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 赤ん坊が生まれてから、あと一ヶ月で一年が経とうとしていた。

 似ているのは最初だけだ、成長につれて、顔は変わるものだ。そう自分に言い聞かせながら過ごしてきたが、残念ながら、赤ん坊は日に日に父に似てきていた。切れ長の一重まぶたや笑ったときの笑窪などを見ていると、大嫌いな父の顔が否応なしに脳裏に浮かんでくる。

 僕と父は全く似ていなかった。あまりにも似てなくて、「もしかしたら、本当の父親は別にいるかもしれない」と半ば願望に近いような思いを抱いたことすらあった。それなのに、生まれてきた赤ん坊は、隔世遺伝という形で、僕の中に父の血が流れていることを証明してしまった。

 もう一つ、僕が嫌だったのは、父と瓜二つの赤ん坊を、可愛い、可愛い、と愛でる凛花の姿を見ることだった。凛花は元々愛想が良いほうではなく、身体中から見えないトゲが何本も飛び出ているような人間だったが、こと赤ん坊相手となると、そのトゲを引っ込める。対照的に、僕に対するトゲは本数も増え、その鋭さはどんどん増していった。赤ん坊のことは可愛がりながらも、子育てのストレスは間違いなく存在し、僕はその捌け口になっている。

 そんな家では気持ちが休まらず、今では特別好きでもなかった会社にいる時間が息抜きになりつつあった。特に昼休憩の時間は仕事からも、赤ん坊からも逃れられる大切な時間だった。

「ホント腹立つわ」

 三木美紀子さんがリラクゼーション効果のありそうな熊のキャラクターの巾着を持って食堂に入ってきたのは、ちょうど僕が自分の弁当を食べ終えた頃だった。テレビでは市内の幼稚園で防犯訓練を行ったニュースが流れていて、僕は園の職員と思わしき犯人役の男が、刺叉で挟まれて笑っている姿をぼんやりと眺めていた。

「どうかしたんですか?」

 興味半分、声をかけてほしそうな三木さんの期待に応えなければ、という使命感半分で僕が訊ねると、三木さんは待ってましたとばかりに、「聞いてよ!」と熊の巾着を叩きつけるようにテーブルに置いた。同時に、コワカッタ、とテレビから園児のすすり泣く声が聞こえる。

「中林さんってわかるでしょ? 毎日窓口に来る。あの人が、『来年のカレンダーはどこにある?』って訊いてきたから、『すみません、作ってないんです』って答えたのよ。そしたら、もう、大激怒」

 怪しい人はまず入れないこと、と園長先生が雄弁に語っていた。万が一入ってきても適切に対処することが大切です、と自信に満ちた表情を浮かべていたが、果たして、その言葉をどれだけ実践できるのか。

「『どういうことだ、俺は今まで散々お前らに尽くしてきた、預金を解約してやってもいい、お前の名前はなんだ』って。毎日来てるのに、あたしの名前わかんないのかよ、ってめちゃくちゃ腹立ったわ」

 たくさん文句を言われたであろうに、自分の名前を覚えていない、ということに一番怒っているのが可笑しかった。

 しかし、僕はあることに気がつく。

「それ、嘘じゃないですか」

「え?」

「カレンダー。作ってますよね?」

 僕は食堂の隅の段ボール箱を指差した。その中には卓上カレンダーがこんもりと積まれている。

 僕の勤めている信用金庫では年末にかけて翌年の卓上カレンダーを作成し、お客さんに配っている。たしかに、経費削減の名のもとに作成部数は大分減少しているが、全く作っていないわけではなかった。

「それはあれよ、その方が角が立たないでしょ?」と三木さんは、ふん、と鼻を鳴らした。

「じゃあ、佐藤くんは言える? 『お客さま程度の預金額ではカレンダーはお渡しできません』って。中林さん、いよいよもって手を付けられなくなると思うけど。どう? 言える?」

 無理です、と僕がいうと、それ見なさい、と言わんばかりに三木さんはまた鼻を鳴らした。

 三木さんが言っていることは誇張されていたものの、趣旨は大体合っている。本部から指示された文書には次のような文言が添えられていた。

『カレンダー作成は経費で行われていることを理解し、適切な顧客に配布すること』

 適切な顧客、とは誰のことなのか、僕にはわからない。三木さんにとっては中林さんは「不適切」だったが、僕だったら渡していたかもしれない。毎日窓口に来る人が減っている中で、中林さんのような人は「適切」に思えるが、どうなんだろうか。

 苛立ちを言葉として吐き出したことで気持ちが落ち着いたのか、三木さんは巾着から弁当箱を取り出し、食事を始めていた。弁当箱は熊のキャラクターではなく、世界を牛耳る鼠のキャラクターだった。蓋を開けると卵焼きやウインナーなど、お弁当の定番ともいえるおかずが顔を出す。

「最近どうなの? お子ちゃまは」

 三木さんがウインナーを箸でつかみ、口に入れる。

「つかまり立ちをするようになりました」と僕がいうと、「もうすぐ一歳だっけ? 可愛いでしょ」と微笑んだ。僕は苦笑いするしかない。

「そうだ。これ食べる?」

 三木さんは巾着から鼠マークが散りばめられたお菓子の袋を取り出した。

「中身、チョコだから」

「ありがとうございます」

「行ってきたのよ、こないだ」

 夢の国に、と三木さんはうっとりと宙を眺める。

 三木さんは物心ついた時から「美紀子ちゃん」ではなく、「みっきー」と呼ばれていて、だからなのか、親も鼠のキャラクターのぬいぐるみを良く買い与えた。それに囲まれて育ったことで、半ば洗脳のような形で、その鼠を好きになったらしい。社会人三年目の時に、合コンで出会った警察官の三木さんと結婚した時は、流石に「みっきー」が飽和状態だと思ったらしいが、愛には勝てなかった。ちなみに旦那さんの名前が新仁あらひとであったことも運命を感じた理由の一つだそうで、家には使ったことも、今後使う予定もないランプが置いてあるらしい。

「また十二月に行くのよ。お土産、買ってくるね」

「ありがとうございます」

「もう、子どもたちも大喜びよ」

 三木さんには小学四年生の息子と二年生の娘がいた。名前は保男やすお美万みま。「名前も迷ったんだけど、やっぱり夢の国関連になっちゃうのよね」と教えられた時はしばらく意味がわからなかったが、なるほど、僕はその名前をひっくり返すと、やたらに耳が大きい象とバラエティ番組に使われている鹿が現れることに気がついた。なんというネーミングセンスだろうと、顔も知らない保男と美万に同情したが、怒鳴堂や泥児、亜武羽とならないだけ良かったのかもしれない。

 不穏なニュースが流れてきたのは、そんなくだらないことを考えていた時だった。

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