沸騰するのを待つ間、僕はぼんやりとリビングにあるテレビを眺める。

「Z市の住宅で首を絞められた女性の遺体が発見されました」

 昼と全く同じニュースがテレビから聞こえてきた。内容は昼に見たものとほとんど同じで、三木さんが言っていた猫の死骸の話は語られていなかったが、一つだけ、昼にはなかった情報が付け加えられていた。

「女性は市内にある中学校の女性教諭で━━」

 僕は息を呑んだ。またしても、父の事件と同じだった。殺された女性は、父が殺した花江マキと同じく首を絞められていて、さらには「教師」だった。 

 これは偶然なのか。女性教師が殺されることも、その殺害方法が絞殺であることも珍しくはないのかもしれないが、その事件が「僕の住む街」で起こる確率は一体何%くらいなのだろうか。そんな答えのない問題をぼんやりと考えていると、鍋の中の水が沸騰してボコボコと音を立て始めたので、僕は慌てて火を止めた。

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