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父は華江マキを殺した罪で逮捕された。とはいっても殺意があったわけではなく、性行為中の事故ということだった。亡くなった華江マキは父の同僚の女教師で、年齢は父より一回り下だった。華江マキの首には人の手で絞められた跡があり、体からは父の体液が検出された。事件の夜、父は「急な飲み会だった」といって遅く帰ってきたことを、僕は思い出していた。
父が逮捕されたことで色々な感情が芽生えたが、一番は安堵だった。
良かった。これでもう父と会わなくて良い。
父が殺人犯になり、肩身の狭い生活を送るのではという恐怖もあったが、それよりも、父の顔を見ないで済むことのほうが今後の人生にプラスだと思った。
当時住んでいた街は狭く、新聞やローカルテレビで取り上げられたことで、事件のことはあっという間に広まった。「蓬莱」という少し変わった名字だったことで、僕が殺人犯の息子であるということも同級生たちにすぐに知られてしまった。当然、同級生たちは僕を敬遠した。かといって話題にしないことは逆に可哀想だと言わんばかりに、遠巻きに僕を睨みつけては、噂話に花を咲かせていた。
それでも、僕は学校に行くことをやめなかった。別に、「行かなかったら負けだ」などと思っていたわけではない。元々友人もおらず、失う友情などなかったし、それにどうしても、事件のことを自分事として捉えられなかった。それくらい、父は僕にとって遠い存在だった。僕にとっては、名前も知らない街で誰かが悪さをしたくらいの感覚だったし、政治家が税金をろくなことに使っていないというのと大差なかった。これからどうなるんだ、という不安は父が人を殺す前からあったし、何も変わらなかった。
ショックを受けていたのは母だった。しかし、そのショックは父が人を殺したことよりも、不倫をしていたということにあった。「なんで人殺しなんか」とは言わなかったが、「なんで死んでるのよ」とは何度も口にしていた。花江マキが生きてさえいれば私が殺せたのに、と母は思っていた。母には、愛する父に裏切られた怒りや悲しみを、ぶつける場所がなかったのだ。
「何かの間違いかもしれないよ?」
ある日、僕は母に声をかけた。この場合の「間違い」は、「殺したこと」ではなく、「不倫したこと」だ。実際は父の体液が付着していたという証拠があるのに、一体どんな間違いがあるのだろうと、言ったそばから馬鹿らしくなったが、僕はとにかく、母に元気になってほしかったのだ。
しかし、それは何の意味もなかった。
「癖なの」と母がポツリと言った。「首、絞めるの」
僕の気遣いなど、気休めにもならない。
母は世間からの非難の目に耐えられなかった。ゴミを捨てようと家を出れば近所の主婦がひそひそと声をひそめる。比較的近所付き合いを良好に保っていた母だったが、事件以降は誰とも話すことはなくなった。
他にも、スーパーに買い物に行ったら自分が買った後で割引シールを貼りにくるとか、レジに並んでいても後ろには誰も並ばないとか、事件以前には気にならなかったであろうことにまで神経を尖らせるようになっていた。
しばらくして、僕と母は遠く離れた、縁もゆかりも無い街であるZ市に引っ越した。ボロボロの借家に住み、母は二つのパートを掛け持ちした。父が捕まったことは全国ニュースになったわけではなかったし、母の旧姓である「佐藤」というごくありふれた名字を名乗ったことで、僕たち親子が殺人者の家族であるということは周囲に知られずにすんだ。
それでも、母は極力、人付き合いをしないようにしていたが、僕は殺人犯の息子というレッテルを貼られることなく、普通の青春時代を送った。とはいっても、父とは関係ないところで、友人はやはりできなかった。
高校には一応進学したが、卒業後は大学に行くことはせず働くことにした。勉強する気がなくても大学に行くことは許されるが、金が無いのに大学に行くことは許されないと思った。母は奨学金を使って行けば良いと言ったが、自ら進んで借金をする奴があるものかと、その提案を拒んだ。
借金は悪だ。借金は犯罪のきっかけになる。僕には不倫の果てに人を殺めた男の血が流れているのだから、借金苦の末に人を殺めてしまっても何もおかしいことはない。
そんな偏見があったにもかかわらず、担任から信用金庫の募集があると聞いた僕は、就職試験を受けて内定を貰い、働きはじめた。そこには自ら進んで借金をする人間がたくさん訪れた。その時の上司は、「借金は成長のきっかけだ」と言った。「悪は悪でも必要悪だったんですね」と僕が一人で納得していると、「悪じゃないよ」と笑っていた。
その後、大学を卒業して入庫してきた凛花と出会い、友人も作れなかった僕に恋人ができ、結婚することになった。
母に「子供ができた」と報告した時は泣いて喜んでくれたが、結局、母は孫の顔を見ることなく死んでしまった。癌だった。当然、母の死は悲しいことだったが、それと同時に新たな人生が始まるのだとも思った。父の事件を知る人間が周りからいなくなり、僕は新しく自分の家庭を築いていくのだ。そう思っていたのに。
生まれてきた赤ん坊は父と同じ顔をしていた。出産日から、僕は凛花を見舞っていない。「顔見に来なさいよ」というLINEが届いても、仕事が溜まっていると嘘をついて誤魔化してきた。しかし、そろそろ限界だろう。「これは父だ! だから面倒みない!」なんて駄々をこねても通用しない。そんなことをいったら頭がおかしいと思われるし、凛花に「お父さんと似てることの何がダメなの?」と訊かれたら、僕は答えられない。凛花には父は病気で死んだと話している。僕が殺人犯の息子であることは知らない。
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