6

「何もできないな、篤史は」

 ツナ缶と缶切りを前に戸惑う僕を見て、父は笑った。

 寝る前に歯を磨くため、二階の自室を出て洗面所に向かうところだった。リビングからは父と母の笑い声が聞こえていた。父と顔を合わせたくなかったが、洗面所に行くためには二人のいるリビングを通らなければならない。早足で行くべきか、音を立てないように忍び足で行くべきか。僕は迷った末、前者を選択した。当時の僕は急がば回れという言葉を疑っていたし、北風と太陽の話を好きになれない歪んだ中学生だった。

 結局、父は僕の存在に気がつき、声をかけてきた。

「おお、篤史。ちょっと、こっちにこい」

 僕は聞こえないように舌打ちをして、父の方に向かった。ここで無視をできない自分の弱さが嫌だった。

 ソファに座った父の顔は赤らんでいた。隣にいる母の顔はさほど普段と変わらなかったが、テーブルの上にはグラスが二つ置いてあり、いつものように晩酌に付き合っているのがわかった。

「これ、使えるか?」

 父は未開封のツナ缶と缶切りを差し出してきた。「缶切りを差し出してきた」とは大人になった今だから言えることで、その時の僕はそれが何だかわからなかった。何やら尖った部分があるし、缶詰と一緒に出してきたということは、缶詰関連の道具なのだろうか、と思っただけだった。当然、使い方など知る由もない。

「やっぱり、使えないか」

 両手に持ったツナ缶と缶切りを交互に見る僕を、父は笑った。いつもの嘲笑だった。

「今日な、ヤマさんが言ってたんだよ」

 ヤマさんというのは父が慕っている職場の先輩で、僕も度々名前を聞くことがあった。

 父は市立中学校で国語教師をしていた。僕は常々、こんな男の授業を受けるなんて苦痛でしかないだろう、と名前も顔も知らない生徒たちに同情していたが、後々、事件後に新聞に掲載されていた生徒のインタビューを見ると、存外にも慕われている様子だった。「外面」という言葉の意味を本当に理解したのはその時だ。

「自分の息子が缶詰を開けられなくて驚いた、って。それでお前にも試してみたんだけど、やっぱりそうだったか。すげえな。この先、生きていけんのか?」

 父はニタニタと笑う。僕は何も言えずに下を向いた。

「最近の子は使えなくても仕方ないよ」

 母は優しくフォローしてくれたが、父に対する態度はいつもどおり柔らかかった。

「いいか篤史、缶切りくらい使えないとモテないぞ」

 小学生は足が速いとモテるというが、大人になると缶切りを使えるとモテるのだろうか。そんなことはありえないように思えた。

「モテなくて良いよ」とつぶやくと、ががが、と父が笑った。

「どうしてそんなことをいう? 世の中の男はモテることに一生懸命だ。いや、男だけじゃない。女だってそうだ。みんなそうなんだ。何でかわかるか? 一人じゃ生きていけないからだ。一人じゃ生きていけないと、人は本能でわかっている。わかっているから、いずれパートナーを見つけようとする。その時に、モテないやつはパートナーが見つからないかもしれない。見つかったとしても、一人でいるよりはマシだなって妥協した結果になるのは嫌じゃないか? その点、モテる奴はどうだ? 百人いる中から自由に一人を選べなら、絶対そっちの方が良いだろう? 選択肢だよ。選択肢を持て。自分から一本道に入るんじゃない」

 正しいのかどうかもわからない理屈を前に、僕は黙った。父の勢いに気圧され、悪いことをしているような気分になる。

「たしかに、『缶詰が食べたい』って時に、付き合っている男の人が缶詰を開けられなかったら、少しがっかりするかもしれないね」

 母が父に加担すると、父はますます勢いづいた。

「良く見ておけ」

 父は僕からツナ缶と缶切りを奪い取ると、ツナ缶をテーブルの上に置き、蓋の外側に刃を差し込んだ。くりくりと手を小刻みにくねらせていくと、あっという間にツナが顔を出す。

「食うか?」

 下卑た笑みを浮かべながら、父は蓋の開いた缶詰を差し出す。油の浮いた汁に浸かるツナも、僕をねっとりと見ていた。何故ツナ缶を開けられないくらいでこんな思いをしなければいけないんだ。

「いらない」

 父と缶詰から目を背け、洗面所に向かおうとした時だった。

 突然、インターホンが鳴った。

 一瞬、家の中の時間が止まる。

「何かしら、こんな遅い時間に」

 母がぼやきながらソファを立つ。カメラを覗いて「どちら様ですか」というと、訪問者の野太い声が聞こえてきた。

「警察です」

「警察」という言葉が、リビングを静寂で包む。

 警察が何故家に来るのか。しかも、こんな夜中に。良くないことが起こったのだと、その時の僕は漫然とそう思っていたが、それが自分に関係のあることだとは考えていなかった。例えば、隣に住むサカモトさんのおじいちゃんが出ていってしまったとか、そんなことだろう。もちろん、サカモトさんのおじいちゃんがいなくなれば良いと思っていたわけではないが、近くで人が殺されたとか、死刑囚が脱獄しましたとか、そんなフィクションじみた事件は嫌だな、とぼんやりと考えていた。

 少しだけ動きを止めた母は、「何かしら」と訝りながら玄関に向かった。父は自分に関係のあることとは微塵も考えていなかったのか、変わらずに酒を呷っていた。グラスを傾けるのと、自分で開けたツナ缶をつつくのを繰り返している。

「え、どういうことですか?」

 しばらくして、母の声が聞こえた。次の瞬間、悲鳴が僕の耳を突き刺した。

 複数の足音が近づいてくる。家全体が、揺れる。リビングの扉が開いて、体格の良い男が入ってきた。姿は見えないが、後ろに何人かの男が控えていることは雰囲気でわかった。

蓬莱雅史ほうらいまさしさんですね?」

 名前を呼ばれた父は反射的に立ち上がっていた。酒の飲み過ぎで充血した目はつり上がっていた。

「なんだお前らは?」

 父の高圧的な態度にも、刑事は全く怯むことがない。

「華江マキさん、ご存知ですね?」

「え?」

 父の声が揺らいだ。

「昨晩、住んでいるアパートで殺されているのが発見されました」

「はあ? そんなわけないだろ。俺が帰る時には」

 言ってから、父はしまった、という顔をして母を見た。僕がツナ缶と缶切りを見比べたように、母は父と警察の男を不安そうな顔で交互に見比べていた。

「お話を伺いたいので、署まで来てもらえますか」

 刑事が冷たい声で、父に近づいていく。

「待てよ。なんだって俺がそんな」

「死亡推定時刻の午後十一時頃。その時間にあなたが華江さんのアパートから出てきたのを目撃した人がいます」

 父が息を呑んだ。それから、父は何も言わず、大人しく刑事の後について家を出ていった。パニックに陥っていた母は追いすがったが、父は母の方を振り返ろうとはしなかった。その瞳に生気は宿っていなかった。

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